ジェノベーゼとABC

ぎざ

アブソリュートベルゼブブクレッシェンド

 人生は重要な選択の連続だ。

 歳を五十と重ねて、噛み締めるようにそう感じた。

 屈強な大剣の剣士、ジェノベーゼは今、重要な選択に迫られていた。


 左手には握った手の中に収まる程の太さの木の幹。

 右手には我が相棒である大剣『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』。


 どちらかを手放さなければ、命は無い。

 否。手放したところで私の命はあとわずかだった。




 ◆◆◆


 魔物との戦闘中、魔物たちの猛攻によってジェノベーゼは吹っ飛ばされた。危うく崖下に落ちてしまうかと思ったが、運良く崖の岩肌に対して垂直に生えている木の幹に捕まることが出来た。


 木の幹はミシミシと音を立てている。小さな、しかし何かが少しずつちぎれているような感覚を握った手の中に感じる。

 私の身体と、大剣『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』の重さをか弱い木の幹が支えきれる訳がなかった。


 崖の下をちらりと見た。

 瞬間、目を逸らす。

 顎から汗がしたたり落ちた。

 一体、崖下までどのくらいの距離があるのだろうか。

 距離、と表現したくなるほど、気が遠くなるほどに遠い。

 地面に落下してしまったら、とても無事ではすまないだろう。

 私ほどの戦士が、魔物との戦いに命を落とすのでもなく、ただ崖から落下して命を落とすなどと、誰が想像できようか。


 せめて、この大剣『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』を手放せば、少しの間は延命できるかもしれない。

 否、相棒『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』を手放してしまえば私は私では無くなる。大剣士ジェノベーゼとして死んでしまうと言っても過言では無い。


 そう血迷いごとを考えている間にも木の幹は頼りなく私の手の中で果てようとしている。

 何を迷っているのだ。命さえあればどうとでもなる。

 たとえ我が相棒『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』を手放したところで、私という剣士の矜持が死ぬわけがない。


 許してくれ、『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』。

 私はまだこんなところで死ぬわけにはいかない。

 人々を苦しめる魔物達を殲滅させるために、私という剣が折れるわけにはいかない。


 私の命がかかっている時であっても、逡巡してしまう。

 今まで私の命を守り、私を剣士たらしめてくれた、私の命の次に大切な、否、私の命と同等に大切な剣を、崖下に落とさなければならないのだから。


 小指を離す。

 今までありがとう、『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』。


 薬指を伸ばした。

 お前の丈夫さに、私は何度救われたか。


 中指の力を抜いた。

 お前がいなければ、私はとっくに命を落としていた。


 自然に、親指と人差し指の間から、彼はするりと抜け出した。

 私はまだ彼を手放したくは無かった。

 彼が、私を救うために身を投げたのだと、私は思った。


 私の顎に滴がしたたった。

 汗では無い。涙だった。

 私は、泣いた。

 冒険者として旅立って初めて涙を流した。

 彼のおかげで私は生きていた。

 彼の命を犠牲にして、私は生き残った。

 ここまでして、私がここで死ぬわけにはいかない。

 私は、死んでも死ぬわけにはいかないのだ。

 このまま木の幹に頼っていれば、今までと同じだ。

 今は右手がある。崖の岩をえぐり、掴み、このまま崖上まで登ってみせる。

 今の私には『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』がいない。だからこそ、彼が私に与えてくれた力を、今この右手に込めて、私は生き残ってみせる。

 再び地上に立ち上がってみせる。

 そう意気込んで右手を崖に伸ばした。



「あの~、ちょっとよろしいですか?」


「は?」




 ◆◆◆



 後ろから声を掛けられた。

 ちょっと待って欲しい。

 私は今、崖に生えている木の幹につかまり、ぶら下がっている状況。

 後ろから誰かに声を掛けられる状況では無い。

 あやうく手を離しかけた。


 右手も使い、両手で木の幹を掴んで、声の主の方に顔を向けた。

 そこには、子供がいた。

 どうしてここに子供が……?


