沈む村

平日黒髪お姉さん

短編

「お客さんー。ほんとうにここでいいんですか〜?」


 タクシーの運転手は心配そうな表情で確認を取るが。

 五十代前半と思しき男——山神咲太郎ヤマガミサクタロウは笑みを浮かべて。


「ここでいいんです」

「はぁ〜。でもここには泊まる場所も何も……」

「実家があるんです」

「へぇ〜。こんな山奥に」


 運転手は驚いたように言い、難しそうな顔をして。


「何かあった気がするんだよな、ここ……う〜ん。何か大切なことが」

「大切なこと? 猛獣に気を付けろとかじゃないですか?」


 会計を済ませた咲太郎はタクシーを降りた。

 すると、運転手が窓から顔を出した。


「それじゃあ、また帰るときは連絡してよ。迎えに来るからさ」

「あはは……もしも帰る機会があれば」


 咲太郎は曖昧な笑みを作って。


「それではありがとうございました」


 深々と頭を下げて、運転手と別れを告げた。


「じゃあ向かうか」


 独り言を呟き、咲太郎は歩き出した。


◇◆◇◆◇◆


 暫くの間歩くが。

 見渡す限りの山々。草木が刈られていない田んぼ。

 忙しく鳴き続ける蝉と、微かに聞こえる川の音。

 どこを見ても自然豊かなことしか取り柄がなかった。


「のどかだなぁ」


 高校卒業後、山神咲太郎は上京した。

 田舎には仕事がなかったのだ。少しでも多くのお金を稼ぐためには行くしかなかった。

 何度か地元へ戻ってきたこともあったが。

 両親を二十代前半で亡くした以来、殆ど戻ったことはない。


「あっ!」


 昔遊んだ水辺を見つけた。

 以前と同じく、水面は透明で、小さな魚が気持ちよさそうに泳いでいた。

 山の上から流れてきていて、飲み水としても代用していた。

 もう数十年前の出来事なのに、今でも覚えている。

 まるで、数日前のことみたいに。


◇◆◇◆◇◆


 それからも歩き続けると、段々と見慣れた景色が見えてきた。

 謎の高揚感に胸を躍らせられ、咲太郎の足は勝手に早くなっていく。

 ポツンポツンとしか建っていない家。二階建てではなく、全てが平家。

 当時は建設業者に頼むことなく、地元の人間だけで建てていたのだ。

 そう思うと、少々感慨深い話だ。


「あ、あった……」


 数十年振りに戻ってきた実家。大きな平屋建て一軒家。

 昔ながらの家なので鍵はない。誰でも出入りは自由だ。

 のどかな街だったのでわざわざ鍵を付ける必要がなかったのだ。

 今となっては、無用心だとしか思えないのだが。


「あぁ〜」


 未だに懐かしい香りがした。

 それを嗅ぐだけで。

 母親が台所で料理を作る姿。

 父親が畑仕事を終え、汚れて帰ってくる姿。

 そして、遊び疲れて、腹を空かせた自分の姿が思い浮かぶ。


「ただいま……俺、帰ってきたよ」


 まぶたに涙を滲ませながら、咲太郎は呟いた。

 彼が住んでいた土地は人口減少が伴い、廃村になった。

 タクシーで降りてからは徒歩だったが、誰とも一切会わなかった。

 もう誰も住んでいないのか。そう思っていたのに——。


「おかえりなさい、サクちゃん」


 大好きだった女の子の声が聞こえてきた。

 ずっと昔から大好きだったとある少女の声を。

 聞こえてくるなんてありえないのに。


「う、うそだろ……」


 咲太郎の前には、許婚の少女が立っていた。

 当時の姿のままに。


『サクちゃんが大人になったら、ユナをお嫁さんにしてね?』


 もう四十年以上前に、結核で死んだはすなのに。

 それなのに——咲太郎の目には、はっきりと見えた。


◇◆◇◆◇◆


 川神結奈カワカミユナ

 咲太郎の許婚にして、幼馴染み。

 幼少期の頃から一緒に過ごし、将来の結婚を約束していた女の子。

 だが、彼女はもう死んでいる。

 その事実を知っているからこそ、咲太郎は固まってしまった。


「サクちゃんー。サクちゃんー。ねぇー遊びに行こうよー行こうよー」


 結奈は咲太郎の腕をギュッと握って、ぶらんぶらんと揺さぶってくる。

