第46話

 刀弥とうや天音あまねが残る倉庫の扉を音を立てないように閉める。

 それと同時に、クランク状の通路の陰からヤツが――天音の母が現れた。


 本来なら、天音を通路に放置して、それを襲わせている隙に奇襲を仕掛けた方がよほど合理的なはずだ。

 だが、天音の顔を見ていたら告げるどころか思いつくことすらなかった。

 脅威と化した天音の母をどうにかすることではなく、どうしたら天音が生き残ることができるか。そんなことを考えてしまっている。死んでほしくないと、彼女が死ぬならばまずは自分の命を差し出すのだと。

 そんなことを、非合理を考えるようになっていた。


「もう充分元は取っただろう」


 それは、特定の誰かに向けたものではない。敢えて言いうならば、MMMCという企業、PNDRという組織そのものに向けた言葉だった。

 『ジョーカー』の被検体になってから一〇年になる。この体に何度も『ジョーカー』を接種され、文字通り血反吐を吐き、恐怖と激痛の悲鳴を上げたのは一〇や二〇では済まない。

 狩った変異体の数に至っては、最低でも二〇〇以上。最初の一年は律儀にカウントしていたが、途中から数えるのをやめていた。いくつ狩ったら終わるという訳でもない、そこに住んでいる限り定期的に続けなければならない庭の草むしりのようなものだ。数える意味などなく、根本的解決に至らない対症療法のような活動に、ただでさえ感情というものを切り捨ててきた刀弥は更に思考をも放棄していった。


「俺への実験と戦闘教練、世俗での生活コスト、しめて一億五千万」


 痛みは慣れる。

 鈍化した痛みは人としての感情を殺していき、やがて本来恐れるべき『死』すら、他人事ひとごととして考えるようになる。


「もう、それに見合うものは回収できたはずだ」


 だから、目前に迫る死など、ただの結末の分岐に過ぎない。


 そう思っていたはずなのに。


 手が、微かに震える。

 これは自分の恐怖故かと考えて、自身に呆れる。自分はこんなに弱かったのかと。

 同時に思い浮かぶ、隣の部屋で震えているはずの同級生の姿。

 彼女が、自分を弱くしたのだろうか。

 こんな感覚は、恐らくここ二週間程のものだ。河川敷で変異体と会敵したときには、ただの顔見知りに過ぎなかったはずなのに。


『朝桐君』


 これ位の年齢ならば学校に通っている方が悪目立ちしないとして、言われるがままに高校に通い始めた。


『朝桐君っ』


 毎週のように数時間、突発的にいなくなる同級生に、彼女は何度も苦言を呈した。


『朝桐君、あなたねぇ!』


 他の同級生からは根暗と敬遠されていたため、学内で言葉を交わすのは、相城観生を除けば蓮山天音だけだ。

 何の技量も持たない、お荷物に過ぎない、ただ他よりも接点が多いだけの、それだけの存在なのに。


 なぜ、生きていて欲しいと思うのだろうか。

 なぜ、守りたいなどと思うのだろうか。


「フフ、」


 思わず失笑する。


 母親から金で売られた実験動物風情が人の真似事とは呆れる。


 心の中で、もう一人の自分が嘲笑する。


 まさか、あの子がお前を認めてくれると、そんな幻想を抱いているのか。

 人の死を何とも思わず、亡骸を足蹴にして見下ろすような人間未満の存在のクセに。

 そんな人外オマエが、他人に人として必要とされるなどという幻想を、抱いているのか?


(うるさい)


 心の中の『感情』は、まだ囁く。


 お前なんか好きだ嫌いだのと、そんな感情すら向けられる存在ではないだろう。


(うるさい…!)


 お前は誰にも気にされない道端の小石だ。

 お前は僅かな隙間から生える雑草のように必要とされない存在だ。

 お前は掠れて見えなくなった横断歩道のように摩耗する消耗品だ。

 お前はただ規則的に点滅して色を変える信号機のように黙々と従うだけの存在だ。

 お前はただ空を泳いでいるだけの白い雲のように何も生み出さない存在だ。


(うるさい!!)


 バッ、と刀弥は顔を跳ね上げ、心の中に巣くう『感情』を追い払うと、拳銃を構えながら前進する。

 自棄ではない。

 考えた上での行動だ。


 あの触手は攻防一体、最強の矛であり楯であるが、それでも完璧ではない。

 攻撃は二種類。突きによる穿孔せんこうと薙ぎ払いによる切断だ。

 防御は音速近い銃弾を弾くほどの反応速度を持っている。一〇発程度とはいえ短機関銃の毎分一〇〇〇発という連射を全て対処しているのだから手に負えない。

 その軌道は鞭に近い。

 ならば――

「いくぞ」

 彼我の距離は八メートル。刀弥なら四歩、時間にして二秒未満で到達できる。当然、拳銃を構えてならば若干ペースは落ちるが、それでも誤差の範疇だ。

 触手が鎌首をもたげ、S字を描く。

(突きっ)

 直後、神速の一突きが刀弥の顔面を狙って迫る。

 走りながら首を振り、前髪の先を刈り取られたが、回避に成功した。

(微妙な差だが、突きと薙ぎの予備動作に差がある)

 繰り出す直前のしなりの大小、カーブの描き方など微々たるものだが、確かに差はある。あくまで感覚論、実測してもせいぜい数ミリ程度の差しかないのだろうが、その数ミリを過敏に感じたことが、先の回避に繋がっていた。


 床を破壊するくらいの気持ちで足を蹴り出す。

 距離六メートル。

(このタイミングならどうだ?)

