浮き輪とカジキマグロ

ミドリ

浮き輪とカジキマグロ

 魚住うおずみるい。人は彼を、魚類ぎょるいと呼ぶ。毎日学校のプールで泳ぎ、肌は紅茶色だ。目が大きく、冬場はそこまで目立たないそれが、夏になると焼けた肌とのコントラストで一気に魚類感を醸し出す。


 そんな魚類と私は、群青色が茜色を侵食し始める時間帯に、通学路を歩いていた。


 周りはほぼ畑。街灯など存在しない通学路は、虫の大合唱を楽しめる特典付きだ。うるさいが、沈黙になっても誤魔化されるという利点もある。家がある場所から更に奥へ進むと、穏やかな波の少ない海に出る。昔そこで溺れたことがある私にとっては鬼門だ。


「一年だと多分大会は出られないけど、応援に行くだけでも楽しみでさ!」

「へえー。いいね、そういうの」

「高津も運動系の部活すればいいのに」

「運動、苦手なんだよね」


 そう言って、頭を掻いた。私は、驚くほど運動神経が悪い。走れば転び、ボールは避けられず、大縄跳びでは真っ先に足を引っ掛けるのだ。


「……俺が選手に選ばれたら、高津、応援に来てくれるか?」


 魚類が、正面を見たままぼそりと尋ねる。


「せ、選手になれないんじゃなかったの」

「タイムが良かったら、ぎりいけるかも」


 それに、と魚類が前方を睨む様に見つめた。


「……来るなら、が、頑張るしかないだろ」


 私が行く前提で進む話に、つい釣られる。見事な迄の一本釣りだ。


「じゃ、じゃあ、出てよね」

「出るよ! 出てやるし!」


 こうして、魚類の肌が紅茶色から珈琲一歩手前の焦茶色になる頃、魚類は大会出場権を手に入れたのだった。



 大会を今週末に控え、私はソワソワとしていた。水泳部に縁もゆかりもなければ出場者の親類でもない私が、一体どういった顔をして会場に赴けばいいのか。私は、魚類の彼女でもなければ級友でもなく、ただ単に帰る方向が一緒の近所の人間に過ぎない。


 そして、いいことを思い付く。二つ下の弟を同行させるのだ。これなら、暗い夜道を安全確保の為付き添ってくれている魚類への日頃の感謝を込めて姉弟で応援する、というギリギリ何とかいけそうな体裁を保つことが出来る。


隼人はやと、お姉ちゃんにちょっと買収されない?」


 万年金欠の弟、隼人がぴくりといい反応を示した。


「今度の週末なんだけど、魚類の水泳大会の応援に行くって話になって」

「姉ちゃん泳げない癖に水泳部の彼氏出来たの? 類くんも物好きな」


 ちなみに、隼人は幼い頃から魚類に纏わりついている魚類のフンだ。面倒見がいいから一緒にいて楽なんだよね、と長年連れ添った夫婦の様なことを言っている。通学路に痴漢が出たと聞き心配した母がツテを頼り、私を帰りに送ってもらうことにした。そのツテが、隼人なのだ。


「……彼氏じゃないし、ただ応援に来てくれって言われただけだし」


 ぼそりと答えると、隼人は思い切り人を憐れむ目付きで見た。


「……類くんも変わってるよなあ。こんながさつで鈍感なのを」

「今がさつって言った? 一緒に行ったら二千円あげようと思ったのに」

「お姉様ごめんなさい! この口が勝手に悪い言葉を!」


 隼人が可愛らしく拝むので、姉弟仲が悪くないと思っている姉の方の私は、許してやることにした。



「明日、隼人と行くことにしたよ」


 明日から夏休みという今日も、私と魚類は一緒に帰る。部活に加入していない代わりに、私は美化委員をやっていた。登校最終日となる今日は、大掃除の日。だけどこうして魚類と過ごす時間を提供してくれるから、掃除も悪くない。