 これは幻覚だ。幻聴だ。俺が勝手に作り出した、まやかしだ。

 彼女がこの世界に存在するはずがない。

 そんな否定を続ける間にさえ、ガクガクと身体を大きく左右に動かされる。夏の暑さに脳を溶かされてしまったらしい。冷やす必要があるようだ。


◇◆◇◆◇◆


 咲太郎は家を後にし、川辺まで向かうことにした。

 持参したペットボトルを持ってきたので、これに汲めばいいだろう。

 ゆったりとしたペースで歩く咲太郎の前を、結奈はあっちへこっちへと忙しなく動いている。


「おそい! おそい! おそい! サクちゃん、早くぅ〜!」


 咲太郎の目には、結奈の幻覚が家を出たあとも見えていた。

 しかし、何も返答をすることはない。幻覚と話すなんてバカげているからだ。


「ぷはぁー。う、うまいッ!」


 来た道を戻り、目的地へと辿り着いた。

 そして、早速自然豊かな山から流れてきた水を飲んでみた。


「おそとで遊ぶときには、水分補給は大切だもんね。さすがはサクちゃんだ」


 手を合わせて、そこに水を溜めて、口の中へと注ぎ込む。

 喉が乾いていたので、美味さは百倍にも感じられた。

 咲太郎がペットボトルにも水を入れていると。

 すると、少し怒ったような幻聴が聞こえてきた。


「あぁー。サクちゃんだけ、ずるいー! ユナも飲むー飲むー」


 その幻聴を聞いたあと、ペットボトルが押しのけられた。

 その代わりに幻覚で見える少女の手が水を受け取っている。


「あうぅ……。つ、冷たいー。って、サクちゃんどこに行くのー? 置いていかないでよー」


 五十代。

 足腰も悪く、体全体が疲弊している。

 そこまでは認めるべきだろう。

 だが、頭のほうまで病に侵されているなんて。

 そんなことは信じたくなかった。


◇◆◇◆◇◆


 咲太郎は家へと戻った。

 早く寝たほうがいいと判断したのだ。

 キャンプ用品の寝袋を取り出し、休むことにした。


「サクちゃん、遊びに行かないのー?」

「…………」

「サクちゃん、遊びに行こうよー」

「…………」

「サクちゃん、寝たふりしてるー。ユナを無視してるー」

「…………」

「もうぉーっ。サクちゃんがイジワルしたー。女の子にイジワルしたらダメなんだよ!」

「…………」

「むぅー。サクちゃんがその気なら、もうこっちだけ容赦しないんだよ!」


 結奈が咲太郎の腹上へドスンと飛び乗ったのだ。

 骨に伝わる衝撃。最初は何事かと思った。次第に広がっていく痛み。


「うっ……」


 悲痛な叫び声を出したおかげか。


「ご、ごめん……。そんなに痛くないと思って」


 結奈はすぐに飛び降り、ぺこりと頭を下げてきた。

 飛び降りた瞬間にも咲太郎の腹部には衝撃があった。

 とりあえず、これは話し合う必要がある。


◇◆◇◆◇◆


「ユナなのか?」

「ユナだよ。忘れちゃったの? ユナのこと」

「そ、そんなことはないッ!」


 誰が忘れるか。

 この世界で一番大好きだった女の子を。

 誰が忘れてたまるか。一度足りとも忘れたことはない。


「それなのに……ユナのこと無視してたよね?」

「え、えっと……ご、ごめん」


 小さな声で謝ったあと、咲太郎は気になることを訊ねてみた。


「生きてるのか?」

「ううん」


 ユナは優しい笑みを浮かべて、首を左右に振った。

 それから真っ直ぐな瞳を向けて、元気な声で言う。


「ユナは死んでますよ。もうずっーと遠い過去に」


◇◆◇◆◇◆


 聞きたいことは山ほどあった。


「どうしてここにいるんだ?」

「サクちゃんを待ってたの」

「ん?」

「サクちゃんが来るかもと思ったから」


 結奈は訂正するように。


「あ、普段はね、ユナもお墓にいるんだよっ!」

「でもねでもね、やっぱり遊びたくなっちゃうの」

「それでね、色んなところに行くの。お化けトンネルとか、秘密基地とか、サクちゃんの家とか、いっぱいいっぱい〜遊びに行くんだぁ〜。でもね、ひとりはやっぱりつまらないんだよ」

