銀麗奴隷チョウの過去回想 3

 生まれて初めて抱きしめられた時のことを憶えていますか? 誰に抱きしめられたかを憶えていますか? その時何を思ったか憶えていますか?


 憶えていない人は、幸せな人なのだと思います。


 だって普通は、物心つく前に経験することなのですから。






 チョウが奴隷になったのは、村を出てすぐのことでした。


 後から、聞いたことですが。

 あの当時は戦争の激化で、王国など他の国の人間や獣人をさらって、帝国で売り捌くというならず者が多く居たそうです。

 流石に問題になったらしく、そういうことをしていたならず者は数年かけて全員が捕まり、死刑台で吊るされたり、一部は減刑と引き換えに最前線に投入されたと聞いています。


 チョウも、王国の森の近くで彼らにさらわれ、帝国に売り飛ばされました。

 でも、今振り返っても不思議と、チョウは彼らを恨んでいません。


 生まれた時から自分だけを恨むよう育てられた子供が、誰を恨めましょうか。

 チョウは、家族も村の人も、未だに恨むことができないのです。

 それに何より、彼らにさらわれなければ、チョウは……あの人と出会うことすらできなかったのです。

 感謝するべきではないか、とすら、チョウは思ってしまうのです。






 呪いとは、魂に突き刺さる楔。

 世界に対して「私はそれをこう見るからそれはこうなる」という力こそが魔力であるのなら、個体に対して「お前はそうなれ、絶対に」と強制する力が呪い。

 チョウにかけられたものは、あの老人がかけた、チョウが好きになった人がチョウを憎むようになる呪い。

 夜に眠ると、呪いに残されたあの老人の思念が、チョウに囁きます。


『世界を救うためなら何をしたっていい。当たり前の話じゃ』


『まさか、たかが命一つの価値が、世界一つの価値と等価だとでも思うのか? 世界の中にいくつ命があると思っている? 思い上がりも大概にしておくがよい』


『誰にも愛されるな』


『誰も愛するな』


『何故生き残っている。同族を全て身代わりにしてまで、生きようとする』


『お前が生きているのは間違っている』


 怖い夢ではなかったと思います。

 ただ、辛い夢でした。

 チョウは生きてちゃいけないんだな、って、何度も何度も再確認させられる夢。

 思えばたぶん、そうして心を縛ることで、チョウが大人になったり、チョウが子供を作ったりするのを妨害する、そういう呪いだったんだと思います。


 眠れば、悪夢の中。

 起きれば、牢獄の中。


 奴隷にされたチョウは首輪を付けられて、地下の牢獄に放り込まれていました。

 空を見上げる自由も、自由に歩き回る自由もなくなって、真っ暗な牢の中でずっと小さなロウソクを見つめていました。


 放り込まれた硬いパンをかじって、小さなロウソクを見つめて、今が終わるのを待ちました。眠くなるのを待ちました。

 ロウソクはすぐに燃え尽きてしまうから、真っ暗になったら壁に近付いて、額を壁に押し当てて、壁に付いた小さな傷や汚れを数えたりしながら待ちました。


 一時間も、二時間も、五時間も、十時間も、ただ眠りに落ちるのを待ちました。

 待つまでの時間が怖すぎて、何も考えないようにして待ちました。

 壁を見るのは、闇を見たくなかったから。

 闇をただ無言で見つめていたら、その向こう側に、居もしない怪物が見えてしまうような気がして、怖かったのです。


 チョウはずっと、一人でしたから。


 怖いものが出て来たら誰も守ってくれないと、そう思っていたのです。


 牢獄の他の部屋から泣き声が聞こえて、狂ってしまった奴隷が上げる奇声が聞こえて、帰りたい、帰してと泣く声が聞こえて……怖いな、でも、羨ましいな、って……チョウは思ったのです。

 他の奴隷には、帰る場所があったのです。

 帰りたい幸せな時間があったのです。


 チョウにはありませんでした。

 だから怖かったけど、羨ましかったのです。


 チョウはただ、チョウが殺した同族の皆が、闇の向こうに化けて出て来るのが怖くて、怖くて……寒さに震えて、空腹に呻いて、一人ぼっちの今に泣いて、それでも壁しか見ていられませんでした。


