二章① 氷が解ける時

「あちゃ〜。運が悪かったね」


 ほんの五秒前に、とある出来事に遭遇した。

 五メートルほど先を歩く、一人の女性。ハイブランドのバッグを肩から下げており、気品がある。いわゆるお金持ちなのだろう。

 そんな女性の背後から近づく、バイクに跨った人物。腕を目一杯伸ばしたかと思えば、一瞬で女性からバッグを奪い取った。

 バイクのスピードが上がる。もちろん逃げるつもりだろう。

 が――。


「はい。確保」


 思わず拍手を送っていた。一瞬でバイクに追いつき、ひったくり犯を取り押さえたのは、緑色の髪を持つ少女。人間業とは思えない。

 連絡を取ると、すぐに警官がやってきた。ひったくり犯を引き渡し、女性の無事を確認する。俗に言うスピード解決だ。

 仕事を終えた警官は、パトカーに乗って去っていく。その姿を見送った少女は、開口一番こう言った。


「ピックアップ、終わっちゃった……」


 少女の名は、柳氷名乃。

 体格は、一般的な十五歳のそれと大差なし。どちらかといえば小柄なタイプだ。

 三度の飯よりゲームが好きで、暇さえあればテレビやスマホにかじりついている。集中すると、食事や入浴、睡眠さえも忘れてしまうほどだ。


 ちなみにピックアップというのは、特定のキャラクターをゲットしやすくなる、ゲーム内のイベントのこと……と、彼女に教えてもらったことがある。


「はあ……まだ完凸してなかったのに。素材を使うしかないか。勿体ないけど……」


 警察から聴取を受けている間に、どうやらそのイベントが終わってしまったようだ。

 なかなかの落ち込み具合だ。なんというか、生気が感じられない顔である。


「それにしても、後ろから走ってきたバイクに追いつけるとは……」

 

 私と同じエージェントだが、役割が異なる氷名乃。

 彼女の仕事とは――。 


「――さすが、うちの戦闘担当ですな」


 最前線に立って、犯罪者たちを取り押さえる。それが彼女の役目だ。

 その能力は、他を圧倒している。どんなに体格差がある相手でも簡単に拘束してしまうし、運動神経は規格外だ。

 氷名乃と共に仕事をしていると、彼女が味方でよかったとつくづく思う。


「元気出して。美味しいもの作ってあげるから」


 氷名乃の表情は曇ったままだ。イベントが終わってしまったことが、相当ショックだったらしい。


「よし。それじゃあ可愛い可愛い氷名乃ちゃんのお願いをなんでも一つ聞いてあげるよ」

「……今、なんでもって言った?」


 少女の顔に明かりが灯った。先ほどまでのどんよりとした表情はどこへやら。


「この世に存在するゲームソフトを全部買ってほしい、みたいな非現実的なのはナシね。私ができる範囲のやつで」

「ケチ」


 目を閉じて考える氷名乃。その表情は、仕事に臨むときのそれよりも真剣だ。


「――じゃあ、コントローラーで」


 私は文字通り、目を丸くした。瞬きを何度か繰り返す。


「……さっき買ったやつは?」


 今日は、買い物を手伝ってもらう代わりに、新型のコントローラーを買ってあげたのだ。その日中にまったく同じお願いをされたら、誰でも多少は驚くだろう。


「えっと……」

「うん」


 ……。

 なぜか、氷名乃が固まってしまった。

 素直に話してくれても良さそうな場面だけど……。


「よ、予備で二つ持っておきたいから」

「予備?」


 あれ。意外とシンプルな理由。


「まあいいか。りょーかい。今から買いに行こっか」


 進行方向を変えて、家電量販店に向かおうとした。

 しかし氷名乃は、足を動かそうとしない。


「……やっぱり、いいや」

「えっ。いいの?」

「うん。自分で買うよ」


 寂しそうな顔で、とぼとぼと歩く氷名乃。

 やはり、ゲームのイベントを逃したのが辛かったのだろうか。

 それとも、何か別の理由が……?


