逆様の放課後

そうざ

Turn Upside Down After School

 校庭から子供達の歓声が絶え間なく聞こえて来る。

 この春、六年一組を受け持った正木まさきは、雪達磨のような体躯を椅子に預け、小テストを添削していた。

 国語の答案に目を通している時、或る生徒の解答に赤ペンを持つ手が止まった。

 問一は諺の問題。全て不正解だった。だが、目を見張ったのは、間違っている事実そのものではなく、だった。


問一.( )の中に漢字を入れて、ことわざを完成させなさい。

1.(亀)は千年、(鶴)は万年

2.(地)降って(雨)固まる

3.(金)は(時)なり


 最初は唯のケアレスミスや勘違いかとも思ったが、どれも逆に覚えているなんて事が起こり得るだろうか。

 続く問二でも手が止まった。


問二.( )の中に正しい漢字を記しなさい。

1.きけん(安全)な場所

2.たんじゅん(複雑)な疑問

3.あの人はぜんにん(悪人)だ


 逆の意味の漢字を書くというのは、余りにも不自然だ。意図的に誤答を楽しんでいるかのようにさえ見える。悪巫山戯わるふざけでしかない。

 正木は、もやもやしたまま他の生徒の答案を添削し終えると、続けて算数に移った。

 そして、また同じ生徒の答案で手が止まった。


問一.次の計算をしなさい。

1.4-1/2×2/3=4と3/4

2.10+2/3÷5/8=9と7/12

3.3+5/6÷2と4/9-1=1と26/27


 どうすればこういう答えが導かれるのか。

「まさか……」

 正木は一問一問、をしてみた。+を-に、-を+に、×を÷に、÷を×に置き換えて計算すれば、全て正解だった。言うなれば、のだ。何故こんな事をするのか、全く理解に苦しむ。

「そういえば……」

 答案に0点と記す正木の脳裏に、数日前の記憶が蘇った。

 つい先日の体育の授業。その日は徒競走の記録を測定していた。

「位置に付いて、用意……!」

 ゴールを目指して一斉に駆け出す子供達の中に、逆走する生徒が居た。

 それが、坂島さかしますすむだった。

 余りに想定外の事態で、直ぐには何が起きたのかが理解出来ない正木だったが、生徒達の笑い声で我に返った。

「こらぁ、真面目にやらないかっ」

 クラスメートの受けを狙った悪戯だろうと軽く叱っただけで済ませてしまったが、今にして思えば良くない兆候だったのだ。

 あの時、坂島が不敵な笑みを浮かべていたのを覚えている。


 正木は、窓から校庭を眺めた。見知った顔の一群がサッカーをしている。丁度、目当ての男子生徒がボールを奪ってドリブルを始めるところだった。

「おい、そっちじゃないっ!」

「自殺点になっちゃうよっ!」

「誰かあいつを止めてろっ!」

 当の生徒は周囲の声に全く耳を傾けず、見事なシュートを決めてしまった。ブーイングが起きても何処吹く風で不敵な笑みを浮かべている。

 正木は校庭へ急いだ。


「一体どういうつもりなんだ?」

 正木がその生徒に示した答案の氏名欄には達筆で『』と記されている。もう一度、答案を見返した時に気付いた、徹底した悪巫山戯だった。

 決して頭の悪い生徒ではない。が、何処か大人びた雰囲気があり、達観や諦念という単語を彷彿とさせる佇まいの子だ。

 土筆つくしのようにひょろっとした体躯の坂島少年は、正木の前で超然としている。

「何の事ですか?」

わざと間違えただろう」

「あぁ、それは僕の個性です」

「個性?」

「先生、いつも言ってるじゃないですか、個性を磨けって」

 確かに、教室の壁にそんな標語が貼り出してある。正木が事ある毎に訓示宜しく生徒に語っている定番の美辞麗句だった。

「あのなぁ、テストは正解しなければ点が取れない。スポーツだってルールに従わなければ勝てないだろう」

 少年が口をつぐんだ。言い返す隙を作ってはいけない。正木は間髪を容れず言葉を継いだ。

「もっと真面目に取り組まないと、ちゃんとした大人に成れず、下らない一生を送る事に――」

「大丈夫です。自分を信じて頑張れば夢は叶います」

 このフレーズも教室の壁に貼り出してある標語の引用だった。何処までも反抗するつもりらしい。これは長引くぞ、と正木は腹を括った。

「じゃあ、訊こう。君の将来の夢は何だ?」

「教師になる事です」

「だったら、将来、君が受け持つ生徒が何でもんでも逆様にしていたら、どう指導するんだ?」

「その個性を磨いて、自分を信じて頑張れって言います。そうすれば夢は叶いますから」

 余りにも確信に満ちた口振りだった。単なる悪巫山戯ではない。ここでしっかりとたしめなければ、この子の為にならない――正木は語気を強めた。

「個性を磨くにしろ、自分を信じて頑張るにしろ、世の中はそんなに甘くないぞ」

「先生こそ、いつもと言ってる事がですね」

 正面を切って主張する教え子に、今度は教師が口をつぐむ番だった。

 そこへ坂島少年が畳み掛ける。

「教師は子供を褒めてその能力を伸ばしてやるべきだと思います」

「それは時と場合に依る」

「頭ごなしに大人の価値観を押し付けてはいけないと思います」

「押し付けてなんかいない」

「もっと伸び伸びと育てるべきです」

「分かったような口を利くなっ!」

 正木が勢い良く机を叩いた。偶々職員室に二人切りだった事が、正樹のたがを外させた。

 直ぐに我に返って平静を保とうとする正木に、少年は不敵な笑みを浮かべて言った。

「まるで聞き分けの悪い子供ですね。僕の方が教師に向いてる事を、僕ので証明してみせましょうか?」


 担任教師に呼び出されたまま中々戻って来ない友達を心配したクラスメートが、どやどやと職員室に押し掛けて来た。

「おっ、皆が呼びに来てくれたぞ。さぁ、遊んで来い。子供は元気が一番だ」

 生徒は教師にぽんと背を押され、友達に囲まれながら廊下の彼方へと消えて行く。遠くからでも、そのは一際目立った。

 少年にもうさっきまでの身勝手な言動は微塵も見られない。その絵に描いたような純粋さは、まるで先程までとは別人だった。

 教師は不敵な笑みを浮かべたまま、を椅子に預け、答案の添削を再開した。

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