内容証明

欠け月

第1話 内容証明


 この女は、随分とおしゃべりだ。

ひっきりなしに、口を動かし、合間に菓子をつまみ、大声で泣き、わざとらしく笑う。


 一体、この女のどこに魅力があるのだろう。


 良く見れば、銀歯がぼってりした分厚い唇の端からチラチラ覗き、真っ赤に塗った口紅にそれは不似合いで、一層女を下品に見せている。

長い髪が自慢なのだろう。やたらと、髪をかき上げ、わざとらしく、いじる。

揺らす度に、茶色に染めた髪が床に落ちると思うと、不快で気分が悪くなる。


 潔癖症気味の私は、朝4時に起きると、1階の部屋全体を磨き上げ、夫が家を出ると

2階の掃除に取り掛かる。細部に至るまで汚れを落とし、一心不乱に、あちこちに散らばる、人の生活の気配を消して回る。匂い、乱れ、しみ、汚れ、埃、髪の毛。

一つ一つ生きている証を取り除くことで、私はやっと自由に生きられる。

私がここまで掃除に執着する原因の一つは、父の不倫だった。


 私が高校生の時に、母以外の女と肉体関係を持ち、その現場を私は見ていたからだ。


 普通はありえない、見ていた、という状況になったのは、私のアルバイト先がラブホテルだったから。私は、当時女子が少ない国立の高専に通っていた。

理系でITに強いことを買われ、高額の時給に釣られてラブホテルの監視カメラと自動受付の簡単なメンテを担当することになったのだ。

部屋に備え付けられた、監視カメラは設定のチェックのみなので、通常は、それぞれの部屋で繰り広げられているあられも無い痴態を見るわけではない。

流石に高校生のバイト先としては、ラブホテルは周りに言いづらい。親にも反対されるだろうと思い、表向きは居酒屋でバイトをしていると言ってあった。居酒屋なら、

友達も行きたいとは言わないだろうし、親も忙しかったから、娘のバイト先に顔を出しそうな気配は無かった。

まさか、週三日とは言え、高校生がラブホで機械や機材のチェックをし、カメラの位置を変え、録画フォルダーを整理し、受付の自動音声やデジタルサイネージの情報書き換えをしているとは、誰も思っていないだろう。身近な人間は、特に。

その日も、いつも通り録画室で新しいプログラムをダウンロードし、動作確認をしている時だった。

ふと、パーキングの防犯カメラに目をやると見たことのあるコートが、助手席から降りてくるのが見えた。

クラス担任の糸川香織だった。「糸川先生」意外な人物に、思わず緊張し、見てはいけない瞬間に立ち会ってしまったと、慌てて目を逸らそうとしたが、片側の運転席から出てきた人間は、更に、私を凍り付かせた。

 父だった。

急に喉が渇き、自分の耳元で大きな鼓動が鳴り出し、金縛りにあったように、身動きが出来なくなった。

それでも、頭の中は冴え冴えとしたもう一人の自分が、冷静に状況を眺め、分析していた。この二人が出会う状況といったら、数ヶ月前の三者面談で出張中の母の代わりに、父が出席した時だろう。それ以外は、心当たりがない。思い返せば確かに、共通の話題になった時に、二人でやたら盛り上がっていたのは、いつも静かな糸川にしては珍しいと思っていたのだ。

担任の糸川は、サイエンスイングリッシュ担当でボストン留学経験がある。父は長い間、ロサンゼルスで暮らしていたから、互いに懐かしいアメリカに思いを馳せたのだろう。


 そして、それだけでは済まなかった、と言うわけだ。これから行われるであろう、吐き気がする様な行為への嫌悪感と、阻止すべきなのか、見過ごすべきかの決断。数分の葛藤の後、結局私は、後者を選んだ。理由は、父の弱みを握ろうと思ったのだ。

思春期の女子が、意味なく父親を憎むのは成長過程での通過儀礼であり、いたって当たり前の感情だろう。

御多分に洩れづ私もそうだった。


 決断すると案外冷静で、受付を通り、部屋に入っていく二人を、モニターチェックしているマネージャーの肩越しに、忙しく目で追った。

部屋に入った二人は、しばらく何か話しているようだったが、服を脱ぎ、キスを交わし始めた。恋の経験もない奥手の女子高校生にとっては、生理的に受付けられない光景の展開は見るに耐えず、休憩を取るふりをして、事務室を出た。自分の父親と学校の担任が男と女になって抱き合うなんて、これ以上の胸糞の悪い悪夢があるだろうか。

