魔法使いの弟子と弟

ミドリ

頼まれた夕日

 集落の外れに立つ荒屋あばらや


 両親の寝室と、ヨルと彼の弟二人の狭い寝室、それに家族が食事を取る居間があるだけの家だ。


 かつて、この家には一家の大黒柱のクルトという兄がいた。


 明るくて優しい兄で、喧嘩っ早く我慢が出来ないヨルが父親とぶつかる度に、間に入って取りなしてくれた。


 ヨルは、兄が大好きだった。


 だけど兄は、半年前に突如として魔力を得た。ヨルに見せてくれたその魔力は凄まじく、兄は恐ろしいと評判の青の魔法使いの元に弟子入りし、酒を飲んでは暴力を振るう父に対抗する力を得て必ずや戻ると言い残し、家を出て行った。


 その日から、この家の大黒柱はヨルになった。


 元々、兄と一緒に日銭は稼いでいた。だから何てことない。きっと兄はすぐに戻ってくる。


 そう信じて、弟たちの声がうるさいと暴れる父の暴力に耐えながら、ヨルはひたすら待った。


 待って、待って待って、半年耐え続けた。


 ヨルは堪え性がなくて、兄の様には出来ない。顔は痣だらけ、身体のあちこちに打撲痕があり、日中働きに出ている先でも、同情的な目で見られはしたものの、皆その日暮らしで精一杯だ。誰も助けの手を伸ばしてくれることはなかった。


 そんなある日、弟が父に言われて酒を割る湯を沸かしていた。ヨルは父親に殴られて鼻血を出している最中で、まだ十歳の弟が代わりに用意させられていたのだ。


 母親は、父親の顔色を窺いつつおべっかを使うしか出来ない無力な女だ。そもそも子供の面倒なんて殆ど見たことはなく、弟たちは兄とヨルとで育てた様なものだった。


「父さん、お湯沸いたよ」


 弟が、口が欠けた椀にお湯を注ぎ入れ、椅子に偉そうに踏ん反り返っている父の元に向かい――床の出っ張りにつまずき、熱湯を父の足に掛けてしまった。


「あちいっ! エリック、お前!」

「熱いっ!」


 熱湯は弟の手にも掛かり、弟はその場で転げ回る。だけど、常に酔っ払い激昂した父は、事もあろうことか熱湯が沸いた鍋の元に行くと、それを弟に向けてぶちまけた。


「エリック!」


 ヨルは咄嗟にエリックに抱きつくと、背中に熱湯を浴びる。


「ぎゃああっ!」


 あまりの熱さに、ヨルはその場でのたうち回った。それを見て溜飲が下がったのか、父は笑いながら再び酒を飲み始める。


「兄ちゃん!」

「水を、水を掛けて……!」

「うん!」


 弟二人が、水桶から水を汲んではヨルの背中に掛けていった。背中が焼けるように痛くて、叫びたい。だけど、今うるさくするとまた父が怒る。もう次は弟を庇えない。


「二人とも……外の井戸まで連れて行ってくれ」

「うん!」


 ヨルは二人に肩を借りると、激しく痛む背中に意識を持っていかれそうになりながらも、何とか外へ出た。


「兄ちゃん!」


 エリックが泣く。その下の弟デールは、まだ七つだ。元々寡黙な子だったが、今は完全に怯えてしまっており何も喋らない。


 痛みを堪えながら、ヨルは二人の弟に笑いかけた。


「エリック、デール。もうこんな家、いちゃ駄目だ」

「え……」


 もう、待ってなどいられない。痛みの所為で浮き出てくる脂汗に視界を奪われながらも、ヨルは一歩前へと進んだ。


「クルト兄ちゃんの所に行こう」

「――うん!」


 幸い父も母も、朝から酒に酔っている。三人がいなくなったことなど、当分気付かないだろう。


 ヨルは二人の手を取ると、かつて兄が向かった方向へと進み始めた。魔法使いの城の場所は正確には知らないが、道は通じている筈だと信じて。


「はあ……っはあ……っ」


 三人はひたすら歩いた。吐き気がするほどの痛みに何度か膝を付いたが、弟たちに励まされ、必死で前へと進み続けた。


 デールは眠そうで、うとうとしてしまっている。背中にはおぶれない、とヨルは腕で抱き上げた。


「く……っ」


 死にそうな痛みに、叫びたくなる。だけどデールは安心した様に寝始めてしまったので、叫ぶ訳にはいかなかった。


「兄ちゃん……大丈夫?」


 エリックが泣きそうな顔で見上げる。


「大丈夫だ。着けばきっと何とかなる」


 歯を食いしばりながら、笑顔を見せた。


 どれくらい歩いただろう。


 視界はとうにぼやけ、いつの間にか訪れた夕焼けが目に眩しい。


「兄ちゃん――あれ!」


 ヨルの手を引っ張っていたエリックが、嬉しそうに前方を指差した。


 あった。恐ろしげな雰囲気の城だが、庭一面に青い薔薇が咲いているからこれだろう。


「エリック……頼む、呼んできてくれ」

「うん!」


 もう足が動かなかった。息をするのも辛い。ヨルはその場にしゃがみ込むと、すやすやと寝ているデールの前髪を指ですいてやった。


 やがて、懐かしい声がヨルを呼ぶ。でも、いつの間にか閉じた目はもう開かない。


「ヨル!」

「兄ちゃ……二人を……守って……」

「ヨル! こんな怪我をして……!」

「お願い……」

「大丈夫だ! 大丈夫だから、ヨルは早く手当を――」


 身体から、何かが抜けていく感覚があった。


 自分の名前を必死で呼ぶ大好きな兄の声を聞きながら、ヨルは瞼の向こうに映る赤い色を見て、最後の息を吐いた。

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