コーヒーを一杯(Respect for “Again Message”)

緋雪

ある雪の日に

 ふわりと白いものが私の目の前を落ちていった。私は空を見上げる。

「雪…。」

この街には珍しく雪がちらつく。こんな南の地でも2月はやはり寒かったのか。

 もう、この地を離れて20年以上になる。どんな気候だったかも忘れてしまっているようだ。うっかり薄手の上着を着てきてしまったことを後悔する。


 駅までは歩いて10分とかからない。早足で歩けば、駅で少しは寒さも凌げるだろう。トランクの中から着替えも出せる。

 そんなことは、わかっている。そんな現実的なこと、大人的なことはわかっているのだ。


 けれど、私は、この通りをゆっくりと歩きたい訳があった。



 あれは高校生の頃、いや、もっと前からだったかも知れない。私には、好きで好きでたまらない人がいた。好き過ぎて、話も出来なくて、遠くから見ているだけでよかったのだ。否、本当は、近くで顔を見ながら話したかったのかもしれない。そんな勇気は私にはなかった。


 告白もできなかった私は、バレンタインデーという一世一代のチャンスを迎える。


 悲しいかな、彼の家はお菓子屋さんだった。

 私は意を決して、そのお菓子屋さんでチョコレートを買った。彼のお母さんに、綺麗にラッピングしてもらって、お金を払い、商品を受け取った。そして、それをお母さんに手渡す。

「えっ?」

「あの…これ、ケイ君に渡して下さい。」

恥ずかしくて、物凄く小さな声になった。


 お母さんは、可笑しそうに、私の名前を聞いてきた。

「いえ、いいんです…渡してもらえれば…。」

そう告げると、逃げるように走って家に帰った。ドキドキドキドキ…もう心臓の音が皆に聞こえてしまうのではないかと思うほどに大きくなっていた。


 次の日の朝、彼と一瞬目が合って、微笑まれた気がした。いいや、気がしただけかもしれない。私はすぐに目をそらしてしまったから、よく見ていないのだ。どうしても、どうしても、遠くから気付かれぬように見ているのが精一杯だった。


 ホワイトデーには、何も返ってはこなかった。

「振られたんだ…。」

そう思った。涙は出なかった。多分そうだろうな、と思っていたから。


 大学生になって、たまたま大学近くの駅でバッタリ会ってしまった。真っ直ぐ歩いてくる彼が、私を見て、微笑みながら手を上げる。ダメだ。直視できない。視線を落として、無言で通り過ぎた。

 その間、つきあっていた人もいた。その人のこともちゃんと好きだった。なのに、なんでだろう。なんで、私は、彼の前ではこんなに駄目な女になってしまうのだろう?


 ごめんなさい。好き過ぎて辛いのです。



 そんなこともあったよな。てのひらで雪を受けながら、思い出す。


 駅へ向かう道の信号は点滅し、赤に変わった。

「行こう。」

私は向きを変えて、青に変わったばかりの信号を渡る。

 今日でなければ…もう今日でなければ行けない気がしていた。


 カランコロン


 とても懐かしいベルの音とともに、その喫茶店のドアが開く。

「コーヒーを。」

注文して、座った。

 客はいない。 

「ケイ君はお元気ですか?」

注文を取りに来たのが、彼のお父さんだと知っていた。

「ええ…。失礼ですが?」

「学生時代の同級生です。」

「そうだったんですか。生憎あいにくケイは、こちらではなく、もっと街の中心の方に勤めてましてね。」

「そうですか。」

いないとわかって、どこかでホッとしている自分がいた。


「ケイは、今でも独り身でねえ。」

お父さんは、私の結婚指輪を見ると、

「いい人がいればよかったんだけど…。」

そう言って笑った。


「私、学生時代、ケイ君のことが凄く好きだったんですよ。」

何故、お父さんにその気持ちを告げているのか、自分でもわからなかった。

「そうですか。そんな奇特な人がいたんだなあ、あいつにも。」

お父さんが笑ったので、私も可笑しくなって笑ってしまった。

「あの、お名前は?」

お父さんに聞かれる。

「山本といいます。」

「いえ、旧姓の方を…」

「いえ…いいんです。」

にっこりと笑うと、私は店を後にした。


 美味しいコーヒーだった。


 

 私は、もう何の迷いもなく、駅へ続く道を歩いた。多分、もう、この通りを歩くこともないだろう。



 会えなくてよかったです。

 あなたに、会えなくてよかったです。



 晴れ晴れとした心で、私は夫の待つ「私の居場所」へと帰っていく。

 


 いつの間にか雪はやんでいた。

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コーヒーを一杯(Respect for “Again Message”) 緋雪 @hiyuki0714

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