それ以来、私にとって異性との深い繋がりは不道徳で倫理に反した、後ろめたく、

どこか汚れ(けがれ)たものと感じてしまうのだった。

だから、他人の体温も息遣いも、肌の感触も、私にとっては居心地が悪いのだ。たとえそれが、夫であったとしても。


 夫とは、結婚前に契約を交わしていた。

これは、夫の方から言い出した婚前契約だった。カリフォルニアに住んでいた彼は、大学時代に同級生と一度婚姻の経験がある。

若いカップルにありがちだが、数年で離婚しカリフォルニア州法により、離婚裁判後財産は全て半分になった。

ほとんどは、夫の稼ぎと裕福な実家からの送金を元手に、投資で得た利益だった。にも関わらず、元妻に大金を持って行かれたのが余程悔しかったらしく、二度と同じ轍は踏むまいと、私との結婚時には詳細な契約を交わしたのだ。離婚のいざこざは相当な痛手だったようで、トラウマになっていたのだった。

だが、私にとっては、どうでもよかった。私自身が彼を裏切るような行為をする理由が無かったし、私には両親から贈与された不動産があり、その他にも十分な収入があった。


 その一つが、父からの送金である。私はタイミングを見計らって、父を毛嫌いした理由は、糸川との不倫であると話した。

偶然バイト先で見た二人の逢瀬の様子、その証拠となるビデオの存在を明かした。無論、父親の不倫現場のビデオをコピーして持つような、気持ちの悪い行為をするわけがない。ダメージを大きくする為に、嘘をついたのだ。

父は、言い訳が出来ず、口止め料のつもりか贖罪しょくざいなのかは知らないが、毎月私への高額の送金をしてきた。

父の持つ会社の従業員扱いとなり、給与の名目で口座には手付かずの金が積み上げられていった。そんなものに興味は無かったし、使うつもりもない。

ただ、犯した罪の重さと、私という証人がいることを忘れて欲しくなかったし、己の不埒な行為の戒めとして生きて行って欲しかったのだ。


 夫も私の資産に関しては、十分承知していたとは思うが、しかし、男とは何故こうも哀れな愚か者なのだろう。

自分を守るためのトラップに自分ではまってしまうとは。

彼は、結婚して、2年目に浮気をしたのだ。七年目の浮気ならマリリンモンローの映画が有名だが、たった2年しか持たなかった。


 男の愚かさの一つは、絶望的に、嘘が下手なことだ。

目を泳がせたり、空咳をしたり、鼻腔びくうが広がったり、口元が曲がったり。

自分では気付かない色々な癖が、心の葛藤を伝えてくる。

夫の場合は口の周りを頻繁に手で触るようになる。更には、余計に喋り過ぎる。

私は、滅多に出張などない職種のフリーランスだが、夫はその滅多にない隙に墓穴を掘っていた。

以前から関係を持っていた女を、家に連れ込んだのだ。

出張から帰ってきた私は、直ぐに散らかった部屋の掃除をし始めた。夫の中途半端な証拠隠滅など何の役にも立たず、数分で異変に気付く。

当たり前だ。髪の毛一本、汚れ一つを嫌い、寝る間も惜しんで生命の痕跡を拭い去ろうとする、どうにもならない病を持った人間の目を、誤魔化せるはずがないのだ。隠しきれない、不貞の証拠を一つ一つ丁寧にジップ付きビニール袋に保管した。それからの作業は事務的だった。

クラウドに送信された車のGPS位置情報を閲覧し、日にちと滞在時間から大まかに相手の住む場所、落ち合う所を割り出す。

人間の緊張は長くは続かない。夫も最初の頃は、私に気付かれないよう細心の注意を払って、相手の女と会っていたはずだ。だが、慣れてくると次第に、同じルーティンを繰り返したくなる。その方が楽だからだ。同じレストラン、カフェ、ホテル。

目星をつけたホテルの監視カメラをハッキングし、GPSの記録と照らし合わせる。日にち、時間帯の出入りを調べ、部屋を突き止め、行為をコピーすれば、全ての証拠が揃う。父へのトラウマを生んだ学生時代のアルバイトは、皮肉なことに、夫の不倫で大いに役に立ったわけだ。


 不思議な偶然だが、父も夫もカリフォルニアに留学していて、その共通点が、互いに気を許すきっかけになったはずが、今度は妻に対しての裏切り行為でも、気が合い共通点を作ったわけだ。


