(拾弍)ひとごろし
月の光が刀身に跳ね、刀が夜闇に閃いた。
斬り下ろしたその一撃で、櫻葉の手首が落ちる。櫻葉の発した弾は誰に当たることもなく消えていた。興長の持たせてくれた妖具のおかげもあるかもしれない。
散る赤黒い飛沫が、夜だと言うのにユキの目にはひどくゆっくりと映って、こびりついて、離れない。
「ぐぬぁあああああああッ!」
初めての肉を断つ感触に振り下ろしたあとの切先が揺れる。それでも、ユキはもう一閃刀を疾らせていた。
切先は容易く櫻葉の身体を逆袈裟に裂く。
赤黒く
ユキはどうにか吐き気を堪える。私兵の男も斬ろうと視線をやれば、既に走りだしていて、追う気にもなれなかった。
(────どうしよう、ひとり、にがした。すぐににげないと、はやく、どうして、俺は)
視線だけ動かして、脇で尻餅をついたまま恐怖に慄く少年を見つける。彼に怪我を負わせていないことを確認した。
ユキがじりりと近づくと、少年は逃れようとじたばたと足掻いた。
「早く────」
「うぁ……あ……」
「早く! ……ここから、消えて」
鋭く言うと、おえんが少年を無理やりに引き起こした。見えない力に持ち上げられて、少年はもともと失っていた顔色を更に白くした。
強く突き飛ばされて、ようやく少年はくぐもった悲鳴のまま、転がるように駆け出した。猿轡のまま、這う這うの体で足をもつれさせながらも遠ざかる背中を見送って、ユキは頭から余計な声を振り払う。
(ひとごろし)
まだ惑うな。
まだ終わっていない。
ユキは強く唇を噛む。
「き、貴様ァ、よ、よくも……み、見ておれよ、今に」
ぐらりと揺れた身体で、櫻葉は膝をつこうとして、そのまま地に転がった。それでも刀を支えに身を起こそうともがく。ユキは思わず後退る。
暗がりに黒い液体がどくどくと広がる気がする。
櫻葉の意識は落ちていないが、声にならない呻きに、恨み言は呑み込まれていく。
(お、俺が、斬ったからだ)
恨めし気な瞳がユキを睨んでいる。呪いを孕んだ瞳がユキを貫く。ユキはそれを見下ろしている。
(血が、たくさん出てる、こんなに流したら、この人は、きっと)
髪色と目色を変えて、覆面で口元を覆ってはいるものの、素顔を見透かされているような気分になって落ち着かない。思わず二歩、三歩と退がっていた。胃から迫り上がるものを感じて、その熱さを吐き出さないように堪えるので精一杯だった。
気持ちが悪い。
吐き気がする。
この後は何をすべきか。どうしよう、逃げ出さねばならない、しかし興長に何と言えばいいのか。アンドレは櫻葉が死ぬことまでは望んでいない、ならば友と呼んでくれた人の大切な人を斬ったのか、己は────思考はまわるばかりで、ユキは震えていた。刀を待つ手に力が入らない。
(ひとごろし!)
耳の奥で声が響く。
いつか言われ続けた謗りではなく、真として、自分はそうなったのだと吐き出しそうになる。瞼の裏がちかちかと点滅するようで、ユキはなんとか意識を繋いでいた。
(俺が、ひとごろし)
おえんがユキを揺さぶった。
「ユキ! ユキ! おい、しっかりしろヨ!」
「…………お、えん」
「ちぇ、コイツったら! 誰か人が来るぞ! もー斬らねェンだろ? ならとっとと逃げるぞ!」
「俺、どうしよう、ひとを」
「もー! 今はそんなんいいから! 誰か人が来るンだって────ちぇ、仕方ねえ! おまえの身体借りるぞ!」
「……う、ん」
強制的に意識が引っ張られる感覚があったが、ユキは無抵抗におえんに身を委ねた。何も考えたくなかった。
瞬きひとつ。
ぴたりと震えを止めた掌が、落としかけたえんきりの柄を強く握りしめる。ユキの意識の外で勝手に身体が動く。おえんはこんなこともできるのだと、遠くで考える。
(……どうしよう、おえん、俺)
ああ、と今更ながらに覚悟を問うた興長の憂いに思い至る。剣を持って人と向かう以上、相手を斬ることなんてあり得ることは分かっていた。悪人なら平気で斬れる、そんなつもりだった。
おえんがユキの衣装を整えつつ、なにか妖術を使っていく。ユキの気力が抜かれる。
「おまえ、よくやったナ。ふふ、流石はあたしの剣士だ、正直まだ斬れねェかと思ってたケド、ちゃあんと斬れたじゃねーか。あいつはいっとうの悪人だからナ、これは人助けだ。気にすンナ」
「それでも、斬らなくてよかった」
「もーうるさいナ、おまえの選択をあたしが否定するもンか! おまえはよくやったンだってば」
「……本当に、そう、なのかな」
掠れた声で聞くが、おえんは答えなかった。ユキの身体は身軽に夜の町を駆けていく。
ユキは沈んだ心で、ただ先ほどの感触を思い出しては震えるしかなかった。