「だからいつもサクちゃんが来るのを待ってたんだ」


「えっ?」


「今日は来るかなぁ〜。明日は来るかなぁ〜って」

「でね、今日はめでたい日なんだよっ! もう一度会えたからねっ!」


 結奈は待っていたのだ。

 咲太郎が帰ってくる日を。

 何日も何年も。

 そして、今日久々に会えたというのだ。

 もう会えないと思っていたのに。


◇◆◇◆◇◆


「あの世ってどんな感じなんだ?」

「気になるの?」

「まぁー近々俺もそっちに行くからな」

「そっか。もうサクちゃんも五十代だもんねぇ〜」


 感慨深いです。

 とでも言うように、結奈は続けて。


「意外と普通だよ? この世界の延長線上にあるって感じ」

「ふ〜ん」

「そんな難しい話よりも、遊びに行こうよッ!」


 咲太郎は結奈と共に家を出ることにした。

 腕を掴まれているので、逃げることはできない。


「どこに行くんだ?」

「どこに行きたい?」

「ユナと一緒ならどこでも」

「——それなら探検に行こッ!」


 咲太郎と結奈は探検へと出かけることにした。


「き、きもちいいぃ〜。空気が新鮮だねぇ〜」


 実家の倉庫に置いていた自転車を引っ張り出し、パンク修理と空気を入れ直した。

 それでもサビだけは改善できるはずもなく、ギィーコギィーコと変な音が出ている。

 咲太郎が自転車を漕ぎ、その後方には結奈が座っているわけだ。


「幽霊なら飛べるんじゃないのか?」

「ここがいいの、サクちゃんの後ろが」

「まぁーそれはいいけど」


 咲太郎はそう呟くと。


「それにしても……ペダルが重いんだが」

「失礼だよ。ユナはね、体重ないからねッ!」

「えっ? すげぇーな、幽霊」

「それだけサクちゃんが成長したってことじゃない?」

「成長じゃなくて、もうこれは退化だと思うけどな」


 子供の頃に遊んだ懐かしき場所の数々。

 お化けトンネル、秘密基地、カッパ沼、使われなくなった線路跡地。

 田舎だったけれど、それでも子供はまだたくさんいた。

 今ではもう散り散りになってしまったけれど。

 それでも、目を瞑るだけで、みんなで遊んでいた記憶を思い出すことができた。


「あの頃は……た、楽しかったな、毎日が」


 夏の今頃、みんなで自転車に乗って出かけていた。

 男も女も関係なく、村の子供全員で遊んでいたのだ。

 虫取り、川遊び、木登り——思い出せる範囲でも沢山あった。

 自転車でどこまで行けるのかと言い、永遠に走らせたこともあった。

 そして——永遠に続く道を諦め、夜が更けてから家に帰り、大人に散々怒られた。


「あぁー。でも変な気分だなぁ〜。自分の墓場に来るなんて」


 最後に向かったのは、川神結奈が眠っている場所だ。

 もう何十年も通っていなかった。

 苔も生えるし、草木が生い茂っていた。

 酷いものでは風化し、墓標が半壊しているものもあった。

 人が殆ど来ていないのが丸分かりだ。


「サクちゃん……ユナはこっちにいるんだけど?」


 結奈が声をかけてくるのだが、咲太郎は墓に向かって手を合わせた。

 暫くの間、そうしていると、川神結奈が死んだことを改めて思い知らされる。


「よしっ。もう暗くなってきたし……そろそろ帰ろう!」

「うん、帰ろうか……でも、ちょっと待ってくれないか?」


 咲太郎はペットボトルと薬を取り出した。

 そんな彼を見て、結奈は言った。


「お薬飲むなんて、体調悪いの?」

「ただの痛み止めだよ。歳を取ると、疲労が溜まるんだよ」

「なるほど、大人は大変だね〜」

「あぁ、あの頃は早くなりたいと願っていたのにね」


 長いようで短い道のり。

 咲太郎は自転車を漕いで、実家へと戻っていた。

 と、そのとき——人に出会った。

 誰もいないと思っていたのに。


「お、お客さんー!」


 タクシーの運転手だった。

 やっと会えたとでも言うように、その男は汗を拭っている。


「どうしてここに?」

「それはこっちのセリフですよ!」


 運転手は、咲太郎の手を取って。


「やっと思い出しました。実はダムになるんですよ、ここは!」


 咲太郎は黙った。


「少子高齢化の影響でここは廃村になったでしょ? その影響で、ここをダムにしようという計画があるんです。誰も住まない土地を再利用しようとしていましてね——」


 声も出さずに、ただ運転手の話を聞く。


「だからもう沈むんです!! は、早く帰りましょうッ!」


 焦る運転手に対して、咲太郎は平然として。


「申し訳ありません。実は知っていました」

「えっ?」

「もう疲れたんです、人生に」


 最愛の人——川神結奈がいなくなってから、山神咲太郎の人生は変わってしまった。

 結奈が結核で亡くなったと聞き、隣町の病院まで自転車を走らせて向かった。

 病室で静かに眠る彼女を見て、神様を何度恨んだことか。


——どうして彼女を殺したのだ?