 〇


 私は今、とある電車に揺られている。

 首都圏では滅多にお目にかかれない、四両の電車だ。

 意外にも乗客は多く、座席はほとんど埋まっていた。荷物から推測するに、多くは観光客のようだ。スーツケースや大きめのバッグを携えている人が大半で、私も例に漏れずリュックサックを背負い、スーツケースのハンドルを握ってる。


 私は扉に寄りかかりながら、外の景色を眺めている。

 連なる山々と、所々に雲を浮かべている青空。都会の喧噪を忘れさせてしまうほどの、見事な絶景だった。

 電車の中からスマホを向ける人がちらほらといた。確かに、写真に収めたくなるような景色だ。


「……さて、と」


 駅に到着する前に、依頼の内容を整理しておこう。

 今回の依頼者は二十代の男性だ。といっても、依頼者自身に何かが起きたわけではない。

 私がこれから向かう田舎町で、男性の母親が一人で暮らしているそうだ。

 女性は近隣の住民から、不思議な話を聞かされた。とある夜に、女性の家から飛び出してきた人物を見た、とのこと。

 慌てて家の中を確認してみたが、とくに怪しいものはなし。何かの見間違いだろう、と結論づけた。

 ――しかし、不審な人物が現れたのは、どうやら一度だけではなかったようだ。

 別の日にも、不審な足音を聞いた者や、走る影のようなものを見た、と証言する者がいたそうだ。幽霊ではないか、と提唱する人物まで現れる始末。

 依頼者が言うには、女性はあまり気に留めていないようだ。世間話のようなノリで聞かされた、と話している。実の母親が一人で暮らす家に不審な人物が出入りしていると聞かされれば、誰だって心配になるだろう。


 今回の目的はずばり、その正体を解明することである。


「ほ、本当に幽霊だったらどうしようかな……」


 正体が非科学的なものであることだけは勘弁していただきたい。話術が通用しないし、何より怖い。いかにも喧嘩慣れしてそうな筋骨隆々の男、とかの方がマシだ。


「――それにしても」 


 事件の真相も気になるところだが、気がかりなことはもう一つある。





「氷名乃、大丈夫かなあ……」





 今後の展開によっては、氷名乃に協力を仰ぐことになる。何か悩みを抱えている様子の彼女に仕事を頼むのは、少し気が引ける。いざ頼んだら何事もなく協力してくれそうではあるけど――。


『次は、茨霞いばらかすみ。茨霞です』


 アナウンスが車内に響いた。それに続くように、減速を始める電車。

 停止したのは、なんとも寂れた駅だった。私以外に降りる人はおらず、乗り込む人もほとんどいない。

 一時間に三本の各駅停車を見送り、改札を通る。

 眼前に広がっていたのは、どこか懐かしさを感じさせる町だった。駄菓子屋や古本屋など、趣があるお店が並んでいる。高層ビルのような大きい建物は見当たらなかった。


「――さてと。まずは荷物を置きに行きますか」


 予約した旅館をめざして、アスファルトの道を歩き始めた。

 本来この時間は、今後の動きを再確認することに使う予定だった。しかしいつの間にか、その長閑な風景に魅了されていた。

 建物が立ち並んでいるため、豊かな自然を感じられるというわけではないのだが、とにかく落ち着きがある。

 慌ただしく行き交う人々の足音。無数の車が発する走行音。都会にいれば嫌というほど耳に入ってくるそれらが、一切ないのだ。

 スーツケースのキャスターがガラガラと転がる音が耳に届くが、旅の始まりという感じがして嫌いじゃない。


 気づけば、目的の旅館に到着していた。駅から徒歩で二十分ほどの距離だったはずだが、まさに時間を忘れる散歩だった。


 旅館は木造で、周囲を塀に囲まれている。縦ではなく、横に広がっている建物なので、周囲との高低差はあまりない。ゆえに、悪目立ちしている様子はなく、町の落ち着いた雰囲気にマッチしている。