 本当に許されたいのなら、謝るために、死んだ人達が化けて出て来てくれることを望んでいなければいけなかったのに。

 会いたくなかったのです。

 責められたくなかったのです。


 逃げるように、ずっと壁を見ていました。







 あの頃の記憶は断片的です。

 たぶん、一番現実逃避が強かった時期だったからだと思います。

 上手く現実逃避できていた時は憶えていなくて、現実逃避をし損ねていた時のことを、ぶつ切りで憶えています。


 声が聞こえていました。

 奴隷商人の声だと思います。

 彼らは聞こえていないと思っていたみたいですが、チョウは耳の良い獣人で、獣人の中でも特に耳が良かったので、色んな会話が聞こえていました。

 憶えていたい会話ではなかったと思います。


「管理長、こんな獣人のガキ売れるんですかね?」


「さあな。大人の獣人が全部売り切れてんだ、バカが買っていくかもしれんだろ」


「それは、そういう可能性もあるかもしれませんが……」


 奴隷全体の管理に責任を持つ管理長の男と、奴隷を餓死させないための食事管理担当の男が、二人で話していました。

 食事管理担当の男が懐から取り出したのは、燃えた紙。

 その紙を押し当てられたら、紙がいきなり燃えてびっくりした記憶があります。


「呪詛判定紙がこんなになるってことは、等級めちゃくちゃ高い呪い持ちですよこの子は。本人がおぼろげに憶えてる呪いの内実……この子が恋愛感情を持った相手が憎悪に狂う呪いが本当なら、愛玩用にも売れませんし……捨てるか殺すかした方がいいんじゃないですか? 黙って売ったらうちの評判にも関わりますよ」


「かもな」


「かもな、って。いや絶対そうですって! 皆この子の世話したがらないんですよ! 万が一にでもこの子に好かれたら、呪いに心を操られるって! それは死んでも嫌だって言うから、皆牢の外からパンを投げ込むだけで、洗浄機に放り込むことすらしてないんです!」


 呪いを持っていたチョウは、いっそ魔物の糞よりも穢らわしいものとして扱われていたのかもしれません。

 触れることさえ憚られる、穢らわしいもの。


「なのに綺麗だよな、あの獣人のガキ」


「? それは……そうですね。呪いのせいなのか、珍しい銀狼だからかは、知りませんけども……捕まえた時、あんな薄汚い浮浪児だったのにさらっていこうと皆の意見が一致してたのは、薄汚くてもなおあの子が綺麗だったからですし……」


「そうだ。んで、全然洗浄機に入れてなくても、あのガキは今でも絶世の美少女……って言うにもまだ歳が足んねえか。ま、数年待ったらどうとでもなるだろ。数年養っとくだけで、あのガキはいくらでも使い途が出来るようになる」


「使い途……?」


「この容姿の良さだ。政治で戦ってる奴ならにでも使うだろうよ」


「む?」


「こいつの呪いの肝は、周りの奴らの心を捻じ曲げるってことだ。聖人君子だろうと誰だろうと、一度呪いが発動すりゃこいつを憎まずにはいられない。同性と友情を育んでも、もしほんの僅かにでも恋愛感情の類似が萌芽すりゃ、そこで呪いは発動だ。同性愛者じゃなかろうと、『気の迷い』は心を呪って操るだろうな」


「うっへぇ」


「こいつは永遠に、愛されたい相手には愛されない。そのくせこの容姿だ。このガキが大人になる頃には、皆喜んでこいつに貢ぎ、優しくするだろうよ。そうしてこいつの気持ちが一回でも靡いたら終わりだ」


「人の形をした自走式魔導地雷っすかねえ」


「呪いがなかったら稀代の娼婦にでもなって、そこで客を永遠に狂わせながら暮らしてたかもしれんな! ハハッ! 呪いがあるからそう簡単に男と関係を持たないでいられるんだろうよ。自衛できない容姿良しの女獣人なんて、玩具にしてくれと言わんばかりだ。どうなってたとしても不思議じゃねえさ」


 家族と村の人は、いつか化け物になる化け物の雛を見る目でチョウを見て。

 あの老人は、いずれ世界の脅威になる世界の敵を見る目でチョウを見て。

 奴隷商人は、チョウの容姿と呪いだけを見ていました。


 誰が、今此処に居るチョウを見てくれていたんでしょうね。

 チョウにくっついているものだけを、皆見ていました。

 魔獣の素養であったり、憎悪の呪いであったり、容姿であったり。

 でもしょうがなかったんだと思います。

 『チョウはそんなんじゃない』なんて、一度も叫んだことがなかったのが、あの頃のチョウだったのですから。


「僕ら地獄に落ちるんですかねえ、管理長」


「ハッ。ひょっとしたら天国にも行けるかもしれんぞ?」


「まっさかぁ」


「俺達が捕まえた奴隷がいくつもの奴隷商と国を経由して、最前線に送られる。たらい回しにされてる内に奴隷は全てを諦めて、未来の自由に賭けて死ぬ気で戦い、くたばっていく。それでようやく前線は拮抗してるんだ。俺らがそのへんの村々から人をさらって奴隷にするのを辞めたらどうなる? 前線なんてあっという間に人手が足りなくなって、人類は滅亡して終わりだぜ」