 照準。発砲。

 二発の銃弾が、女の眉間と胸目掛けて飛び出す。

 あの触手は銃弾すら弾くが、攻撃で伸びきった状態では対処は困難なはずだ。

 キュンキュン!と跳弾が天井と壁に埋まる。

 まだ余長を残していたのか、横にうねった触手が表面の傾斜を利用して器用に二発の銃弾を弾いたのだった。

 それどころか――

「—―っ⁉」

 それは、ただの勘だった。

 微かな風の揺れ、その予兆から、体を低くする。

 そのまま前転。

 その一〇センチ上を、触手の引き戻しが襲ってきた。

 転がっていなければ、鳩尾みぞおちから上下に寸断されていたことだろう。


 距離五メートル。

 触手が再びしなる。

 すかさず発砲。

 触手が攻撃から防御へ切り替わり、銃弾を叩き落した。


 距離四メートル。

 触手がしなり、右下から左上に、腰を薙ぐような高さで迫る。

 上か下か迷う暇もなく、反射で飛び込みのように跳び上がり、前転着地。


 距離二メートル。

 一発即死の縄跳びを回避した直後に下から上に向けて発砲。

 女の頭に突き刺さろうという銃弾はそれでもU字に折れ曲がった触手に弾かれ、まっすぐ刀弥に向けて跳ね返ってきた。

 回避など考えている余裕はなかった。

 銃弾が刀弥の左頬をかすめ、長さ五センチの赤いラインが滲む。

 さらに一歩、足を踏み出す。


 距離五〇センチ。

 触手はまだ戻ってきていない。


(そこ!)


 残弾一。

 引鉄ひきがねを引く。

 最後の一発が、女の左胸に吸い込まれた。


 銃弾を受けた衝撃で、女が左足を引いた。

 だが、それまでだ。その場で踏みとどまっている。

 心臓を捉えたつもりだったが、わずかに外れてしまったようだ。

 黒い泥のようなものが胸からこぽこぽと溢れ出すが、射貫いたのは肺だ。致命傷だが即死性は低い。少なくとも、変異体ならまだ動ける。

 

 あと一押しが必要だ。


 弾は尽きた。

 拳銃を女の顔に投げつける。

 同時に胸のポケットに左手を入れ、倉庫から持ち出したメスを取り出す。

 人差指と中指、中指と薬指の間に一本ずつ袋入りのままのメスを挟む。てのひらに柄を押し付けて外装から刃を露出させ、女の首に向けて横薙ぎに振るう。

 女は触手ではなく右腕で顔面に飛んできた拳銃を打ち払っている。

 首はガラ空きだ。


 ヒュッ、と小さく風を切る音。

 

 女の首に赤い筋が二本走る。

(浅い…)

 しかし、追い打ちには程遠い。

 女は首を引いていたし、元々メス自体が刃渡りが短い。皮下数ミリを裂いたにとどまった。

 追い打ちをかけるべく、首への一撃の勢いのまま女の隣を通り過ぎ、背面から首――頸椎けいついを狙う。

 

 そこで、女と目が合った。


 そして、刀弥の首が強く圧迫された。

 女の左手に首を掴まれて、あろうことか足が浮いてしまうほど持ち上げられている。

 高く掲げられた女の手が、万力のように首を容赦なく締め上げてくる。

 反射的に右手で女の手を振り解こうとするが、びくともしない。女の細腕、とはよく言ったものだが、まるで鋼材だ。振り解ける気がしない。人としてあり得ない筋肉の密度、ということなのか、見た目とパワーが釣り合っていない。

 

 いつまでも逃げることばかりを考えてはいられない。

 すぐに次の手に出る。

 左手に握り込んだメスを、首を抉るように突き込む。

 が、刀弥の左手首を、女のもう一方のが、がっちりと拘束した。

(まずい…)

 刀弥の意識が急速に薄れていく。

 狙っているのか偶然か、的確に首の動脈と静脈が圧迫されているため、ただ首を絞められるよりも早く体が脱力していく。

 まだ足は動くが、女を蹴ろうとしてもあまりに頼りない爪先つまさきが女の腹を叩くに終わる。

(今度こそ、終わりか……)


 とうとう、意識が飛ぶ。


 その、コンマ五秒前、


 パァンッ――


 軽い破裂音が、刀弥の耳朶じだを叩いた。

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