掌編小説・『豆腐』~純文学作家・古木寒巌氏シリーズ~

夢美瑠瑠

掌編小説・『豆腐』~純文学作家・古木寒巌氏シリーズ~

(これは、2019年の10月2日「豆腐の日」にアメブロに投稿したものです)




  掌編小説・『豆腐』


 老境の小説家・古木寒巌(こぼく・かんがん)氏は、「伊豆の踊子」の舞台の、静岡県天城に取材旅行に行っていたが、温泉につかりすぎて湯冷めをして、風邪を引いた。

 この旅行は「『伊豆の踊子』を鑑賞しなおす」というテーマで、様々な作家や評論家が論考を寄せ合う文芸雑誌の企画に、寒巌氏も参加してほしいという要請があって、応諾した結果、執筆の都合上、どうしても現地を訪れてみる必要が生じたのであった。

 寒巌氏はあまり川端康成の熱心な読者ではなくて、どちらかというと敬遠していた。

「この作家が海外で評価が高いのは、サイデンステッカーという優秀な翻訳家あってのことではないのか」そういう一種不遜な考えも抱いていた。

 「伊豆の踊子」も、読んだことはあるが、「みなしごだというコンプレックス」という、あまり普遍的でない妙な性格的な欠損に捉われている、インテリの大学生が、純真な旅巡業の踊り子に旅先で出会って、鮮烈な感じの交流のエピソードがあって、しかし結局結末には踊り子の素朴らしい振る舞いに作者は一種ロリータ願望的な感慨を抱いて、それが非常に作者にとっては非常に根源的な欲望らしい、そうしたことが示唆されているだけ、そういう印象を受けたのだ。

 ロリータ願望というのは確かに多くの男性にとって根強いというか共感を呼ぶテーマではあるが、それが特に踊り子である必要もないし、温泉である必要もない。

ポエジーのある舞台ではあるが、これが銀座のレヴューであっても痛痒がない。

 多分現実に作者には偶然それに似た体験があって、それゆえリアリティの高い表現や文章が生み出されて、そういうことで名作の一つになったのであろう…寒巌氏は元来漠然と、そう考えていたのだ。

 それで、しかし「鑑賞しなおす」というそういうテーマであるので、従来のそうした印象を覆す何かがないと、書きづらい。

 で、現地を実際に訪問してみることになったのである…

… …


 風邪を引いた寒巌氏は、ストーブを二つ焚いて、炬燵に猫のように張り付いて、一心に原稿を書いていた。

「… で、私は実際に天城トンネルをくぐり、「康成には「雪国」という名作がある。トンネルというのは彼にとって何らかの特別の意味のある場所なのだろうか?」と考えたりした。暗い少年時代から一高生、さらには小説家になったという、そういう人生の軌跡のメタファーかもしれない、そうも思った。

 そうして風光明媚な名高い温泉地を逍遥するうちに、この美しい土地に偶然訪れて、純真無垢な魂の象徴のような、あどけないが美しい踊り子と出会った、

 そうした体験はどんなに鮮烈で感動的で、得難い、一期一会の体験であったろうか…そういう作者の心境にしみじみ感情移入できるような気がした。

 森鴎外の「舞姫」ほどにドラマティックではないが、確かにそこには「人生の時」が息づいている。後年の作品を見ても分かるように、作者の小説のモチーフは、ことごとく、少し背徳の匂いのする女性との交流である。名作とされている「眠れる美女」や「古都」も例外ではない。嚆矢とされるのが息子の嫁への不倫の欲望を描いた「山の音」であろう。「掌の小説」という名高い作品群にも「エロス愛好・傾倒」というこうした作家としての特徴は顕著に散見される。

 執拗ともいえる女性美への興味と執着、永遠に到達しえないものの象徴であるらしい妖精のような少女という存在への賛美の念、そうしてそれらの回りくどいような表現、煎じ詰めるとそれが川端文学のすべて、私にはそういう印象があるのだが…」

 

 そこまで書いて、硝子戸の外が暮色を帯びてきたので、寒巌氏は擱筆して夕食休憩をすることにした。

 老妻は、風邪を引いた彼のために、鍋焼きうどんに玉子酒代わりの粕汁、そうして

熱々の湯豆腐を用意してくれた。

 湯豆腐には好物の葱と、生姜、それにさらに七味唐辛子もかかっていた。

 いたれりつくせり、この妻の内助の功で彼は文学的に成功できたのだ。

 豆腐を一口食べた寒巌氏はその滋味にしみじみと生きる喜びを感じた。

 これほど美味しい豆腐を食べたことがないような気がした。


 明日には風邪も治っているだろう…



<了>


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