「それは……まあ、そうでしょうけども」


「近年の食糧不足や、魔王軍の侵攻による土地不足だってある。どこの村だって口減らしはやってるさ。じゃなきゃ飢えて村ごと全滅するかもしれないしな。村が若者を前線に送るのと、奴隷商がさらって送るんなら、最終的な結果は同じだ。恨まれ役を奴隷商が担ってる分、俺達が話に噛んでることに感謝してほしいくらいだね」


「そういうもんですかねえ」


「必要悪だよ必要悪。俺達が長年悠々商売できてんのも、俺達の人攫いを前提にして前線を維持してる国があるからだ。俺達は世界を守ってるんだ、ワンチャン天国行きくらいはあるかもだぜ? 世界を救うためなら人攫いだって『妥協』で許される、いい時代になったもんだ! こんなに奴隷商売が捗る時代はそうそうねえよ」


「でもまあたぶん王国の騎士団とかに捕まったら縛り首ですよ俺達」


「それもそうだな! ハッハッハッ」


 さらわれてきて、泣いている子供達を牢に押し込めて、奴隷をたまに鞭で打って黙らせて、誘拐してきた若者を売り捌いて、真っ昼間から酒を飲んでる人がそんなことを言っていたのです。

 チョウはキタさまだけには打ち明けましたが……他の『明日への靴』の皆様が知ったら、どんな顔をなされるんでしょうね。


 今でも、不思議に思います。


 何の根拠もなく自分を正当化できる人達。

 悪いことをしているのに自分が正しいと信じられている人達。

 途中から自分が間違っていることを言っていると分かってるのに、一歩も退かずに主張を変えない人達。

 自分の行動が失敗の原因だと分かっているのに、それを認めないために、目の前の人のせいにして、自分が正しいと言い張る人達。

 色んな人が居ました。

 でも、そういう人達を何人見てもチョウは、どうすればそんなに自分が正しいと信じられるのか、自分が正しいと言い切れるのか、分からなかったのです。


 チョウは、自分が正しいだなんて思えませんでした。

 どうしたって、自分が悪いとしか思えませんでした。

 あの人達は、どんな理屈があって、どんな人生を生きてきて、それで自分が正しいと言い切れる人間になれたのでしょうか?


 『世界を救うためならなんだってしていい』と迷いなく言える人と、『どんな大義があっても相手が苦しんでいるなら自分の正しさを疑うべきだ』と考えるキタさまと……なぜ、世界には、あんなにも両極端な人達が居るのでしょうか。


 分からないのです。


 チョウには、何も分かりません。


 なぜチョウが『自分の正しさを疑わない人』より、『自分の正しさを疑う人』を好きになる者になったのか……それの理由さえ、上手く言葉には出来ないのです。






 正しさは敵を倒すためにあり、優しさは敵とすら分かり合うためにある。


 チョウはそう思います。


 だとしたら。


 チョウは正しい人ではなくて、優しい人になりたかったのかもしれません。


 優しい人に、憧れたのかもしれません。






 始めて見た時、チョウは彼らに好印象を持っていませんでした。


 牢の扉を開けて入ってきたのは、茶の髪の少年。

 牢の鉄格子の外側に、金髪の少年が居ることも分かっていました。

 目がいいので。


 買い手がつかなかったチョウは、ずっと地下に押し込められたまま……ええと、当時は時間の感覚が完全に死んでいたので……日付から逆算すると八ヶ月くらいでしょうか。そのくらい、ずっと地下の暗闇にいました。

 だから、もう限界だったのです。


 闇の向こうに、チョウのせいで死んでしまった人達が、チョウが殺したも同然の人達が見えてきていました。

 だから、もう限界だったのです。


 奴隷商人の人達は、一度チョウの心を壊してから従順な獣人に調教し直す予定だったらしく、途中から食事も限界まで絞られていました。

 だから、もう限界だったのです。


 あの時のチョウは、救いようがないほどにけだものでした。


「ダネカ、ここで待ってて。少し話してくる」


「あ? なんで?」


「君は結構無神経で、奴隷になって落ち込んでる女の子を傷付けかねないから」


「言うなぁお前! 事実だから言い返せねえわ。さっさと戻ってこいよ」


「ありがとう」


 あの方が牢の中のチョウに近寄って来た時、チョウは何もかもを恐れ、何もかもを敵だと思っていました。


 色んなものが削ぎ落ちていって、削がれる度に尖っていって、チョウの中に最後に残っていたもの……『死にたくない』という本能だけが、尖りに尖って、胸の奥に残っていました。