 チェックインを手短に済ませ、三階の部屋へ向かう。

 フロントでもらった鍵をドアノブに挿し、くるりと回す。

 扉の先には、平らな石が敷き詰められた廊下のようなスペースが広がっていた。先へ進むと、床が一段高くなっていたので、スニーカーを脱ぐ。

 その先に現れたのは、シンプルな和室だった。

 茶色の机が中央に置かれ、それを挟むように座椅子が二つ。

 うん。こういう奇を衒わない配置の方が好き。まさに旅館という感じ。


「うわっ。眺めも結構いいな……」


 周囲に背の高い建物がないため、遮られることなく山々を一望できる。

 できることならプライベートで訪れたかったものだ。もちろんみんなで。一人は寂しい。


「そんじゃ準備しますかー」


 リュックサックを畳に下ろした。

 続いて、スーツケースを勢いよくオープン。

 

「これと……これか」


 眼鏡ケースとスーツを引っ張り出した。探偵変装セットである。


 エージェントたちは、主に二つのルートで依頼を受けることになる。

 一つ目は国から声を掛けられるルートだ。

 数は少ないが、危険な任務がほとんどだ。声が掛かるのは、国から認められた優秀なエージェントのみ。私は未経験だ。結構頑張っているつもりなのだが、なぜ……?


 二つ目は、一般の方から依頼を請け負うルート。今回はこのケースに当てはまる。

 都心に本部を構える、煌瞭こうりょう探偵社。表向きはごく普通の探偵事務所であるが、そこで働いているのは探偵ではなく、エージェントだ。

 本部が受けた依頼はリーダーを経由してその部下へと回ってくる。私たちの場合は、紗英さんが依頼の内容を伝えてくれる。


 どちらのルートでも共通しているのは、決してエージェントとは名乗らないこと。依頼に応じて、都合がよい人物を演じるのだ。

 あるときは探偵、あるときは警察官、またあるときは犯罪組織のメンバー。こうして素顔を隠しながら依頼をこなすのだ。


 ではなぜ嘘をつくのか。なぜ身分を隠すのか――。

 まず、国中から石を投げられる恐れがあるからだ。

 エージェントは仕事をする上で、様々な権利を付与されている。

 例えば警察官を演じる場合、制服を着用したり、警察手帳を携帯したりする。しかしそれは、国民全員に許されていることではない。世間に知られてしまったら、非難が集中することは容易に想像できる。


 そして何より、まだ見ぬ犯罪者の警戒心、敵対心を煽ることになる。

 罪を犯す者たちに私たちの存在を認知されてしまうことは、絶対に避けなければならない。何かしらの報復を受ける可能性があるからだ。エージェントの殺戮が行われる可能性も、ゼロではない――。


「うんうん。いい感じ!」


 洗面所の鏡を眺めながら、私は陽気な声を上げた。スーツを着ると、多少は大人っぽく見える。髪をポニーテールにまとめると、探偵の完成だ。探偵というよりは、就活中の大学生のようだけど。


