身近な事件
そうざ
Incident in the Vicinity
『事件が起きたのは、僅か二時間程前です』
貴女は若い女性アナウンサーの姿にほっと息を付く。学校から帰ってテレビを点けると、決まって報道番組が流れ出す。たとえ興味の湧かない内容でも、寂しさが幾らか紛れるのだ。いつもは大好きなバラエティー番組で大口を開けて笑っているアナウンサーが、今は深刻な表情をしている。
『普段は閑静な住宅街という事ですが、ご覧のように警察車両が停まっていたり、騒然とした雰囲気です』
貴女は小学五年生の女の子。最近、妙に身体がだるい。このままテレビを観ながら寝てしまいたいと思うのだが、そういう訳には行かない。先ずはベランダの洗濯物を取り込む。安アパートは日当たりが悪く、夕暮れまで外気に晒された洗濯物は氷のように冷たい。母親の派手な下着の扱いに気を遣いながら、自分もいつかはこういう物を身に付ける日が来るのかな、と考える。
テレビ画面には『中継』『T県Y市』『通り魔』等の文字が踊り、続けて『けが4人』とテロップが表示される。
浴槽を掃除して風呂を湧かす準備をした後、数日分の洗濯物にアイロンを掛けて畳み終えたら、今度は流しに溜まった食器を洗わなければならない。ほとんどは母親が使った物だ。母親はスーパーのパートを終えると、夜の仕事の身支度をしに一旦帰って来る。それ迄に全てを済ませておかなければならない。そうでないと、母親は忽ち不機嫌になる。それでも、昼夜を問わず働き詰めなのだから仕方がない、と貴女は思う。
『近くには小学校もあります』
ほんの一時間くらい前まで自分が居た校舎に、夕日が当たっている。貴女の目には、見慣れた風景がよく似た知らない世界のように不可思議に映る。
『目撃情報を元に、犯人の足取りを辿ってみたいと思います』
アナウンサーの背後に野次馬が蠢いている。何処かに電話をしている者、写真や動画を撮る者、ランドセルを背負った子供達は中継カメラに笑顔でピースサインを出している。貴女は、帰宅時間がもう少しずれていたらテレビに出られたのだな、と思う。もしかしたら、時間的にパート帰り母親が映るかも知れない。
『犯人は刃物を携帯しており、先ずこちらの店舗から出て来た三人組の女子高校生に次々と切り付けました』
アナウンサーがカメラと共に移動して行くと、通学路の途中にあるコンビニエンスストアが映し出される。クラスメートはいつも自由に買い食いをしているが、貴女は家計の事を考えて最低限の買い物しか出来ない。いつものように特売のカップラーメンに湯を注ぐ。
『幸い三人は軽症で済みましたが、犯人は警察が駆け付ける前に逃走しました』
アナウンサーが犯人の逃走経路を辿って行くと、昔親友だった子の豪邸が一瞬だけ映り込む。あの子には面と向かって、もう一緒に遊べない、と言われた。親の言い付けらしかった。貴女は、うちが母子家庭で貧乏な所為だと思った。この時、世間体という言葉を初めて学んだ。
『犯人の凶行は続きました。道行く人々に無差別に切り付けたのです。このように路上に残された血痕が事件の凄惨さを物語っています』
急に下腹部に違和感を覚えた貴女は、トイレへと急ぐ。便座に腰掛けた時にはっとする。パンツに生々しい染みが出来ている。貴女は、母親が帰る前に何とかしなければ、と咄嗟に考える。母親の事を考えると下着一枚でも粗末には出来ない。
『只今入って来た情報です。被害者の一人、重症を追った女性が搬送先の病院で亡くなった模様です。なお、亡くなった女性の身元は判っていません』
被害女性の特徴が示される。年の頃、髪型、体型、服装――浴室でパンツを洗っていた貴女の手が止まる。母親に似ているような気がする。周囲はもう夕闇に沈んでいる。いつもならば帰って来て良い時刻だ。さっき画面に映し出された血痕が脳裏を過る。
『犯人は半裸の状態で笑いながら刃物を振り回していたという事で、警察は薬物を使用している可能性もあると見ています』
貴女は、中々落ちないパンツの染みにもう興味を失っている。今日は先に入浴しても構わないだろう。洗面所の煤けた鏡に貴女の貧弱な裸体が映る。どす黒い大小の痣が蛍光灯に浮かび上がる。
『犯人は今も逃走中です。近隣にお住まいの方は特に戸締まりを厳重にして、不用意な外出はお控え下さい』
顎まで湯船に浸かった貴女は、母親が存在しない世界をじっと想像してみる。一人ぼっちになる不安よりも、この日常が綺麗さっぱり砕け散り、別の未来の訪れに打ち震える。
『こちらが目撃証言を元にした犯人の特徴です』
急遽用意されたと判る稚拙な人物像が画面に示された時、玄関のドアが乱暴に開けられる。上半身は派手なブラジャーだけの女が一目散に洗面所に直行し、戸棚の扉を乱暴に開ける。化粧品や生理用品と一緒に注射器が転がり落ちる。女は包丁を放り出し、注射器に飛び付く。笑い声混じりの息遣いが浴室まで聞こえて来る。貴女は耳を塞ぎながら頭まで湯船に浸かる。
身近な事件 そうざ @so-za
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