「僕はキタ。あっちに居るのは親友のダネカ。奴隷の君を買いに来たんだ。君が同意を示してくれれば、君を此処から出してあげられる」


「ふぅー、フゥー、フゥーッ! 近寄る、なっ……!」


「僕は君の敵じゃない」


「うるさい! 信じられるか! みんなみんな敵だ、みんなみんな嫌いだ、みんなみんな、チョウをいじめる……チョウを騙す……!」


「僕はしない。絶対に」


「嘘だっ!」


 チョウは、キタさまに襲いかかりました。


 チョウの生涯で最も恥ずべき罪。償いきれない悪行です。


 チョウは優しく語りかけてくれたキタさまに、みすぼらしい奴隷に落ちていたチョウを気遣ってくれたキタさまに、爪を立て、牙を食い込ませたのです。


「キタっ!?」


 ダネカさまがチョウを斬ってキタさまを助けようとして、キタさまがチョウを庇ってくださったのに、チョウは何も分かっていませんでした。

 ただ爪と牙を突き立てて、見知らぬ男を───キタさまを追い払おうと、何も考えないまま、怯える小動物のような抵抗を行っていました。


 キタさまはチョウを倒そうとしたダネカさまと、怯えてキタさまに襲いかかったチョウの間に入って、どちらにも気を使っていました。


「怖かったろう。よく耐えた。よく頑張った。もう怖くない、怖くないぞ、よしよし。僕は君の敵じゃない。僕は君をいじめたりしないよ、よしよし。優しい子なんだな君は。こうして噛んでも、相手が人だから、無自覚に手加減しちゃってる」


 その言葉が、チョウをなだめる言葉であると同時に、ダネカさまに『この子は危険じゃない』と呼びかける言葉であったと、その時のチョウは気付きもしていなかったのです。

 キタさまはチョウに襲われて血を流しながらも、チョウがダネカさまに攻撃されないよう、ダネカさまからチョウを守ってくれていたのです。


 あの時のチョウは、キタさまに襲いかかった愚かな奴隷、キタさまを傷付けた敵でしかなかったのに。

 敵に対しても優しさを向ける、キタさまのその心に触れて、チョウは少しずつ、心に染み込んだ『毒』のようなものが消えていく思いでした。


 キタさまの肩に噛みつき、背中に爪を立てるチョウを、キタさまは抱きしめて、頭を撫でて、背中を撫でて、優しい声で語りかけてくれたのです。


「よしよし。お腹は空いてないかな? 今はそんなに食料の持ち合わせがないから、何か食べたかったらお店に頼もうか。寒くはないかな? 今日は昨日よりだいぶ冷えてる日だからね。上着は……あ、僕のは今穴が空いちゃったか。あはは。隠密用のマントくらいしかないけど、君にあげよう。こんなに冷えてて、体によくないよ。それから……」


「……あったかい……」


 生まれて初めて、チョウは誰かに抱きしめられて、誰かに大切に扱われて、誰かの体温を感じました。

 生まれて初めて、幸せな気持ちになれたのです。


「……君が冷え切ってるんだよ。こんな冷たくて暗いところで一人きりで……ねえ、僕らに買われて、一緒に来ないかい? 僕は、ここから君だけしか掬い上げられないけど、君だけでも掬い上げたい。ここから君を連れ出したい」


「え、ぁ」


 暖かくて幸せな気持ちに流されて、キタさまの差し出した手を取ろうとしたチョウは、ギリギリ思い留まって、伸ばしかけた手を引っ込めました。


「ちょ、チョウは……チョウが好きになった人がチョウを憎む呪いがあるから、貴方に拾われても、迷惑がかかります……それに、また一人じゃなくなって、それからまた一人になったら、チョウはきっと、その一人ぼっちに耐えられません……」