「そんじゃ早速行きますか」


 部屋を後にし、エレベーターに乗り込んだ。

 今回は探偵に扮する訳だが、他にも二つの選択肢があった。一つは警察官。もう一つは幽霊の噂を聞きつけたオカルト雑誌の記者だ。

 まず前者だが、警察官を名乗った場合、多くの人々から協力を得られると予想できる。経験上、あらぬ疑いをかけられることを嫌い、聴取に応じてくれる人がほとんどだ。

 デメリットとしては警戒心を持たれやすい点だ。仮に聴取する相手が重要な情報を持つ人物、とりわけ事件の犯人である場合、襤褸が出づらくなる。

 後者の記者は、取材という名の聴取を断られる可能性が、警察官よりも高いことが懸念点だ。取材に応じなかった際のデメリットがほとんどなく、断るハードルも低いだろう。


「さて。予定通り、まずは他から回ろっと」


 旅館を出て、左に百メートルほど進むと、不審な人物が飛び出してきたという女性の家がある。

 その道中、私は適当に五軒の家を選び、チャイムを鳴らした。

 結果から言うと、とくに収穫はなかった。有益な情報を持つ住民はおらず、解決の糸口をつかむことはできなかった。

 しかし、特に問題はない。この行動の目的は、ただのアリバイ作りだ。


「よしっ。そろそろ本命のお宅へ向かいますか」


 目的の家は、目と鼻の先だった。

 二階建ての立派な住居だ。ブロック塀に囲まれていて、周囲には他の家が密集している。


『はい。どちら様でしょうか?』


 インターホンを押してから約十秒後、女性の声が聞こえてきた。


「突然お伺いしてしまい申し訳ございません。私、煌瞭探偵社の五十嵐いがらしと申します」


 カメラに名刺と柔らかい笑顔を向け、偽名を名乗る。

 満面の笑みはいらない。作った笑顔だということが丸見えだ。少し頬を緩める程度が自然で丁度いい。


「この辺りで不審な人物を目撃した、という情報を耳にしまして、近隣の方からお話を伺っているところなんです」


 こういう場合は特定の個人に話を聞くよりも、不特定多数の人間から話を聞いていると伝えた方が、応対してくれる可能性が高い。


 例えば、刑事ドラマでよく見かける、事件の関係者にアリバイを問うシーン。人によって受け答え方は分かれるが、「自分を疑っているのか」と、声を荒立てる人物が一定数いる。

 対して刑事は、「関係者全員に訊いていることだから」と、付け加える。するとその人物は、不服そうに答える。


 また、近隣の住民にも話を聞いて回ったことには、もう一つ理由がある。それは、エージェントが守るべきルールに関係している。

 ルールとはずばり、絶対に依頼者には接触しない、ということだ。依頼者は誰なのかも口にしてはならない。

 依頼者の中には、特別な事情を抱えている人もいる。なるべく触れてほしくないような、複雑な事情を――。

 よって基本的には、依頼を受けたときと、結果を報告するとき。基本的にはその二回しか接触しない。

 依頼者の母親にだけ聴取をとると、依頼者が息子さんであることを勘付かれてしまうかもしれない。なので、近隣の住民にも話を聞いて回ったのだ。


「お忙しいところ大変申し訳無いのですが、お話を伺わせていただくことは可能でしょうか?」

『分かりました。少しお待ちくださいね』


 よしよし。うまくいった。

 数秒後、扉を挟んで、こちらに向かって歩いてくる足音が聞こえてきた。落ち着いた足取りだ。


「――あら、可愛らしい探偵さんね」


 扉を開けた女性は、開口一番そう言った。

 紺色のチュニックに、同色のカーディガン。そして白のズボンを着用している。年齢は六十代とのことだが、かなり若々しく見える。そして何より、高貴な雰囲気を感じさせる女性だった。


「探偵といっても、ポジションとしては助手のようなものでして。今は勉強中の身です」


 私は頭に手を置きながら、恥ずかしそうにして答えた。


「早速なんですが、最近不審な人物を見たとか、不審な足音を聞いたとか、そういった経験はございますか?」


 メモ帳とボールペンを持ち、女性の回答を待つ。

 本当はメモしなくても覚えられるし、既に把握している情報しか出てこないだろうけど。


「私はないけど、お向かいの方が見たらしいわ」

「ほうほう。何を見たんですか?」

「それがね、夜中に私の家から飛び出してきた人がいたらしいのよ」

「えっ」


 ここはもちろん、驚いたフリをしておく方がいいだろう。

 