「隼人も来てくれるの? 会うの久々だなー」


 暗い夜道で魚類を見ると、目だけが白く浮いて見える。


「それにしても、本当に真っ黒だね」


 私がケラケラ笑うと、魚類が戯けた風にニヤリと笑った。


「最近、クラスの奴らに回遊魚って呼ばれる様になった」

「回遊魚?」


 魚類が、深海で自分を照らす提灯鮟鱇の様に、白い歯を闇に浮かばせる。


「鮪とか、鮫とか、鰹もそうらしいよ」


 魚類が、少し自慢げに説明をする。


「エラを自分で動かせないから、泳いでないと呼吸が出来なくて酸欠で死んじゃうんだってさ」

「泳いでないと死んじゃうって、正に魚類じゃない」


 いつでも泳いでいるイメージしかない、明るく元気で健康的な男子。ここまで真っ直ぐに好きなことに打ち込める魚類を、私は羨望が混じった感嘆の思いでいつも眺めている。


「だろ? 最初に言った奴凄えって思ったもん」


 あはは、と穏やかに笑う魚類が、その魚類っぽい目で一瞥をくれた。


「で、さ。だったら、俺はまぐろがいいなと思った」

「鮪? トロ美味しいもんね」

「ちげえよ」


 私が答えると、魚類が私の頭を軽く、あくまで優しく小突く。私の心臓は、文字通り飛び跳ねた。魚類の目は忙しなく彷徨っている。多分きっと、私の目も同じ動きをしているに違いない。


高津たかつ有香ゆうかのゆ、有と、魚へんで、ま、鮪かなって」


 魚類の頬は、黒過ぎて赤いかどうかも判別つかなかったが、もし今が冬だったなら、鮪の赤身の様な色が見られたんじゃないか。


「まっ鮪なら、カジキマグロとか滅茶苦茶速そうだよね!」

「お、おう! カジキいいな!」


 一体何の会話をしているのか。互いに馬鹿みたいに目を泳がせながら、あははえへへと変な笑いを繰り出す。怪しげな笑いの応酬が急に止み、鳴き叫ぶ虫の声に助けられたなと思った、その時。


「なあ、大会終わったらさ……海、行かないか?」


 海が怖い。そんな感情すら、吹っ飛んだ。


「泳げないんだけど……いい?」

「浮き輪引っ張って、沖まで連れてってやるからさ」

「じゃ、じゃあ……行く」

「お……へへ、うん、約束な」


 身体中から、熱が発せられる。もしかしたら、夏の気温上昇の一部に貢献してるのかもしれない。私の体温も、そして魚類の体温も。そんな馬鹿なことを考えている内に私の家に辿り着き、私達は手を振り合って別れた。



 大会当日。部員達は早めに現地集合するそうなので、私と隼人は開始時間の少し前に到着する様に会場に向かっていた。


「暑いよ。コーラ飲みたい」


 顔を真っ赤にして隣を歩く隼人が、ぶつくさ言う。


「着いたら買ってあげるから」


 但し、賃金の二千円から差っ引かせてもらうが。


 焦げ目みたいにアスファルトに貼り付く影を凝視しながら、足を前へと進めていく。すると、前方から救急車のサイレンの音が聞こえてきた。この暑さだ。どこかの老人が熱中症で倒れたのかな、そんな風に考えている間にも、サイレンはどんどん近付いてくる。


 殆ど車の通りがない癖に片側三車線の大通りをこちらに向かってくる救急車。私達の横を通り抜けた瞬間に高音で耳障りだったサイレンの音が低いものに変わり、不快感が激減した。


「熱中症に気を付けましょうだよ、姉ちゃん」

「分かった分かった、着いたらコーラね」


 さすがは姉弟、同じことを思ったらしい。苦笑しつつ歩いていくと、ようやく会場に辿り着く。暑かった。ようやく涼めると思ったが、建物の入口に人だかりがあり、入れない。隼人は、一人すいすいと人波を縫って泳いで行ってしまった。


 だが、鈍臭い私は立ち往生する。すると、どこかの学校の教師か父兄なのか、中年の男達の会話が耳に飛び込んできた。


「さっきの子、あれ選手?」

「らしいよ。あの子供の親、あれだけ騒ぎ起こしたのにまた子供放ったらかしにしてるよ」

「あの選手の子も、可哀想に」


 何の話だろう。会話中にスイマセンと割り込むことも出来ず、男達の横をウロウロする。その奥では、コーラを激しく欲する我が弟が、早く来いと苛ついた表情を浮かべながら手招きしていた。財布が来なければ、隼人の喉の乾きは癒やされない。