 でも、チョウが引っ込めた手に、キタさまが手を添えてくれました。

 心臓が跳ねて、胸の奥がドキドキしました。

 体温が伝わって来て、暖かくて、なんだか幸せでした。


「大丈夫」


 キタさまの目が、チョウを見つめていました。

 チョウが知らないチョウの気持ちさえ、その目は見抜いているみたいでした。

 チョウが諦めたものも、キタさまは諦めないでいてくれました。

 キタさまはチョウが幸せになる道を途絶えさせないために、懸命にチョウに向き合って、チョウを説得できる言葉を探しているように見えました。


 キタさまは、チョウのために、チョウを諦めていなかったのです。


「一人にはしないよ」


 そして、それは、チョウが特別だったからではありません。

 キタさまはどんな人に対しても、その人がどん底に居るのなら、チョウに対して接するように接する人だったのです。

 誰でも救おうとする人、それがあの人でした。


 チョウにとってキタさまは運命の人でした。

 でも、キタさまにとってチョウは運命の人ではありませんでした。

 キタさまは、チョウだけを救う人ではないのです。

 だから、チョウとキタさまは、決して釣り合わないのです。


「僕にはこの冒険の書があるから大丈夫。この能力は、君の呪いだって無効化できる。君のそれはこのリストによると等級2以上の呪いだ。だけど僕の冒険の書は等級1の呪いまで無効化できてるから、理論上僕が弾けない呪いはこの世界に発見されていない。僕は君を嫌いになったりしない。安心してくれ」


「───」


「呪いでも、呪い以外でも、君を絶対に嫌いになったりしない。約束する」


 生まれた時から、家族にも、同族にも、皆に嫌われて、世界の敵だと、『皆』のために勇者に殺される害悪だと言われて、奴隷商人には呪いで他人に迷惑をかけるだけの爆弾扱いされて……チョウは、汚れたけだものだと、そう確信してしました。

 だから、一生愛されないんだって、思っていました。


 でも。

 そうじゃなかった。

 そうじゃないって、あの人が言ってくれました。

 そうじゃないって、あの人がこれから何年もかけて教えてくれたのです。


 あの人があの時、嫌いにならないと約束してくれただけで、チョウはもう、泣きそうになってしまったのです。

 それは、チョウの心が本当に求めていた約束だったから。


「貴方は……チョウを……いじめないんですか……?」


「君をいじめる何からだって、僕が君を守る。君が望む限りずっと。こんな暗くて、冷たくて、何もない牢獄に、女の子一人放っておけるもんか」


「チョウから、何も奪わないんですか?」


「ああ」


「チョウを……何度でも、抱きしめてくれるんですか?」


「君が望むなら」


「……あぁ……」


 この時のチョウが、あの人にどう見えていたのか、チョウの記憶しか持たないチョウには分かりません。

 でも、きっと。

 あの人は、チョウに、同情してくれたんだと思います。

 チョウは初めて同情してくれたその人に、浅ましくすがりついたのです。


 村で妹のように可愛がっていた勇者カイニが旅立ち、放っておけなくて冒険者になったようなキタさまが、チョウに頼られて、振り払えると思いますか?

 あの時からだと思います。

 だから、最初からだと思います。

 キタさまが、チョウの幸福のためならどんな艱難辛苦も飲み込もうとする、チョウの家族代わりになろうとしてくれたのは。


「君の助けになりたいんだ。こんな呪いを抱えて生きるだなんて苦しすぎる。君の気持ちが分かるなんて言わない。だけど、辛い思いをしてる君を助けたい。他の奴隷は他の人でも救ってあげられるかもしれないけど、君はもしかしたら僕しか助けられないかもしれない。だからここで助けたいんだ」


 あの時のキタさまの言葉の一つ一つの裏に、どれだけの気持ちと感情の渦が巻いていたか、あの時のチョウには、まるで分かっていませんでした。


 ただただ、垂らされた救いの糸を掴もうとしていました。


「そして、僕らを助けてほしい。君の力を借りたいんだ。その目で、耳で、腕で、足で、僕らの力になってほしい。僕らには……僕には、君が必要だ。これは無償の人助けなんかじゃない。僕らは金を出して君を買い、買われた君は僕らと共に戦う。これは人助けじゃなくて、契約だ」