「お怪我とかは?」

「大丈夫よ。私はぐっすり眠っていて気づきもしなかったもの。盗られた物もなかったわ。不思議なお話よね」


 依頼者である息子さんの言葉通り、女性は恐怖を微塵も感じていないようだ。

 怖がるどころか、少し楽しんでいるようにさえ見える。

 ……一応、女性が何かを隠している線も疑っておくべきか。


「目撃したのはお向かいさんなんですよね?」

「ええ。あちらに住んでいる男の方よ。在宅でお仕事なさっているようだから、今もいらっしゃるんじゃないかしら?」


 私の背後に視線を送る女性。その先には、紺色の外壁が特徴的な一軒家があった。


「ありがとうございます。ちょっと伺ってきますね。お手数ですが、また後ほどお話を聞かせていただいてもよろしいでしょうか?」

「ええ。ちょうど暇を持て余しているところでしたので、話し相手ができて私も嬉しいわ」

「助かります。それでは一旦、失礼いたします」


 女性に一礼し、向かいの住居に足を運ぶ。もちろん、数秒で到着だ。

 

『はい』


 女性の言う通り、インターホン越しに聞こえてきたのは男性の声だった。たったの二文字だが、誠実さが伝わってくる声だ。


「失礼いたします。私、煌瞭探偵社の五十嵐という者です」


 名刺。ほどほどの笑顔。そして偽名。このセットを再び、インターホンに向けた。


「この辺りに出没したという不審な人物について調査をしておりまして。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

『はい。少々お待ちください』


 男性が二つ返事で応じてから約十秒後、玄関の扉が開いた。

 声色から察した通り、誠実そうな男性だ。年齢は、三十代前半、といったところだろうか。

 黒いジャケットに青いセーター。そしてベージュのパンツ。いわゆるオフィスカジュアルだ。オフィスではないけど。


「お仕事中でしたか?」

「いえ。ちょうど休憩をとろうと思っていたところですので」


 探偵を名乗る以上、相手の行動を縛る権利はない。そのため、聴取を断られると非常に困るのだが、本当にこの町の人たちは協力的で助かる。


「ありがとうございます。手短に済ませますね」


 元から確認したかったことは一つだけだ。


「先日、向かいの家から飛び出してくる人を見かけたようですが――」

「ええ。見ましたよ」

「では、当日の様子を教えていただけますか?」

「様子ですか? えっと……」


 顎に手を当てる男性。どうやら、当日に見た光景を思い起こしているようだ。


「深夜の二時頃でしょうか。締切が近い仕事がありまして、徹夜でパソコンに向かっていました。突然物音がしたので、窓の外を見ました。そしたら、フードを被った人が向かいの家から出てくるところを見かけまして」

「なるほど。そして向かいの女性にそのことを話したんですね?」

「おっしゃるとおりです。しかし、あまり気に留めていらっしゃらないようで」

「みたいですね……」


 ……嘘をついているようには見えないな。

 当日の記憶はしっかり残っているみたいだし、あれ、訊いちゃいますか。


「ちなみに、見たのは家から人が出てくるところだけですか?」

「……と、言いますと?」

「いえ。扉を開けるところは見たのかな、と思いまして」

「そう言われると……見てないですね。私が見たのは、門を開けて道路に出てきたところだけです」

「……なるほど」


 依頼の内容を聞かされて、私はいくつもの可能性、仮説を立てていた。

 そして、そのうちの一つが今、現実味を帯びた。

 まるで、蝋燭に火が灯るように――。


「貴重な情報をありがとうございます。そろそろ失礼しますね」

「あれ、もういいんですか?」


 根掘り葉掘り尋ねられると思っていたのだろう。早々に聴取を切り上げた私を見て、男性は少し驚いている。


「はい。お仕事の邪魔をしてしまってすみません」

「いえいえお気になさらず。それでは失礼します」


 男性が家の中に戻るのを見送った私は、女性の家に蜻蛉返りした。

 目的は、現実味を帯びた仮説を検証することだ。


「あら、お帰りなさい。随分お早いのね」


 女性は箒を手に持ち、玄関先を掃除していた。掃除をしながら、私の帰りを待っていてくれたのかもしれない。


「はい。元々知りたかったことは一つだけでしたので。それで、不躾ながらお願いがあるのですが――」

「何かしら?」


 依頼者。先ほどの男性。そして目の前の女性。すべての証言を信用するなら、一つの答えにたどり着く。それは――。



 


