人工頭脳

楠樹 暖

人工頭脳

「あ、頭が……、痛い……」

「どうしたの、あなた! 救急車!」

 いつもの頭痛とはあきらかに異なる激しい頭の痛みにより病院へと運び込まれた佐藤文也は脳出血だった。文也の左脳の血管は破れ、脳内の圧力が上がり、脳を圧迫していたのである。左脳の損傷は文也の身体に重大なダメージを残した。

「あなた、私が分かる?」

 佳江は目が覚めた自分の旦那へと声をかけるが、文也からの言葉は返ってこなかった。

「ああ」とか「うう」という声にならない呻き声のようなものしか発することができない。

 起き上がろうとした文也はあることに気がついた。右半身が動かないのだ。右手も右脚も確かに存在はしているのだが、まるで神経が通っていないかのようにピクリとも動かない。

「あっ、あっ」

 目の前の女性は見慣れた顔ではあったが名前を思い出そうとしても思い出せない。忘れるはずはない人なのにどういうわけか名前が分からないのである。この女性は何かを喋っているのは分かるがまったく意味が分からない。まるで外国語を喋っているように感じた。

「人間の脳は交差して身体を動かしています。右脳は左半身を、左脳は右半身を、です。文也さんの左脳は損傷してしまったため右半身を動かすことができなくなったということです。また、左脳には言語を司る中枢であるウェルニッケ野やブローカ野があります。文也さんの場合はブローカ野を損傷したため言語障害が出てきています」

 文也は右半身麻痺のうえ、失語症となってしまったのである。

 まったく読めなかった文字だったが、漢字で書かれた文字は何となく意味が通っていた。これは漢字の認識を右脳が担当していたからである。しかし、記号としての文字は意味を持たず、単語を形成していても文也には理解ができなかった。

 文也の利き腕は右手であり、右半身不随は影響が大きかった。食事をするときに箸を持つことができず、左手ではうまく箸を扱えない。仕方がなく左手でスプーンやフォークを使うしかなくなってしまった。

 食べることはできるといっても右側の口は感覚がなく、物を噛むにも口が半開きになり噛んでいる物を溢してしまう。

 着替えも左手一本ではできず、佳江に手伝ってもらうしかなかった。

 こうして文也のリハビリが始まった。

 歩くことのリハビリも行われたが、これは右脚を動かすというのではなく、身体の左側だけを使って動く練習だった。慣れてくれば移動することは可能だが、僅かな段差を越えることにも非常に恐怖を感じた。

 ある日、部屋の中を歩いていて段差に脚を引っかけてしまい、豪快に転んでしまった。手を突こうとしたが右手は動かず、衝撃を吸収するすべもなく酷く肩をぶつけてしまった。人によっては骨を折ってしまうこともあり、大きな痣ができただけで済んだのは幸いだった。

 外へ出るときは車椅子が必須となった。電動車椅子で左手のレバーで前後左右の動きが操作できた。車椅子により行動範囲は広まったが、歩道へ乗り上げる段差や道路に置かれた看板や自転車のせいで思う用には進めなかった。

 出かけるときには右腕がブラブラするためアームスリングで固定する必要もあった。腕を固定しないと脱臼してしまうこともあるという。

「ねぇ、あなた、覚えている?」

 佳江が初めてのデートで行った遊園地の写真を見せてきた。記憶を刺激することで言葉を思い出すかと思ったのである。観覧車やジェットコースターの写真が並べられ佳江は自分自身の思い出を文也に見せた。記憶喪失になったわけではない文也は当然のこととして覚えていた。ただし、場所は確かに覚えてはいるが遊園地の名前は出てこなかった。初めて二人で旅行に行った時の町の写真、展望タワーから見た夜景、すべて覚えているのに行った町の名前、展望タワーの名前が出てこない。分かっているのにどうしても名前が出てこない。喉元まで答えが出ているのに出てこない。そんなもどかしさがイライラを募らせ文也は大声で叫んでしまった。もちろんそれは言葉にはならずに呻き声であった。