「あんな真っ黒になるまで練習したんだろうに」

「そういやあの子、仲間に魚類って呼ばれてたな。そのまんまで、こんな時なのに笑いそうになったよ」


 え、と思わず男達の肩を思い切り掴んだ。


「魚類? 魚類がどうしたんですか!」


 いきなり私に肩を鷲掴みにされた男達が、顔を引き攣らせている。


「今、魚類って言ってましたよね!」


 私の剣幕に慄いている男達に、隼人が人の良さそうな笑顔で近付いた。


「すみません、その人、こんな顔してました?」


 そう言いながら、どこぞの探偵か警察の様にスマホの画面を男達に見せる。何で魚類の顔写真のデータが隼人のスマホに存在するのか。画面を見た男の一人が、大きく頷いた。


「そうそう、この子だよ!」


 会場内に入れなくて、日差しが激しく突き刺さって暑いのに、私の全身にぞわりと鳥肌が立った。



 男達の説明によると、小さな男の子が、道路脇でトンボを追いかけ走り回って遊んでいたそうだ。男の子は、道路の方に飛んで行くトンボを追う。殆ど車が通らない道だから、周りの大人も「危ないなあ」とは思いながら、放っておいた。その内に親が止めにくるだろうと。


 そこへ、うちの高校の水泳部一行が通り掛かった。タイミングの悪く、道路に飛び出した途端に迫る車。固まる男の子。


 それを見た魚類が飛び出すと、男の子を拾い上げ、中央分離帯に転がる様に飛び込む。車はクラクションを鳴らしてそのまま走り去り、男の子は号泣。


 起き上がらない魚類を助けようと仲間が助けに向かうと、魚類の足首がぼっこりと腫れていた、という訳だ。急ぎ皆で歩道まで運び、救急車を呼んだ。


 大丈夫だから大会に出させてくれと涙目で顧問に懇願する魚類。だが、「お前一人の大会じゃないんだ」と部長に言われ、その後は黙り込んだ。


「あの部長くん、偉いよね。魚類くんを見送った後に悔し泣きしてた姿がさ、ああ、悪役を買って出たんだなってこっちまでもらい泣きしそうになったよ」


 男の子の父親が見つかったのは、その後だった。現場は騒然としていたが、事情を説明された父親は実感が湧かなかったのだろう。子供に「飛び出しちゃ駄目だろ」とだけ言い、どこの誰が怪我をしたのかも聞かずに会場内へと戻って行った。


 そして男の子は、先程恐ろしい思いをしたことも忘れてまた外で一人遊んでいる、と会場前の広場で今度は蝶を追いかけている男の子を男達が指差した。


 何も言えず、俯くことしか出来なかった。あんなに真っ黒になるまで頑張ったのに。せめて助けた子供の親が魚類の努力を無駄にしたことを反省してくれたら、まだ救いようもあっただろうに。


