終章
第31話 わたしのサンパギータがいってしまう
あたたかな光に撫でられて、宴の間が昼のように明るくなりました。
光源はサンパギータの額に輝く宝石です。
外では、夜空の何処からどう降って来たのか、光の柱が
蓮の花が仄かに光りながら辺りを浮遊し始め、その
呆気に取られていると、何処からか物語が聞こえます。
しかしそれは、何百何千という老若男女の声が一斉に別々の物語を語っていて、お経や呪文の様に聞こえるのでした。
もはやこの世とは言い難い世界を宴の間へ連れ込んで、サンパギータは光り輝き、君臨しておりました。
サンパギータの煌めく双眸に、美しく気高い意思が宿り、わたしを見ました。
わたしは、強く後悔をいたしました。
恥ずかしながら、この瞬間まで「まさかそんな」と思っていたのです。
けれども、こうも虹色に光り輝き、床から少し浮かび上がられては……もう見ぬフリは出来ません。
サンパギータは、わたしがそうと思っていた、わたしだけの女神ではなかった。
神々しさに、その場の皆がひれ伏しました。
「な、なんと言う事だ!! 女神よ! 私は……ふひゃん……」
ラアヒットヒャ様が大慌てで、何か釈明をしようと輝く彼女の前へ進み出ましたが、彼女が手をふいと上げると、くにゃりと倒れ眠り込んでしまいました。
わたしは無礼にも棒立ちとなって、サンパギータを見上げていました。
サンパギータは一粒涙のような光を瞳から零しました。
わたしの後悔が強くなります。
せめて同じ国にいられればいいと思っていましたが、世界が違ってしまうなんて酷すぎます。
サンパギータもそれを悲しんでいるのでしょう、また瞳から光を零しました。
こんな事になるなんて!
「いやよ、サンパギータ……」
わたしは首を振って、サンパギータへ両腕を伸ばしました。
サンパギータは涙を零しながら微笑み、首を横に振りました。
『物語の島へ行かねばなりません』
「サンパギータ……!」
泣き出したわたしに、ロキ様が言いました。
「ダミニ姫、申し訳ございません。島には島の女神が必要なのです」
『ロキラタ、初めて満月の守をしたあの日から、随分成長しましたね。見事でした』
「とんでもございません。良かった……女神様を見つけた時、命に代えてもお救いしようと思いましたが、もしかしたら皆の元へもう帰れないかと……」
う、と、ロキ様は嗚咽を漏らして床へ頭をつけられました。
飄々とされていましたが、随分大きな重圧を感じられていたのだと思うと、わたしは胸が詰まりました。
しかも、ほとんどわたしが彼の邪魔をしていたのです!
『ありがとう。その様な大変な時に、この姫に随分熱心でしたね。流石ですこと。全部見ていましたからね。ふふふ』
「……うっ」
ロキ様は先ほどとは別の呻き声を上げ、少し青くなられていました。
反対に、わたしは赤くなって俯きました。
逢瀬を全て見られていたなんて……女神となったサンパギータが悪戯そうに笑うので、戸惑ってしまいます。
「し、しかし、何故この様な所に、あの様な状態でいらっしゃったのですか?」
ロキ様がその場を取り繕うように、お尋ねになられました。
サンパギータは微笑み、光の粉をこぼしながらわたしの元へ降り立つと、言いました。
『この姫に会いに来たのです。素晴らしい語り部として、島へ迎えたいと思います』
―――ここに一人、小さな姫が来ませんでしたか?