 不自由な生活に光明が見えたのは生命保険の申請をするときだった。文也の生命保険には三大疾病の脳卒中で支払われる特約の他に【人工頭脳】特約も付けられていた。これは脳卒中で損傷した脳細胞の代わりに人工頭脳を埋め込むための費用を補償するものである。この特約を付けるために文也は脳のバックアップを取っていたのである。

「人工臓器とは、人工心臓や人工腎臓のように機械の力を借りて臓器の代わりにするものです。脳も臓器の一種ですから機械で置き換えが可能です。人工肺や人工腎臓は人間と同じ処理を行おうとすると設置型の機械が必要で動くことはできませんが、IT革命により人工頭脳は小型化に成功し頭の中に埋め込むことができるようになりました」

「詳しく教えてください」

「損傷した脳細胞は回復することはありません。文也さんは損傷する前の脳の状態をバックアップしてありますので、これを人工頭脳に移して左脳に代わりに埋め込みます。人工頭脳が文也さんの脳をシミュレートして身体を動かしたり、言葉を編んだりします」

「それって、夫が機械のようになってしまうということですか?」

「人工頭脳といっても思考方法は文也さんの思考パターンとまったく同じです。定型の動作をこなすだけでなく、文也さんの過去の経験から文也さんが取る行動をします。それに、右脳はそのまま文也さんの脳を残しますので左脳はあくまで補助的なものです。人格的にも前と同じとなります。たとえば、電子書籍がありますよね? 紙の本と書かれている内容は同じです。それと同じことです。タンパク質の脳からシリコン製の脳に代わるだけです」

「それで夫は元に戻るのですか?」

「はい、お任せください」

 こうして、文也の人工頭脳埋め込み手術が施術された。バックアップされたのは脳の神経回路の接続パターンである。コネクトームと呼ばれるそれは機械により電子的にシミュレートされる。元の脳と寸分違わず同じ動きをするコンピューターにより再現された人工の頭脳。それが人工頭脳である。文也の脳のコネクトームを人工頭脳へと移し、元気だった頃の脳活動をシミュレートさせる。文也の左脳は摘出され、代わりに人工頭脳が埋め込まれた。

 手術は成功し、文也は意識を取り戻した。

「あなた、私が分かる?」

「佳江……」

 文也は利き腕の右手を伸ばした。右の手のひらは佳江の頬に触れ、その感触を文也は確かに抱いた。

「よかった、よかったー」

「佳江の喋っていることがはっきり分かるし、思うように喋ることができる! 昨日までまるで言葉の通じない外国の中にいるような感じだったのに。凄い!」

 文也に埋め込まれた人工頭脳は失われた左脳の代わりに文也の頭の中の概念を言語化し文也の口を代わりに動かし言葉を発する。口だけでなく動かなくなった右半身を制御し、文也の意のままに動かす。生身の脳と人工頭脳は人工脳梁により深く結ばれ、文也の無意識とも言える存在になった。文也の右半身は文也が意識することなくごく自然に動いた。

 人工頭脳化された左脳の記憶は脳のバックアップを取ったときのままだが、右脳に残された記憶が埋め合わせてくれた。

「まだあまり無理はなさらないでください。そのうち脳が慣れてきて前と同じ生活が送れるようになりますよ」

 開頭手術をした跡も塞がり文也は退院した。家路に向かう足取りは軽く、自分の脚で歩いていることに幸せを感じる文也であった。


 退院した文也は以前と同じ生活に戻った。しかし、それが悪かった。淡白な病院食を食べなくてもよくなり、以前と同じ食生活に戻ったのだ。医者からは高血圧になるようなものは控えるように言われていたのに。気がついたときにはもう手遅れだった。

「あ、頭が……、痛い……」

「どうしたの、あなた! 救急車!」

 突然の頭痛に襲われ救急車で運ばれた文也。今度は生身の右脳の血管が破れて脳出血になったのだ。

 今回、言語障害は残らなかったが左半身が動かなくなった。

 前回は利き腕が使えなかったのでそれよりはマシと言えるかもしれないが、やはりそれでも日常生活を送るには不便であった。

 言語障害が残らなかったとはいえ、文也の様子は前と変わってしまっていた。言葉数が多くなったのだ。何かを説明しようとすると少しでも似たような単語が浮かぶと連想ゲームのように次々と話が変わっていくのである。それはまるで漢字入力の予測変換で画面に出てきた文字を適当に選んで話を進めるかのようだった。本人は一所懸命話をしているつもりだが、しっくりとくる言い回しが出てこずに空回りしている。少し落ち着いて言葉を選べば通じやすいであろうに。