 キタさまの言葉は、チョウをちゃんとした人間扱いしていて、化け物扱いもせず、世界の敵扱いもせず、奴隷扱いすらせず、ただただまっすぐで。

 何より、チョウにするべきことと居場所を提示してくれるものでした。


 チョウにできること、チョウにやってほしいこと、チョウに求めるもの、それをハッキリと示すもので、チョウの『これからの』存在価値を示す言葉。

 だから幼いチョウは、おそらくはキタさまの期待した通りに、『そうすればチョウは必要としてもらえる』と思いました。

 これからどうしていけばいいのかを婉曲的に教えてもらって、自然と未来に展望と希望を持ったのです。


 ……キタさまにとっての想定外は、この時のチョウがもう、『このあったかい人にまた抱きしめてもらえるならなんだってしたい』って思い始めていたことかもしれません。あの人は、他人が自分に依存することを良しとしない人でしたから。


 しょうがないじゃないですか。

 何もかも、初めてだったんです。

 初めての人だったんです。

 チョウに優しくしてくれる人を、キタさましか知らなかったんです。


 チョウの牙と爪で血を流しながらも、チョウを許し、チョウに期待してくれる人なんて、この世界にあの人しか居ないんだって、そう思ったのです。


「僕は哀れみで君を救うんじゃない。君が必要だから君を求める。それでいいなら、この手を取ってくれ。どうか叶うなら、最後の最後まで、共に戦おう。獣の君」


 キタさまが差し伸べた手を、一も二もなく、チョウは取りました。


「……はい。その言葉を信じます。貴方に永遠の忠誠を。いかなる無理もお命じください。この命に変えても、必ず果たして見せましょう」


 チョウの手があったかい手に優しく包まれて、生まれて始めて、自分の表情が自然とほころぶ微笑みの感触を、チョウは知りました。


 あの瞬間から、チョウはこの世界に生まれ直したのです。


 今在るチョウは、あの日に生まれたチョウなのです。


「キタ、終わったか」


「ダネカ。ごめん、待たせて」


「『血まみれで心配させてごめんなさい』だろうがぁ!」


「あいたっ」


「ったく」


 キタさまと、ダネカさまと、チョウの三人で、始め直したのです。


「名乗っとくか。俺はゴールデン・アンド・ゴールデンのダネカだ、よろしく」


「僕はキタ。剣士のキタだ。君の名前を、君の口から教えてほしいな」


「……チョウ、です。ワリの尾住まいの、銀狼族です……」


 チョウが彼らに最初に貰ったものは、『明日への靴』でした。


 お二人にチョウは未来を貰ったのです。

 今未来を生きているチョウの全ては、あのお二人に貰ったものなのです。

 だからこの時からずっと、チョウはたとえようもないほど幸せです。


 『もしかしたら明日にいいことがあるかもしれない』と思いながら生きることは、普通の人にとっては普通のことかもしれませんが、チョウはそれが当たり前でない幸福であることを知っています。

 それをお二人に貰ったのが、チョウでしたから。


「行こうか、チョウ」


「……キタさま、その、えと……」


「外の世界が怖い?」


 キタさまに見透かされたチョウは、ただ頷きました。


「……はい。やっぱり、普通の人は、チョウを嫌いになるのが普通で、チョウをいじめるのが普通で、勇者はいつかチョウを殺しに来るんじゃ……」


「手を繋ごう」


「え」


「僕は弱いから、君を守れない時があるかもしれない。でも、君が知らない場所に行く時も、君を傷付けるものが居るところに行く時も、君の隣に居てあげる。敵が現れたら、君と手を繋いだまま一緒に逃げる。僕は君の年上のお兄さんだからね、ちょっと長く生きてる分くらいは、君の手を引いて行けると思うよ」


「ぁ……」


 ずっと、ずっと、キタさまが好きです。


 初めて会ったその日から、ずっと。


 心が迷子になっている子供を絶対に見捨てず、いつもどこかで迷子の子供の手を引いているような、あの人が好きです。


「……ずっと、繋いで、くれるんですか? お父さんもお母さんも、手を繋いでって言っても、絶対に繋いでくれなかったのに」


「……っ、……もちろんだよ。この世界は君の敵じゃないし、君は世界の敵なんかじゃない。君を愛してくれるものもたくさんあるんだ。君がそれを知って、君を縛ってるものが全部無くなって、君が誰のためでもなく、自分の幸せのためだけに生きられる未来がきっとある。そこまで君を連れて行く。絶対に。約束する」


 擦り傷だらけの痩せ細った私の手を握って、あの時のキタさまが何を思っていたのか、チョウはずっと気になっているのに、結局まだ聞けていません。


 でもきっと、優しいことを考えてくれていたんだと思います。


「あ、あの! 両手で手を握っても、い、いいですかっ!?」


「……構わないよ。君がしたいようにするといい。君がしたいようにして、僕が君に注意することはあっても、僕が君を嫌うことはないから。僕の顔色なんて窺ってないで、好きに振る舞っていいんだよ。敬語だって要らないくらいだ」