——どうして彼女が死ななければならないのだ?

——どうしてこんな悲しい結末を迎えなければならないのか?


 川神結奈が大好きだった。一生ずっと一緒だと思っていた。

 けれど、そんな明るい未来は訪れることはなかった。


 高校卒業後、一人で上京し、慣れない街、慣れない人間関係、慣れない仕事。

 日々の生活に必死だった。生きることに必死だった。

 毎日毎日働き詰めで、少しでも嫌な記憶を忘れたかったのだ。


 仕事だけが生きがいだった。仕事だけが唯一残されたストレス発散方法だった。

 でも——リストラを食らい、会社をクビになった。

 そして気づけば——。

 結婚もしなければ身寄りも誰もいない無職独身五十代男性が誕生したわけだ。


「何を言ってるんですか!! お客さんっ!」

「もう決めたんです」

「自殺はいけませんっ!」

「自殺と言われても仕方ないかもしれません」


 山神咲太郎は断言してから。


「末期癌なんです」


 朝から晩まで働く生活を続けたせいか、体を壊してしまったのだ。

 若い頃はよかった。

 だが、歳を取ってからの重労働は毒にしかならない。

 長年の蓄積された毒が、山神咲太郎の体を蝕んでしまったのだ。


「えっ?」

「もう残り僅かしか生きられないと医者に言われました。だから、どうせ死ぬなら自分が生まれた土地で、自分が一番大好きだったあの子と過ごした場所で死のうと決めたんです」


 咲太郎の熱弁を聞き、運転手はもう何も言わなかった。もう言えなかったのだ、何も。

 だって、あの子と言いながら指差す方向には、誰もいないのだから。

 でも運転手は決して指摘することはなかった。

 楽しそうに話す咲太郎を見たら、そんな気さえ起こることはないのだ。


◇◆◇◆◇◆


 夜が訪れた。

 だが、咲太郎は寝床に着くことはなかった。

 縁側で焚き火して、炎が揺らめくのを眺めていた。

 そして、決意に満ちた表情で、とある少女の名を呼んだ。


「ユナ」

「ん? どうしたの?」


 咲太郎の隣でニコニコ笑顔を浮かべる少女は言う。

 幽霊なのに、眠たそうに目元をゴシゴシしている。

 そんな彼女にサプライズとばかりに。


「これを受け取ってくれないか?」


 生まれたときには決まっていた許婚。

 幼馴染みとしていつも一緒にいた存在。

 口癖は「サクちゃんのお嫁さんになりたい」だった。

 そんな彼女に、咲太郎は指輪を取り出した。


 もう遠い過去の出来事なのに。

 その約束を叶えるために。

 もう遅いと言われるかもしれないが。

 どれだけ待たせるんだと思われるかもしれないが。

 それでも——咲太郎は、ここへやって来たのだ。

 遠い昔、世界で一番大好きだった少女が願った夢を叶えるために。


「これは……指輪ッ!」

「あぁ欲しがってただろ? 昔からずっと」

「…………いいの? こんなもの貰っても」

「あぁ、いいんだよ。貰ってくれよ」

「うっ……う、うっ……うんっ……」


 泣き出したユナ。

 ボロボロと涙が落ちた。

 昔から欲しい欲しいと何度も言っていた。

 その夢が叶ったのだ。さぞかし、嬉しかったのだろう。


「ごめんな、こんなおっさんになっちまって」

「関係ない……そ、そんなの全然関係ないッ!」


 ユナは滾れ落ちる涙を堪えながら。


「ありがとう、サクちゃん。約束覚えててくれて」

「当たり前だ。誰が忘れるか」


 咲太郎は迷わなかった。

 後悔はない。あるはずがない。

 大好きだったあの子と一緒に過ごすことができるのだから。

 夢でも幻覚でもまやかしでも構わない。


 たとえ、明日——村が沈むとしても。


 残された時間の中で、咲太郎は生涯で一番幸せなときを過ごすのであった。

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沈む村 平日黒髪お姉さん @ruto7

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