サンパギータは、シヴァンシカ妃にそう尋ねたそうです。ちょうど、シヴァンシカ妃がわたしを手中に収めた頃の事でした。
シヴァンシカ妃はどれだけゾッとされた事でしょう。
それにしても、女神まで捕らえてしまうなんて。
呆然としているわたしの横で、ロキ様は別の事柄で目を見開いていらっしゃいました。
「……なんと。島の者たちの才能を感じたのですか」
『才能……? いいえ、言い知れぬ運命を感じました』
もしかしたら、と、サンパギータは言いました。
『魂の取り替えっこだったのかも知れませんね。あなたはきっと、アヴァンシカを生まれる前から好きだったのよ。なんとクルクルと忙しい姫だろう』
何を言っているのか、わたしには難しくて理解が出来ませんでしたが、気になっていた事を尋ねました。
「……お姉様とあの人は無事ですか?」
サンパギータはニッコリ微笑みました。
ニッコリ微笑むサンパギータの美しいことと言ったら……。
『そろそろ島へ帰りつく頃でしょう。……けれど、キタルファは放浪癖があるから……またすぐ旅立ってしまうかも』
「キタルファ……」
ロキ様が、ため息の様に囁かれました。
わたしの胸が疼きます。
ロキ様は、追い求めた愛しい人の元へ、きっと行ってしまうのでしょう。
「無事で良かった」
『キタルファは、マハラジャの事を愛していましたよ』
「ええ、でなければ子を成す前に救いを求めたでしょうから」
ロキ様はキッパリと言って、「何故そんな事をわざわざ言うのです?」と反抗的に尋ねられました。
サンパギータは、惚けた表情をして『だって……貴方がちゃんとしてくれないと、わたくしの大切な人が悲しむから』と言って、鈴の音の様にコロコロ笑いました。
なんだかこんな風に生き生きとしたサンパギータを見るのが初めてで、わたしは気後れしてしまいます。
ロキ様は憮然とした表情になられて、咳払いをなさいました。
「これはこれは……お気遣いありがとうございます。しかし我らがクワンレレンタ様、ダミニ姫はマハラジャの娘。俺がいくら愛そうと、賜れない姫でございます……」
ロキ様がそんな事を仰ると、サンパギータは憤慨して髪を逆立てました。
『あら、駄目ですよ! なんとかしてくださいな、島へ連れて行きたいのです!』
「そう言われましても……彼女には栄光の人生が……」
悲しそうな顔をして、ロキ様がわたしを見ました。手に入らない宝物を前にした様な顔に、申し訳わけなさ半分、心地よさが半分。
―――わたし、あなた様を前にいつもそういう気持ちでした。
わたしは微笑みました。
「ロキ様、わたしがあれだけあなたについていけないと言っていた時は口説いてくださったのに、もう口説いてはくださらないのですか?」
「ダミニ姫……」
「ダミニではありません。あなたはわたしに名付けたではないですか。その名で呼んでください」
「……」
「サンパギータと囁いてくださったのは、気紛れでしたでしょうか」
『そうよ、あなた、わたくしの前であれだけこの子に……』
「ああもう、すみませんでした! ……良いのですか、ラタ」
ロキ様が急いで立ち上がって、わたしの手をお取りになられました。
大きな、温かい、わたしを捕まえた手。
わたしはそっと、その手を握り返しました。
ロキ様が安堵の表情で微笑みました。
そして表情に野性味を付け足して、仰いました。
「俺はあなたを籠に入れてしまうかも」
「では、わたしに愛という名の鍵をください」
「あなたは自由というわけか。……喜んで。では、謹んでマハラジャの元から攫わせていただきます」
寄り添うわたしたちの前で、サンパギータが温かく微笑んでいました。
*
『それでは、島へ無事帰れる様に加護を与えます。どのような悪も刃も二人に指一本触れる事のない、幸運に恵まれた旅を』
サンパギータはそう言って、わたしとロキ様の頭上にバラ色の光を振り散きました。そして、彼女がまだ水の残る湖の方へ両手を広げると、仄かに光る大鬼蓮の葉の飛び橋が。
ロキ様がわたしの手を引きました。
わたしはそれに従いつつも、サンパギータへ名残惜しく振り返りました。