「――お庭を拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」





 家の門を通り、道路に飛び出してきた人物を見た、という証言。

 これだけを耳にすると、その人物は家の中から出てきた、と解釈するのが普通だ。 しかし、目撃したのはあくまで、家の門を通る人間なのであって、家の中から出てきたとは限らない。

 何より、家の中に侵入するよりも、庭に忍び込む方が簡単だ。

 

「構いませんよ。少しお恥ずかしいですが……」


 その言葉の意味は分からなかったが、実際の庭を見て、初めて理解した。

 姿を見せたのは、雑草に支配された庭だった。十坪ほどのスペースがあり、その一面が緑色に染まっている。

 オシャレな机と椅子も置かれているが、伸びた雑草が何よりも目立っていた。

 手入れが行き届いた庭であれば、普段から庭仕事をする習慣があることが読み取れる。物を盗んだり、何かを仕掛けたりしても気づかれる可能性が高い。

 つまりこの家の庭は、何かをするのにうってつけ。格好の的だ。

 

「お恥ずかしいわ。昔は庭仕事が趣味だったのだけれど、腰が悪くなってからはこの有様よ」

「なるほど。そういうことでしたか」


 怪しいものは……とくになし。

 そうなると、土の下に何かが埋まっている?

 ……いや。掘り返されたら何かしらの跡が残るはず。辺り一面雑草だし、その線は薄いか。

 と、なると――。


「あちらの物置、拝見してもよろしいですか?」 

「ええ。どうぞどうぞ」


 どこまでも協力的な女性に一礼し、庭の隅にある物置に向かった。

 スコップやバケツ、ホースなど、確かに庭仕事で使用する道具がしまわれていた。いずれもかなり年季が入っているように見える。


「……特になし、か」


 仮説が正しければ、庭に何かがあるはず。でも、それらしい物はない。

 となると、仮説が間違っている可能性もある……か。結構自信あったんだけどな。

 こうなったら、すべての仮説を一つずつ潰していくしか――。





「――お紅茶、お淹れしましょうか?」





 突然の出来事だった。

 背中に放たれる、透き通った声。

 思わず振り返ると、女性が穏やかな笑みを浮かべていた。まるで、孫を見守るお婆さんのようだ。


「……えっ?」


 不意をつかれた私は、明らかに動揺していた。

 

「何か、焦っているようだから。まずは落ち着いて、物事を俯瞰してみるのも悪くないわよ」


 ……この人の言う通りだ。一旦、落ち着こう。


「……すみません。私、紅茶があまり得意ではなくて。それに、お手間を取らせるのも気が重いですし」


 エージェントにとって、信頼できる人間以外が作ったものを口にするのはご法度だ。毒物や睡眠薬が仕込まれているかもしれない。

 例え善意からの行動だったとしても、断らなければいけないのは、少し心苦しい。

 

「あらそう? でしたら、そこに腰掛けて休憩なさったらどうかしら?」


 女性が指さしたのは、横長のウッドデッキだった。確かに、一呼吸置くにはちょうどよさそうな場所だ。

 