 見たところ、宙に浮いている。

 なにが、なにが起きている……?


「お忙しいところすみません」

 崖の木に捕まっている現状を『お忙しいところ』と表現するのはどうしたものか。

 今の私は相づち程度を打つのも大変しんどい。切羽詰まっている。

「なんだ」

「あなたが落としたのは、この『金のアブソリュートベルゼブブクレッシェンド』ですか? それとも『銀のアブソリュートベルゼブブクレッシェンド』ですか?」


「…………、は?」


 子供の右手の先には、私が先ほど手放した『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』が浮かんでいた。ただ一つ違うのは、全体が金でできていることだろうか。私の『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』は金では出来ていない。金はとても脆い金属だ。刃こぼれしてしまってとてもじゃないが振り回すことは出来ない。


 子供の左手の先には、私が先ほど手放した『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』が浮かんでいた。ただ一つ違うのは、全体が銀で出来ていることだろうか。私の『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』は銀で出来ていない。銀はとても熱伝導率が高い金属だ。とてもじゃないが竜が吐く炎を斬ることはできない。


 私は、その子供が何者なのかとか、その金と銀の『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』が何なのかとかを言及する余裕がなかった。


 人生は重要な選択の連続である。ただし、じっくりと吟味する余裕が無いこともままある。そういうときこそ、自分に正直にあるべきだ。

 言葉は自然と出ていた。


「私が手放したのは金でも銀でもない。普通の『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』だ。それ以上でも以下でも無い」


「そうでしたか。それなら、正直者のあなたには落としたアブソリュートベルゼブブクレッシェンドをお返しして、更に金のアブソリュートベルゼブブクレッシェンドと、銀のアブソリュートベルゼブブクレッシェンドを差し上げましょう」


 私の右手に『金のアブソリュートベルゼブブクレッシェンド』、背中に『銀のアブソリュートベルゼブブクレッシェンド』、両太ももの間に『普通のアブソリュートベルゼブブクレッシェンド』が挟まれた。

 私はたまらず叫んだ。


「ちょ、ちょっと待て!!!」




 ◆◆◆


「え? なんですか? まだ何か?」

 子供は呼び止められるとは思っていなかったようで、意外そうな顔をしていた。

「一旦この剣を返してもいいだろうか」

「まぁ、はい。わかりました」


 三つの『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』はふわふわと子供の方へ返っていった。

「私のこの状況を見て、どう思う?」


 崖の木に捕まって命からがらな私を頭から足の先まで見て、「崖の木に捕まって命からがらって感じですかね」

「分かっているなら、金と銀のアブソリュートベルゼブブクレッシェンドを渡すな!」

 金と銀がどのくらい重いのか知っているだろう!!

 今一番渡してはいけないだろうが!!

 私が何のために『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』を、断腸の思いで手放したと思っている!!


「はぁ、でも、僕の泉に『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』を落としましたよね?」

「は? 泉?」

 崖下をちらりと見た。

 森が広がっているのが見えたが、泉なんて全く見えない。

「泉に物を落としたら、こう言えって書いてあるんですよね~」


 子供は紙に書かれた何かのメモを見せてきた。文字は読めなかった。私が読める文字では無いようだ。

「今、おかあさんが買い物に行ってて、お留守番してたんですよ。そうしたら空から突然『アブソリュートベルゼブブクレッシェンド』が落ちてきたので、あ、これは『泉の問い』をしに行かないとって思いまして」

 子供に見えたが、人間ではなく、『泉の精霊』だったようだ。


「それにしたって、泉からここまでずいぶんと距離があるだろう」

「そうなんですよね、僕も聞いたことあるのは、泉のすぐ近くから斧を落とした人に『泉の問い』をするっていうので。こんな遠くから落とされた時って、返した方が良いのか、無視して良いのか、わからなかったんですよね~。一応僕、宙を浮けるので、来ちゃいました」

 来ちゃいましたっておい。


「助けては、くれないのか?」

「それはちょっと僕にはどうにもできませんね」

「私を宙に浮かせてくれればいいんだ」

 子供の精霊は首を横に振る。

「僕は泉に落ちたものを、落とし主に『金のもの』か『銀のもの』か聞く。正直に話したら落とした物を返して、さらに『金のもの』と『銀のもの』もプレゼントする。もし嘘をついたら、落とした物は返さない。そういうルールなんです。願いを叶えるのはこことはまた違う泉に落としてもらわないと」

「ぐぬぬ……」

 今更違う泉に落とせるか!