「姉ちゃん、類くんの連絡先知ってんだろ? 連絡してみたら?」


 隼人が、居心地悪そうにモゾモゾしながら、私の顔を横から覗き込んできた。


「……知らないもん」

「え、まじ?」


 涙が、ボタボタとコンクリートの地面の上に落ち、すぐに染み込んで蒸発していく。


「だって、どうやって聞けばいいのよお……っ!」


 隼人が横で「お互い奥手過ぎ」とぼやいていたが、言い返せなかった。声を上げながら泣き始めた私の手首を掴むと、隼人は男達に礼を述べ、元来た道を戻り始める。


「うぐっ! うえっ! えええええっ!」

「分かった分かった。俺から連絡入れておくから。な?」

「うええっ! おう、んええっ!」


 どうしてこんなに泣けてくるんだろう。泣きたいのは魚類の方だろうに。きっと今頃、悔し涙を流しているだろうに。


 ふと、気付く。私は恐れているのだと。泳げなくなった回遊魚の魚類が、息が出来なくなって死んでしまうことを。


 炎天下、隼人に手を引っ張られて帰路に着く。悲しくて怖くて、私の涙は家に着いても暫くは止まらなかった。



 ソファーで仰向けになり腫れた瞼を保冷剤で冷やしていると、近くの自販機でようやく入手したコーラを飲みつつ、隼人が寄ってきた。


「類くんから、今日はごめんって」

「何で魚類が謝るの!」


 ガバッと起き上がると、隼人が呆れた顔をして私を見ていた。

「酷え顔。――ほら、無駄足になったからって」

「そんなこと、ないもん……」


 無駄なことなんてない。魚類は、困ってる人を見捨てない格好いいところを見せてくれた。


「怪我は、捻挫だけで骨に以上はないって」

「あ……よかった……!」


 だったら、安静にしていればまたすぐ泳げる様になる。窒息する前に、また泳ぎ出すことが出来る。そう思ったのに。


「海、行けなくなってごめんって」


 え、と声を詰まらせる。だって、まだ夏は始まったばかりじゃないか。この先、まだまだ行く機会はきっとある筈なのに。


「その……調子に乗って、恥ずかしくて、顔を合わせられないってさ」

「何それ……!」


 ちょっと貸して、と隼人のスマホを奪い、本当にそう書いてある画面を見て、無我夢中で文字を打つ。治ったら行こうよ、私は行きたいよ、と。既読は一瞬で付き、返事を待っていると。


『ごめん』


 そのひと言を最後に、何を送っても既読は付かなくなった。



「……夏休みなのに暗いなあ」


 部屋からほぼ出てこない私に、呆れた口調で隼人が声を掛ける。はあ、と溜息を吐くと、教えてくれた。


「昨日はさすがに熱出たみたいだよ」

「……何であんたが知ってんの」

「家に行ったから。俺、あそこんちのおばさんに可愛がられてるもん」


 さすがは魚類のフンだ。まさか親まで懐柔しているとは。隼人が、仕方ないなあと私の頭を乱暴にポンポンと叩く。


「明日も様子見に行く。明後日も行く。で、姉ちゃんが心配してるって伝えてやるから」


 ようやく私が隼人の顔を見ると、何だかんだで結構姉思いの、いやもしかしたら魚類思いなのかもしれないが、の隼人がにかっと笑った。


「コーラで買収されてやるよ」

「……ん」


 それから隼人は、毎日日中に魚類の家に行って一時間ほど過ごしては、様子を私に伝えてくれるメッセンジャーとなった。



「腫れ、殆ど引いたって」


 事件から三日目。今日もコーラ片手に隼人が報告をする。だけどさ、と顔を顰めた。


「痛みが引くまでは水泳禁止だって医者に言われて、落ち込んでる」

「……そりゃそうだよ」


 魚類にとって、泳ぐことは呼吸することと同義なのだから。どこかに存在するエラに酸素を送り込まないと、酸欠になって死んでしまうのだから。


「水泳、続けるかも悩んでたよ。皆に申し訳ないって」

「……私のことは、何か言ってた?」


 私の質問に、隼人は言いにくそうに返答する。


「……合わす顔がないって」


 それを聞いた瞬間、私は寝転んでいたソファーから立ち上がった。早くしないと、魚類は酸欠で緩やかに死んでしまう。うだうだと打ちひしがれている場合じゃない。


「浮き輪買ってくる。どこなら売ってると思う?」


 キリリとして尋ねると、隼人はこいつとうとう頭おかしくなったかという顔で私を不気味そうに見つめる。


「あ――……市民プールとか?」

「よし、行ってくる」


 隼人がポカンとしている間にさっさと出掛ける支度を済ませた私は、隼人の前を素通りして家を出た。あまり乗るのが得意でない自転車を引っ張り出すと、衝撃から立ち直ったらしい隼人が慌てて後を追ってきて、私の手から自転車を奪い去った。


「チャリは駄目! 危ないだろ!」

「乗れるもん!」

「そういってこないだ膝が血だらけになったの誰だよ!」


 的確過ぎる事実を指摘され、河豚の様に頬を膨らませる。隼人がサドルに跨った。


「ほら、後ろ乗れよ」


 漫画の再婚者同士の姉弟設定とかだったらキュンとする場面かもしれないが、隼人はただの弟。キュンも何もない。だが、隼人の優しさは、しかと受け止めた。


「……かっとばせ」


 荷台に座ると、隼人の腰に腕を回す。


「はいはい。全く、世話の焼ける姉ですよ」


 そううそぶくと、隼人はコーラの報酬もないのに、全速力で市民プールまで言葉通りかっ飛ばしてくれた。



 購入した大きめの浮き輪は、大きいだけあり空気を入れるのに時間がかかる。家に戻って早々、浮き輪を膨らませ始めた私を、隼人が呆れ顔で眺める。


「……ま、母さんは適当に誤魔化しておくから、頑張れ」


 親指をぐっと立てると、隼人がアハハと笑った。


「行ってくる」

「そのまんま行くのか……」


 普段着の上から浮き輪を被り腰回りに抱えた状態で、近所の魚類の家まで走った。玄関のチャイムを鳴らすと、足に湿布を貼った魚類がドアを開け、ビクッと身体を震わせる。


「た……高津……?」

「約束、したでしょ」


 魚類は、状況の把握が出来ていないのだろう。私が被っている浮き輪を見て、大きな目を更に大きく見開く。


「ほら、行こう」


 真っ直ぐに手を伸ばすと、突然のことで思考回路が遮断されている様子の魚類が、私の手を思わずといった風に握った。その手をぎゅっと掴むと、勇ましくズンズンと海がある方向に引っ張り始める。