「そっ、それはっ……すぐには、難しそうです……」


「あはは」


 キタさまが優しかったから、チョウはまた歩き出せました。


 チョウを助けてくれたのはキタさまで、チョウにとってキタさまは誰も彼もを救ってくれる素晴らしい人で……でも、本当は違ったんです。

 キタさまは自分のことを『全然誰も助けられていない奴』と思っていて……そんなキタさまを完膚なきまでに救うことは、誰にもできないことだったのです。

 この時だって、そうでした。

 キタさまは、チョウを救った事実に誇らしく胸を張って帰ることなんて、できなかったのです。


 地上に上がろうとした直前、チョウ達の後ろの牢の一室から、声がしました。




「わたしは助けてくれないの……?」




 肝が冷えるような声でした。

 誰の声かも分かりません。

 男の子の声だったのか、女の子の声だったかも分かりません。

 でも、子供の声だったような気がします。


 キタさまがチョウを救って行くのを聞いて、キタさまがチョウにかける優しい言葉を聞いて、他の奴隷が発した言葉でした。


 チョウは振り返るのが怖くて、キタさまの手をぎゅっと握って、キタさまの顔を見上げて、ビックリしました。

 一瞬だけ、キタさまが──チョウが知る限り──ダネカさまにも見せたことのないような表情を浮かべていたのです。


 泣きそうで、怒っていそうで、何かに必死に耐えているような、そんな顔を。


「そんなに優しい言葉をその子にかけられるのに、他の子は、私達は、見捨てていくんだね、君は。心は痛まないの?」


 『私達を見捨てて行く癖に善人面するな』と、牢獄の奥の闇の中から響く声が、キタさまを責めて、キタさまに刺さっていくのが、目に見えるようでした。


 誰だって助けようとするキタさまが、此処に居た奴隷の内一人しか助けられないから、チョウを選んで、他の子供の誰も助けないことを決めて、『見捨てる痛み』に心を穿たれて……それで、何も思わないわけがないのです。


「───っ」


 11歳ですよ。

 この時のキタさまは、まだ11歳なんです。


 8歳の時、6歳で魔王を倒しに旅立った幼馴染の女の子を助けるために旅立って。

 剣を握って、人を守るために戦って。

 何度も失って、何度も守れなくて、何度も自分の無力さに打ちひしがれて。


 ダネカさまのお金で奴隷から仲間を買うから、キタさまは失敗なんてできなくて。

 仲間集めに失敗すれば、きっとどこかで人を守りきれなくて、はじまりの街を魔獣が襲った時にで味わった気持ちを何度でも味わうことになるとわかっていて。

 人を救うためには、ちゃんと強い仲間を確保しないといけないと焦っていて。


 キタさまはチョウを目にしたら、チョウも救わないと、冒険の書を持っている自分にしか救えないんだから、って思ってしまって。

 チョウに無責任なことを言えないと思っているくせに、チョウを勇気付けるために、チョウに希望を持たせるために、いくつも無理な約束を結んで。


 キタさまのせいでもなんでもないのに、救えなかった奴隷の責める声を聞いて、自分のせいだと思って背負い込もうとするのが、あの人でした。


 自分に責があると思えば誰のことだって背負おうとするから、冒険者として戦って守れなかった人のことも、助けられなかった名も知らない奴隷のことも、普通なら買おうとも思わない呪われた地雷案件のチョウのことも、絶滅存在ヴィミラニエのことも、全部背負おうとするんです。

 それはキタさまを潰そうとする重荷であると同時に、キタさまがチョウを救ってくれた理由でもあるから、チョウは肯定も否定もできません。


 今選べる最善を選んでいるはずなのに、救えなかったものが泥濘のようにキタさまの足に絡みつき、キタさまを責める。

 キタさまが我慢してるだけの人なんだって、皆分かってるはずなのに、それでもキタさまにしか救えない人がいっぱい居るから、背負うものは増えていくのです。


 『僕は悪くない』だなんて、キタさまは絶対に言えないのです。

 だって、キタさまは、きっと、チョウと同じくらいには、自己正当化が上手くない人だったから。

 ずっと、自分の正しさを疑う人だったから。


「……」


 キタさまの罪悪感でずたずたになっていく心は、顔に出ていました。

 それを見て、チョウの胸の奥に、衝動が生まれました。

 上手く言葉にできない衝動です。


 助けたい。救いたい。守ってあげたい。抱きしめてあげたい。許してあげたい。貴方は悪くないよって言ってあげたい。キタさまを曇らせる全てを打ち倒したい。誰かを救った貴方は褒められこそすれ責められる謂れはない。他人に優しくしただけのキタさまが苦しむ必要なんてない。でもきっと、この時のチョウが何を言っても、守られるだけの子供だったチョウの言葉がキタさまの心を救える可能性なんてなくて。