「そう……ですね。では少しお借りします」

「ええどうぞ。私は掃除の続きをしているから、何かあったら気軽にお声がけくださいね」


 女性はそう言い残し、玄関の方へと消えていった。

 お言葉に甘えて、ウッドデッキに腰を下ろした。そしてふと、一つの会話を思い出す。

 私がエージェントになったばかりの頃に、紗英さんと交わした会話だ。


『潜香。いつまでも落ちこんでいたって仕方ないわよ。依頼は無事に解決したんだから、それでいいじゃない』


 紗英さんの仕事部屋で私は、ソファーに座りながら項垂れていた。

 初めての任務に、私は大苦戦した。紗英さんの手助けがなければ、間違いなく失敗していた。ほろ苦いデビューだった。


『いやいや。ほとんど紗英さんの手柄じゃないですか……』

『潜香はよく頑張ったわよ。ちゃんと自分を褒めてあげなさい』


 顔を上げるとそこには、忙しそうに資料を眺める黒髪の女性がいた。

 私に手を差し伸べながら、自分の仕事もこなしている紗英さん。まさに、雲の上の存在だった。


『紗英さんって、仕事で失敗したことはありますか?』


 ふと、その疑問が口から漏れた。なぜこんなことを訊いてしまったのかは分からなかったが、答えは分かり切っていた。

 他のエージェントからは、全幅の信頼を寄せられている。国からは、多大な期待を寄せられている。どんな任務でもこなしてしまう彼女に、失敗なんてあるわけない。

 しかし、彼女の答えは――。





『あるに決まってるでしょ』





 ――と、想定外のものだった。


『……えっ。あるんですか?』

『あるわよ。仕事で失敗しない人間なんているわけないじゃない。いるならここに連れてきてほしいわ』

『じゃ、じゃあ。失敗した後ってどうするんですか?』

『まあ、切り替えるしかないわね。いつまでもミスを引きずっていたら、仕事なんてやっていられないわ』

『切り替えるって……どうやって?』

 

 そう尋ねると、紗英さんは資料を机に置いた。立ち上がると、私の隣にやってきて、腰を下ろした。

 そして――。





『――私は天才だ、って思い込むの』





 これまた、予想外の言葉だった。

 返答を探す私に、彼女は言葉を紡ぐ。


『私は天才。私は天才。そう口にして、自分に自信を持たせてあげるの』

『自信……』

『そう。ミスした自分を嫌いにならないであげて。もっともっと、自分を好きになりなさい』


 そうだ。自分を。自分を信じてあげなくちゃ。

 

「……私は天才。私は天才。天才エージェント、忍燹潜香だ」


 女性に聞こえないよう、小さな声でそう呟いた。そして、頬を両手でパチンと叩く。少しヒリヒリしたが、切り替え完了だ。


「よしっ。見落としがあるかもしれないし、もう少し観察しなくちゃ」


 この庭にあるものは……机。椅子。物置。ウッドデッキ。そして、無数の雑草。そういえば、物置の裏側は見ていなかったな。それに、ウッドデッキの下も。

 まず、物置の裏は……特に何もなし。

 次に、ウッドデッキの下は――。


「ん? なにあれ」


 見つけた。ウッドデッキの下――ではなく、屋外用のコンセントに、何かが挿さっている。

 近づいてみると、それが何か分かった。


「……モバイルバッテリー?」


 不自然だ。モバイルバッテリーを外で充電する理由が見当たらない。


「すみません。ちょっとよろしいですか?」


 先ほどの言葉通り、女性は玄関先で箒を動かしている。

 私に気がつくと、ニコッと笑みを浮かべ、こちらに近づいてきた。


「さっきよりも表情に余裕があるわね。何か見つけたのかしら?」

「ええ。これなんですが――」


 指差したのはもちろん、コンセントに挿さったモバイルバッテリーだ。


「こちら、私物ですか?」


 そう尋ねると、女性の顔に困惑が浮かんだ。


「……分からないわね。使った記憶はないのだけれど、昔すぎて忘れているだけかしら」


 女性は必死に思い出そうとしているが、ピンと来ないようだ。おそらく私物ではないのだろう。


「……頼れる友人に訊いてみるとしますか」


 モバイルバッテリーを写真に収め、とある人物に送信した。


「すみません。ちょっと電話してきます」


 女性が頷いたことを確認してから、私はその場を離れた。門を通り、家から十メートルほど距離を取る。

 続いて、写真を送った相手に電話を掛けた。


『――なんだよ。潜香』


 声だけでも分かるほど、かなり不機嫌なご様子。


「やっほー支信ちゃん! 元気?」

『元気じゃねえよ。さっきまで徹夜で仕事しててクタクタなんだ。寝かせてくれ』

「送った写真見てくれた?」

『無視してんじゃねえよ!』

「見てくれた?」

『うっせえな! 拝見済みだよ!』


 さっすが支信! 頼りになるー!