「歩くの、痛くない?」

「大分平気になった、けど……」


 私に手を引かれながら、魚類は戸惑った表情を隠しもしない。いや、多分隠せないのだろう。訳が分からなさすぎて。


 海に近付くと、夕陽が正面から目に飛び込んできて眩しい。砂浜まで来ると、サンダルを脱いだ。キッと魚類を振り返ると、魚類も慌ててサンダルを脱ぐ。


「さ、行こう」

「え、ちょっと、ま」


 構わず魚類の手を引っ張ると、ザザ……と小さな波が打ち寄せる海へと向かう。足を浸けると、汗ばんだ肌に少しひんやりする水温が心地よく感じた。それと同時に、どうしても拭えない恐怖も。――本当は、物凄く怖い。


「高津、どうしたんだよ、なあ」


 戸惑った魚類の声が、背中から聞こえてくる。波が膝まで届き、一瞬腰が引けたがぐっと耐えた。


「こ、怖くないから大丈夫だし」


 夕陽を顔面に直接受けて眩しそうな顔の魚類が、何とも情けない表情に変わる。


「……海、怖いのか?」

「こっ怖くない!」


 波の高さが腰まできた。服が濡れ、身体の周りで海月の様に揺らめく。魚類に向き直ると、浮き輪を持ち上げその中に魚類も入れた。え、と照れた様子の魚類を、またもや睨みつける。他に、どういう顔をしたらいいか分からないから。


「顔、合った」


 私が真正面を向いて至近距離で告げると、魚類がふい、と視線を逸らす。


「合わす顔がないなんてこと、ないもん」


 緩やかな波が押し寄せると、魚類が私の身体に腕を回して支えた。力強く水を掻き続けた、逞しい腕だった。


「……回遊魚なのに、泳ぐの諦めないでよ」

「あ……隼人から聞いたのか……」


 はは、と魚類が苦笑する。触れた肌から、互いに笑ってしまうほど血管がどくどくいっているのが伝わってきた。


「いつも、魚類のこと、好きなことに真っ直ぐでいいなって思ってた」


 相変わらず、睨みつけながら言う。魚類の目はやはり大きくて、魚類っぽい。


「だから、魚類が呼吸出来なくなりそうになったら、私が今みたいに酸素を与えるから、だから」


 何を言ってるんだろう。きっと魚類も、そう思ってるに違いない。だって、目がもっと大きく開かれているから。


「私にも、泳ぎ方教えてよ」


 言った途端、涙が溢れた。


「わ! 高津……っ」


 魚類が、慌てた様子でキョロキョロする。


「魚類、恥ずかしくないよ、格好いいよ、迷惑なんかじゃないよ、だから合わす顔がないなんて悲しいこと、言わないでよ……!」


 ぐちゃぐちゃの顔で訴える。隼人に酷え顔と言われた顔だけど、目の前の魚類の目にも大粒の涙が溜まってるから、お互い様だ。


「鈍臭いけど、いつも格好つかないけど、魚類と一緒なら私だってきっとカジキマグロになれるから……っ」


 砂浜から、波が打ち付けるザザ……という音が聞こえる。


「一人で息を止めないで……!」


 うわあん、と泣き声がどんどん大きくなり、嗚咽も止まらない。えぐ、ひっくとしゃくり上げていると、魚類が突然私をぎゅっと抱き締めた。


「うん……! ごめん、ありがとう、ゆ、有香……!」


 魚類も同じ様に、声を上げてわんわん泣き始める。魚類の身体にしがみつくと、うんうんと繰り返し繰り返し頷いた。


 カジキマグロが、回遊ルートに無事に戻って来たことを喜びながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

浮き輪とカジキマグロ ミドリ @M_I_D_O_R_I

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