 文也は自分でもおかしいことに気がついていた。以前の自分に戻りたい。左半身も自由に動かすように戻りたい。文也は再度の人工頭脳埋め込み手術を決心した。今度は右脳を人工頭脳へと交換するのだ。

 元気だったころの右脳のバックアップを人工頭脳へと移す。文也の右脳は摘出され、代わりに人工頭脳を埋め込む。既設の左人工頭脳と人工脳梁で接続し手術は成功した。

「やったー! これで元の生活に戻れるぞ!」

 五体が満足に動く、その当たり前のことに深く感謝する文也であった。

 左右の脳を人工頭脳に交換したことによりもはや脳の血管が破裂する心配はなくなった。しかも、前はよく起きていた頭痛もぷつりと起きなくなった。いいこと尽くしである。

 人工頭脳は疲れを知らず、寝ずに活動をすることができた。ただし、そうすると内蔵バッテリーの消費が激しくなり、バッテリー交換のための手術の頻度が高くなってくるため夜はスリープモードにするようにした。

 脳全体を人工頭脳にした影響により頭の回転も速くなったようだ。以前よりも精力的に仕事をこなすことができ、業績も向上していった。


 順風満帆のなか、不自由のない生活がいつまでも続くと思っていたが、現実は容赦なかった。佳江が買い物から帰る途中交通事故にあってしまったのである。頭部を強打し意識不明の重体。病院のベッドに寝かされ、人工呼吸器を着けられ延命措置を受けている。

「佳江! どうしてこんなことに!」

「打ち所が悪かったようです。脳に強度のダメージを受けてしまっています」

「佳江は大丈夫なんですか!?」

「残念ながら脳死状態です」

「そ、そんなぁ……。傷なんてどこにもないじゃないですか……」

「佐藤さんには三つの選択肢があります。一つ目は脳死を受け入れ死亡を認めるか。二つ目はこのまま延命措置を続けるか。この場合、回復の見込みはありませんが入院費用はかかり続けます。三つめは人工頭脳に置き換えるか。脳のバックアップを取っていなかったらこの方法はできません」

「佳江は僕のこともあって脳のバックアップを取っています。人工頭脳特約で費用もなんとかなります。ぜひ、お願いします」

 こうして佳江の人工頭脳埋め込み手術が行われた。バックアップされた脳のコネクトームが人工頭脳に移された。佳江の脳は全摘出され、代わりに人工頭脳が埋め込まれた。佳江への施術は成功した。

「佳江、僕が分かる?」

「あら、あなたどうしたの? えっと、ここは病院? 確か、脳のバックアップを取りに来てたと思うんだけど」

「君は交通事故にあったんだよ。でも大丈夫、人工頭脳を埋め込んだからもう元通りだよ」

 人工頭脳を埋め込まれた佳江には脳のバックアップをしてから現在までの記憶がなかった。脳の全摘出をしてしまったので引き継ぐべき記憶を残せなかったのである。

「佳江、これ覚えているかい?」

「初めてのデートで行った長島遊園地ね。もちろん覚えているわ」

「じゃあ、これは?」

「神戸タワーね。ポートタワーだっけ。あなたが神戸駅から歩こうって言ったっけ。私が元町からの方が近いって言って電車に乗ったの」

 交通事故付近の記憶はなくても、それ以前の記憶はちゃんと残っている。文也は目の前の女性が佳江であると確信した。記憶に空白期間があることなど、命が助かったことに比べれば些細なことである。

 病気と事故により本来は失われていたであろう何気ない日常が取り戻されたのである。二人にとってこんな幸せなことはない。

 二人の人工頭脳は老衰を迎えることはなく、いつまでも可動を続けた。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人工頭脳 楠樹 暖 @kusunokidan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