 今となれば、はっきりわかる。私は、父を憎みながら父を愛していたのだ。最悪の現場を目撃しながらも、どこかで誠実さを期待し、その願いに依存もしていた。

だから、同じようなタイプの男に父を重ね、もう一度、同じように期待をかけて、かつて裏切られた痛みと欠落を代わりに埋めてもらおうと思ったのだ。


 夫を憎まないと言えば嘘になる。しかし、人間は魔が差す時もあるし、誘惑や快楽に抗えないのも事実だ。その愚かな不完全さこそ、人間の証とも言える。

だから、半分は憎み半分は許したい気持ちもあった。 


 これが初めての不貞ではない、と知るまでは。


 夫の手が口元を頻繁に触るのが気になって、念のため、他にも浮気相手がいるのはわかっている、とカマをかけてみると、予想に反してペラペラと喋り出したのだ。

夫には、同時に数人の愛人がいた。

ここで、私の忍耐は跡形もなく打ち砕かれ、頭の中では離婚に向けてのゴーサインを出していた。

だが、ただ離婚するわけにはいかない。彼への復讐と戒めの十字架を背負わせる権利を、行使しなければ、私の中での決着がつかない。


 夫を許すふりをし、付き合っている女達全てと完全に手を切ること。

もし、再び不貞行為をした場合は、慰謝料請求及び夫の持つ全ての財産を私に移譲し、同様に、不適切な関係を持った相手にも慰謝料請求を行う旨の条件を飲ませた。

当然、抗える権利が彼にあろうはずもない。


 水商売の女達は手切金を貰うと、あっけないくらいに身を引き、次の獲物獲得に向かった。しかし、素人の女は、そうはいかない。愛、情、約束、信頼、未来の計画を盾に、夫を責めたて諦めが悪い。なんだかんだと理由をつけて、会いたがる。

涙ながらに未練を言い募り、心を取り戻そうと躍起になる。しかし、私からの慰謝料請求の可能性を話すと、距離を置くようになり、最終的には別れる条件を飲む。


 そして、最後までしぶとく粘ったのが、このモニターに写っている女である。

悲劇を演出するかのように、全身黒一色で玄関から入ってきた小太りの女。

夫が仕事関係で知り合ったという、30代前半と思しき、厚化粧の女は、ゆるい顎の下、膨れた背中、たるみ始めた二の腕に疲れと焦りを滲ませていた。


 離婚を決意してからは、家中、部屋中に監視カメラと盗聴器を設置した。

最悪、離婚調停から裁判になった場合に備え、動かぬ証拠は出来る限り集めておきたかった。

再起不能になるほどのダメージを与えるために、出張と偽りわざわざ家を空け、二人が禁を破る機会を与えたのだ。あっけなく罠にかかった男は哀れでさえあったが、

用意周到な妻の戦略を疑わないのが、むしろ不思議でならなかった。

何度殴られれば、痛みを実感できるのだろう。金には貪欲で、敏感な癖に他人には、一向に関心がないようだった。 私にとっては、好都合ではあったが。


 女は、ハンカチでわざとらしく涙を抑えたり、楽しかった時の思い出話をして、あの手この手で絡め取ろうとしたが、いよいよ付け入れないとわかると、奥の手を使ってきた。

油ぎった唇で夫の口を塞ぎ、スラックスのファスナーに手をかけた。

結局、誘惑に抗いきれず、ファスナーを下ろす赤い爪を退けようとはしなかった。

こうなれば、女の思う壺であり、私の思う壺でもある。むしろ、この厚化粧の小太りは私の味方であり武器にもなってくれたのだ。


 行為の一部始終を録画し、フォルダーに収めた。

汚水を飲み込んだようなおぞましさと不快に、歪みきった心を引きずるように、我が家に向かった。

許されるなら、快楽を貪り、昇り詰め、緩み切った状態でソファーに横たわっている、薄汚れた間抜けな外道二人ごと、全て燃やしてしまいたかった。

夫はこれで、当分の間は一文無しとなり、女は刹那の快楽と頼りない希望にすがったがために、慰謝料以上の代償を払う羽目になるだろう。


 敵を倒すには、まず敵を深く知るに限る。


 この女は“ひも“と同棲中だった。

ひもは借金まみれで、役立たずの無職。女の収入だけが頼りだった。

毎日することもなくぶらついている、腐れ縁のひも男は、2、3日中に女宛の内容証明の手紙を受け取るはずだ。  

元郵便局員のこの男が、弁護士から届く内容証明郵便となれば、中身を知りたいと言う好奇心に到底勝てるとは思えず、我慢できずに封を切ってしまうに違いない。

不倫の事実及び本書面 到達後、2週間以内に300万の振込依頼が記されている書面は、女より先に目にするはず。


 腐れ縁とはいえ、女にとってはそれなりに情があったはずだ。

金の切れ目は腐れ縁の切れ目となり、女にとっても、めでたしめでたしと締め括られるに違いない。


 ただ、結果、私が得たものは、男性不信を一層拗らせ他人に対する潔癖症の悪化。そして、使い道のないお金だ。せめてもの救いは、離婚すれば掃除の時間が減って、自由な時間が増える、というところだろうか。



この物語を、音声アプリspoonにて音声化し、アップしています。

お時間がある時に、聴いて頂けるととても嬉しく思います。

https://www.spooncast.net/jp/cast/4744333









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