 チョウはその時からきっとずっと、キタさまの重荷を変わりに背負いたいと、キタさまを救いたいと、キタさまを幸せにしたいと、そう思っています。


 それが、生まれて初めてチョウが抱いた、『誰かのための願い』でした。


 チョウはこの時、何も知らず吠えるだけのけだものから、誰かのために生きたいと思える、キタさまのために生きたいと願う、ただの人になれたのだと思います。


「行きましょう、キタさま」


 チョウは、キタさまの手を引いて、駆け足で地上に飛び出しました。


「えっ……チョウ?」


「貴方がここで、チョウを選んだこと。チョウを救ったこと。チョウを抱きしめてくれたこと。チョウの手を取ってくれたこと。それが全部正しかったと、証明してみせます。貴方は何も間違ってないって、貴方が胸を張って言えるようにします。貴方が後悔しないように、チョウは精一杯生きます。それで貴方の心がほんの少しでも救われるなら、チョウはなんだってしてみせます」


 この世界は、優しい人でなければ救えない人が大勢居て、その人達を救うために優しい人で居ようとすると、永遠に苦しむように出来ています。

 チョウは、この世界が優しい世界だなんて思ったことはありません。

 この世界が優しい世界だったらあの人はあんなに苦しんでいませんし、あの人の優しさは全ての人を救って、大団円になってくれるはずなのです。


「だからどうか、後悔しないでください」


 でも、現実はいつも残酷です。

 あの人はいつも取り零して、いつも助けられなかったものを数えています。


「チョウは今日、キタさまの優しさに救われました。神様にも、運命にも、他の奴隷にも、それだけは絶対に否定させません」


 でも。

 チョウが幸せそうにしているだけで、とても幸せそうになる人は。

 チョウの幸せを、自分の幸せのように感じてくれる人は。

 チョウの幸せを、自分の幸せ以上に願ってくれる人は。

 あの人が、初めてだったのです。


 だから、あの人のためだけに生きていきたいと、天に願ったのです。




 冒険の書に記録されたチョウの記憶と違い、世界に生きているチョウの記憶は虫食いで、多くのことを忘れていて、心の奥底でおぼろげに辿るべき運命を認識していて、そのせいで色んなことを恐れていました。


 英雄を好きになり、呪いで誰からも嫌われ、先祖の形に還って、世界の敵になり、勇者に滅ぼされ、誰にも愛されることなく死を迎える。それがチョウの運命。

 チョウは、その運命に抗う意思を、無意識の底から湧き上がらせました。


 だって、運命の言う通りにしたら、チョウはキタさまの傍に居られませんし、キタさまに愛……大切にされることもないですし。

 何より、キタさまのために生きることもできません。

 それだけは、絶対に嫌でした。

 記憶が虫食いでも、おぼろげに憶えていた運命に、チョウは抗おうとしました。

 だって、運命よりもキタさまの方が、ずっと大事でしたから。


「おう、キタ、チョウ。さっさと上がって来ねえからどうしたかと思ったぞ」


「ごめんねダネカ、僕がちょっと躓いちゃって」


「おいおい、しっかりしろよ相棒! これから歓迎会とかやるんだろ?」


「うん。バイキングのお店とか行こうか。なんでも好きに食べられるところに」


「お、いいねえ!」


「チョウの好きなものを探しに行こう。まずは好きな食べ物からかな? 世界に好きなものが増えたら人は幸せになっていける、ってのが僕の持論でね。チョウも好きな食べ物、好きな場所、好きな服、好きな遊び、そういうのを探していこう。見つからなかったら、僕も一緒に探すからさ」


「キタさま……はい、よろしくお願いします」


 『もう一つ目は見つけました』と思いながら、チョウはぎゅっと、キタさまの手を握って、楽しく笑ったのです。


 チョウが不幸な子だなんて、誰にも言わせません。


 チョウはこんなにも、出会いの幸運に恵まれたのですから。


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【第一章完結】「後悔は心をあの時間に遡行させるタイムマシンなのさ」と、彼女は言った。 オドマン★コマ / ルシエド @Brekyirihunuade

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