 みしみしっ。


「ぐっ」

 あぁ、『金のアブソリュートベルゼブブクレッシェンド』と『銀のアブソリュートベルゼブブクレッシェンド』と『普通のアブソリュートベルゼブブクレッシェンド』を持った時に、限界を迎えていたようだ。

 もう、木の幹は保たない。亀裂が目に見えてわかった。

 なんということだ。ここで、終わりか。

 否、私はまだ諦めていなかった。


「おい、泉の精霊」

「泉の精霊の息子、ですけれどね」

「このまま下に落ちれば、泉の中に落ちることが出来るのか?」

「うーん、泉っていうか、池っていうか、水たまりっていうか……」

「おい」

 話が違うぞ。


「最近の干ばつで泉が干上がっちゃって、今おかあさんが水を買いに行っているんですよ。もう少し待ってたら水が補充されて、池くらいにはなるかもです」

 もう少しも待てないんだよ。

 私は屈強な大剣の剣士。大剣なき今となっても、私は剣士である。

 多少の衝撃、耐えてみせる!!


 人生は重要な選択の連続である。

 どんな困難の中にあろうと、最後まで諦めてはならない!


 木の幹が折れる。

 私の身体は重力に従い、落下し始める。

 崖に両手の指を当てる。足も使った。額も。使えるものは何でも使う。

 がりがりがりがりと崖の岩肌をえぐる。

 それで私の落下が少しでも遅くなれば良い。

 そして、落ちるんだ。

 水たまりなのか、池なのか、うまいことその泉もどきに!!


 鎧がびりびりと空気で震える。

 眼前に森が迫る。

 私は崖から手を離した。

 頼む。助けてくれ。

 アブソリュートベルゼブブクレッシェンド。


 俺に力を。俺は剣なのだと、その屈強な体力を証明する!!



 ドボンっ!!!




 ◆◆◆



「あなたが落としたのは金のジェノベーゼですか? 銀のジェノベーゼですか?」


「落とし主ってのは、落ちた本人にも確認するんだな?」


 泉のお母様が水を足してくれたのか、私はなんとか泉に落下した。

 女性が『泉の問い』をしてくれたので、私は泉の精霊に感謝した。

「私が落としたのは、私だ。剣でも、大剣の剣士でもない。普通のジェノベーゼだ。それ以上でも以下でもない」


「正直者ですね」

「それだけが取り柄でね」

「よろしい。それでは、正直者のあなたには、金のジェノベーゼと銀のジェノベーゼを与えましょう」


「…………は?」




 ◆◆◆



 屈強な大剣の剣士、ジェノベーゼは今、魔王の討伐に迫っていた。崖から生還し、再び冒険へと立ち上がった。

 大地を蹴りあげ、魔物たちをばっさばっさとなぎ倒す。


 金のジェノベーゼは金のアブソリュートベルゼブブクレッシェンドを。

 銀のジェノベーゼは銀のアブソリュートベルゼブブクレッシェンドを。

 普通のジェノベーゼは普通のアブソリュートベルゼブブクレッシェンドをたずさえていた。


 ジェノベーゼは笑っていた。

「またお前と共に戦える。生きていればどんな困難も、どんな選択も乗り越えてみせる!」


 金のジェノベーゼよりも頑強で、

 銀のジェノベーゼよりも熱に強い、

 普通に強いジェノベーゼの冒険は、これからも続く。






 完。

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ジェノベーゼとABC ぎざ @gizazig

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