「もう会えないのですか?」
わたしの問いに、サンパギータは目を細め、首を傾げて見せました。
『どうして? わたくしの島へ来るのでしょう?』
「でも、お姿は見えないのでしょう?」
『ええ、人間とは深く交われないの。さあ……』
サンパギータは光を零しながら微笑んで、わたしの歩みを促しました。
わたしは、いたわりの表情を浮かべるロキ様に再び手を引かれ、ゆっくりと進み始めます。
その時、囁き声がしました。
『お行き、私の……』
「え?」
聞き取れなくて、わたしは振り返りました。
しかし、もうそこには輝くサンパギータの姿はありません。
代わりに、離れた所にへたり込むファティマ姫が、瞳を虚ろにしてこちらを見ていました。
わたしはロキ様と二人、光る大鬼蓮の葉から葉へ飛び跳ねながら、あの姫はどんな物語を紡ぐのだろうと、そんな事を思っていました。
*
女神の加護を受けた島への帰還の旅は、長く甘い、蜜のような旅でした。
わたしとロキ様は物語の島へ辿り着くと、道中手に入れた茉莉花の種を、島に植えました。
種は島の気候と相性が良い様子で、すぐに芽吹き、スルスルと蔓を伸ばしました。
たくさんの蕾をつけ、やがて白く可憐な花を咲かると、辺りを芳しい香りで満たしてくれました。
島での暮らしは心地よく、島の人々はみんな好奇心いっぱい。
ロキ様は彼らの好奇心から、わたしを隠す事に忙しそうにしていらっしゃいました。
姉のアヴァンティカとの再会は、ありませんでした。
なんと、彼女は島で数年生活したものの、腕の立つ若い護衛と供に宮殿へ帰って行ったのだそうです。
彼女は旅の途中で、愛する女二人と大切な娘二人を失ったマハラジャが病んできている、という噂を耳にし、父とわたしの安否をずっと気にしていたそうです。
そして思いつめた末、楽園での暮らしを捨て、領土を支える決断をされたとの事でした。
きっとわたしの事も探してくれた事でしょう。
お姉様と自分を比べ、とても恥ずかしく思いますが、ロキ様とキタルファ様は「長女に任せましょう」と気軽に笑うのでした。
きっと今頃は、立派な女マハラジャになって、領土を治めている事でしょう。
キタルファ様がたまにふらりと島から出て、帰って来た時に彼女の話を聞かせてくれるので、間違いありません。そしてその度、わたしは故郷に思いを馳せるのでした。
しかし、あまり目に見えてお姉様を懐かしがると、ロキ様がわたしを抱いて「帰らないでくださいよ」と念をお押しになられるので、コッソリと懐かしみます。
甘い年月が、わたしとロキ様を優しく抱いて過ぎていきます。
まるで物語のようです。
さあ、そんな物語には、秘密が一つ。
雲ひとつ無い月夜、夫が深い寝息を立てる頃に、そっと彼の腕の中からすり抜けて、わたしはこっそりと茉莉花の咲く島の砂浜へ。
そして、まだ温かい砂の上に腰を下ろし、穏やかな波を眺め、物語を語ります。
聞き手はおらず、温かい風が頬を撫でるだけ。
風よ聞いておくれ、星よ笑っておくれ、月よ、眠る花々よ、と呼びかけながら、本当は。
椰子の木が揺れています。その大らかな波間には、金色の月。
どこかで寝ぼけた小鳥の鳴き声が。
わたしもそっと鳴いてみます。
「ルルルルルル」
ルルルルルル……
振り返っても、誰もいません。
けれど、咲き誇る茉莉花から囁き声が聞こえるのです。
『サンパギータ、サンパギータ……』
胸の中を芳しい香りでいっぱいにして、わたしは茉莉花の茂みへ呼びかけます。
「今夜はどんなお話にしましょう?」
いつでもここにおりますと、祈るように、心伝われと。
私は語り始めます。
「懐かしいお話にしましょうか。……密林に生い茂る葉から零れた翡翠色の光と、花曼荼羅の様に絡み合う枝影の元にある、美しい水上宮殿で起こったお話です。では」
――――わたしの女神へ贈ります。
了.
わたしのサンパギータがいってしまう【完結済】 梨鳥 ふるり @sihohuuka
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