「ありがと。んで、これ何?」

『まあ、どっからどう見てもモバイルバッテリーだな』

「あっ。やっぱり?」

『例の任務中に見つけたのか?』

「うん。そういうこと」


 今回の依頼に支信が介入する予定はないが、詳細は共有していた。まさかこんな形で力を借りることになるとは思わなかったけど。


「ちなみに、抜いたら起爆する爆弾とかではない?」

『警戒するのは悪いことじゃねえが、さすがにそれはねえよ。ただ、何かしらの仕掛けはあるかもしれねえ。発信機になっている、とかな』

「それ、調べられる?」

『……しゃあねえ。調べてやるよ。今使ってるのは仕事用のスマホだよな?』

「うん。そうだよ」

『そんじゃ、そのスマホにバッテリーを繋いでくれ。調べたら、仕事用のじゃなくて、お前のスマホに連絡を入れる。まあ、念のためな』

「了解。助かるよ。ありがとう」


 通話を終え、履歴を削除した。

 門を抜けて、庭に舞い戻る。

 女性の視線が私を捉えた。その表情には、不安の色が垣間見える。

 見知らぬ機器が自宅に取り付けられていたとなれば、さすがに不安を感じざるを得ないようだ。


「あの、何か分かりましたでしょうか?」

「ご心配をおかけしてしまってすみません。おそらく、ただのモバイルバッテリーだと思います」

「モバイルバッテリーといいますと、持ち運びできる充電器のことでしょうか?」

「そうですね。実際に使用して確かめてみようと思うのですが、外してもよろしいでしょうか?」

「はい。構いませんよ」

「ありがとうございます」


 念のため、手袋を装備する。そして、モバイルバッテリーに手を添えた。


「……おりゃ!」


 私は意を決して、それを引き抜いた。まるで、伝説の剣を抜く勇者のように。

 ……とくに何も起こらない。緑色のランプが一つ消えた程度だ。おそらく、充電中であることを示すものなのだろう。


 リュックサックを下ろし、充電用のケーブルを引っ張り出した。服のポケットからは、仕事用のスマホを取り出す。

 接続すると、すぐに充電が始まった。やはり、普通のモバイルバッテリーにしか見えない。


「ん? なんだろこれ」


 モバイルバッテリーの裏側に、とあるシールが貼られている。

 これは……広告?


「隣町の……土産物店の宣伝か」


 謎の広告に頭を悩ませていると、スマホの通知音が鳴った。


「おっ。早いね」


 支信からメッセージが届いている。

 その内容は――。


「――やはり、ただのモバイルバッテリーみたいですね。おそらく誰かが電気を盗もうとしているのだと思います」

「電気を、ですか?」

「はい。盗電というやつですね。明確な犯罪行為です」


 淡々と説明を続けながら、私は悩んでいた。

 問題は、このモバイルバッテリーを何に利用しているか――。


「すみません。追加でもう一つお願いがあるのですが」


 不審な人物の目撃情報は、一日だけではなかった。目撃されたのが同一人物だと仮定すると、この庭に何度も出入りしている可能性が高い。

 何より、モバイルバッテリーの存在だ。充電するだけでは意味がない。取りに来なければ使うことができないのだ。

 つまり犯人は、もう一度――。


「――こちらのモバイルバッテリー、もう少し取り付けさせていただいてもよろしいでしょうか?」


 女性は、お手本のような困惑顔を見せた。

 ごく自然な反応だと思う。私が同じ立場でも、同じような反応をするはずだ。


「もちろん、それに伴って発生する費用はお支払いしますので」


 そう付け加えても、女性の表情が変わることはない。


「……理由をお尋ねしても?」


 私は、堂々と宣言する。


「――犯人を、捕まえるためです」

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