+++
去って行く少年の背中に櫻葉は悪態をつく。
けれども追いかける術はない。ぜえぜえと荒い呼吸で、睨みつけていた。
這いつくばって、時間をかけて、漸く小屋の入り口に着く。いざという時のための妖具は一式床下に隠していた。その中に応急処置に使えるものもあったはずだとささくれた床を弄る。どこか指先にいっとう硬い感触があって、そこを持ち上げれば、すぐに目当てのものに行き着いた。
じきに警備か、或いは自分の私兵が異常に気がついて櫻葉を探し来るはずだ。ひとりここを離脱した男が人を呼ぶはずだ。あれはまだあの少年にやられていないし、来るまでに痛めつけられたうちのひとりでも動けば櫻葉の勝ちだ。あとは腕のいい医者に見せればいいのだと己を鼓舞する。
ふと、規則的に土を踏む音がする。
(誰だ? 警備にしては、早すぎるが……)
ざく、ざく、ざく、と無遠慮に近づいてくる。
黒い装束に頭から爪先まで隠した男がひとり立っている。その冷たい双眸が櫻葉を見ていたのである。そこに困惑の色が浮かんでいるのが辛うじて見てとれた。
「これは…………」
男はじろりと櫻葉の状態を確認していた。
この男は騒ぎを聞いてやってきたのか、こんなにも怪しいがそうだ、きっとそうだと決めつけて櫻葉は常のように強気な仮面を被ることにした。
「おう、おぬし、よかった、人を、誰か、人を呼んではくれぬか……! 銀髪の、ユラ人の小僧に、突然斬られたのだ!
「ううむ……」
「な、なに、たんまりと、礼は弾もう。なんたって儂は」
「──存じてますよ。櫻葉カズマ殿でしょう。ええ、存じ上げておりますとも」
男はやっと櫻葉に向けて丁寧にお辞儀をした。
「お初にお目にかかりますな、櫻葉カズマ殿。そのお怪我ではお辛いでしょうが、しかしそれで今すぐに死ぬことはありません」
「い、いいから、そんなことはわかっている! さっさと人を呼べと──」
「ははは、人を呼べとは不可能なことを仰る。誰も来やしないのに」
男は
「い、いや、ここは儂の町だ! 儂が来いと、言えば誰だって来る、はずだ」
「おや、この町の統括は一商人が勤めているとでも? まったく町役人たちは何をしているんだか……。まあ、金で買収されるような連中だものなあ。それでも必要な部品ですから、彼らは見逃されるわけで──しかし不必要なものは捨てねばなりません。そうでしょう」
漸く、櫻葉は見下ろす男が何をしに来たのかを悟った。
この男は人を殺す為に来たのだ。そういう輩を、櫻葉自身も雇ったことがある。それと同じ目をしていた。
しかし、それを雇えるような金持ちに恨まれる覚えはない。こういった行為には大金がかかる、それを為せるような偉い人に対しては、櫻葉はアコギな真似などしていない。
多少遺恨のありそうな町人やらミヤトの人らは複数思いつくのだが、業突く張りの殺し屋などとても雇えるはずもない。
だから狼狽えた。
闇討ちを生業にする男は無感情に櫻葉を見つめていた。
「き、貴様、誰だ、誰に頼まれた」
「はてさて、誰でしょうな。多少の悪事ならば見逃しましょうが、それでやりすぎたのなら仕置きされても文句はありますまい」
「誰だ、この儂を闇討ち風情に襲わせるほどに恨むなどと」
「筋違いでしょうか? いやいや、あなたも存分に人を食ったのだから、そろそろ食われても良いのではありませんか」
「……ま、待て、そうだ、話をしようではないか! 金は欲しいだけ出す! 珍しい異国の技術だって手に入れたのだ、それを教えよう! この町から出て行けと言うならば従う、だから──」
「ご自身のばら撒いた因果が巡り戻ってきたとお思いくだされば。あなたの犠牲ひとつで、町の無能な役人たちも、自分たちの責務を思い知ることになる」
「ま、待て、この、ひとごろし────ッ」
「ええ」
男は太刀を抜くと、そのまま櫻葉に突き立てた。
鈍い音を立てる。
衝撃に息ごと断ち斬られて、櫻葉は目を見開いた。声にならない悲鳴をあげるが、上手く空気を震えさせられない。男は無表情に太刀を引き抜くと、続け様にその頸に振り下ろした。
一振りでごろりと頭が落ちる。
どろりと広がるそれを不愉快そうに見下ろして、男は刀を振った。
「……さて、どうするか……」
難しい顔をして、男は手配書を取り出す。櫻葉カズマの罪状を連ねた紙切れだ。血溜まりにそれを沈めると、振り返りもせずにその場を後にする。
櫻葉カズマの訃報は翌朝、大々的に町を賑わせることになった。
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