音秘目

須木田衆

第1話―――映りこんだもの

 九月二日



 西野裕子にしのゆうこは、イラついていた。


「ちょっと!」


 手招きで呼ばれた橋本は直ぐに立ち上がり、彼女のデスクに小走りに向かった。


「何回タイプミスしてんの? もうさ……あんた何年目なわけ?」


 西野編集長は、あえて他の社員に聞こえるように声を上げた。


「す……すいません……」


 西野と同じ年齢くらいで三十代半ば過ぎの男性社員の橋本はしもとは、狼狽うろたえながら頭を下げた。

 編集長がさらにトーンを上げ、激昂げきこうし始めた。


「もう! 何なの! いっつもいっつも!」


「いや……あ……! はい……! ええっと……すっ、すいません!」


「謝らずに、ちゃんと仕事しろよ!」


 いきなり編集長は立ち上がり、原稿を丸め、橋本の頭をめがけて勢いよく振り下ろした。


 スコーンと抜けるような音とともに、社員全員が一斉にそちらの方を向いた。


 彼女は、橋本の胸に思い切りぶつけるように原稿を当てた。 

 橋本は目を泳がせながら、ただおどおどするばかりだった。


「早く直せよ!」


「は……! はい!」


 橋本は慌てて原稿を受け取り、走って自分のデスクに戻っていった。 

 編集長はいらついた様子のまま、入口の方に早足に向かって行った。 

 ドアを開けて、橋本の方を見ると、


「ああ! もうっ……! イライラする!」


 室内に響き渡るように声を上げ、ドアを勢いよく閉めて出て行った。


 部屋が静まり返った。


 デスクに座っていた男性社員が、唖然としながら隣の女性社員に語りかけた。


「ど……どうしたんだ? 編集長へんしゅうちょう……最近、やたらと機嫌悪くないか?」


「……なんか……顔色も悪くない? どこか、具合でも悪いんじゃないの?」




「あぁっ……もう!!」


 裕子は喫煙室の椅子に座り、タバコを取り出して火をつけた。


「ふー……」


 目を閉じて、必死に気持ちを落ち着かせようとした。

 スマホを手に取って、気を紛らわせようとメールボックスを開き、新着メッセージを見た。


『西野さんへ。村上です。先日は、突然あんなこと、ごめんなさい……』


 裕子はメッセージを途中で読むのをやめ、額に手を当てた。


「はぁ―……」


 自分でも、、やり過ぎだと感じた。


 確かに橋本は仕事ができない社員だった。


 今まで言葉でののしったことは何度もあった。

 でも、手を出したことはこれまで一度もなかった。


 社員全員の目の前で、女性上司に頭を叩かれる。

 ふと、逆の立場になって考えると、急に胸の内から罪悪感が湧き起こってきた。

 部屋を出た時の、社員全員のあの目つき。


 ああ……。


「あいつが……あいつが悪いのよ……! 仕事をちゃんとしないから……!」


 裕子は、必死に自分に言い聞かせるように呟いた。


 すると、外から社員たちの話し声が聞こえてきた。

 最初は気に留めなかったが、だんだんと、はしゃぐようになってきて、休憩している裕子の気が散り始めた。


 自分の悪口でも言っているのか……。


 裕子は、徐々にイライラがつのってきた。

 とうとう抑えきれなくなり、立ち上がって出口の方に歩いていき、ドアを開けた。


「ちょっと! あんたたち! しゃべってないで早く仕事して……!」


 裕子は言葉を止めた。


 誰もいなかった。


 確かに話し声がしたはずだった。


「……」


 裕子はそのまま喫煙室に戻ろうとし、ドアを閉めようとした。


 すると、また、声が聞こえてきた。


 女子トイレの方からだった。


 裕子はそれを辿り、歩き始めた。


 トイレの中に足を踏み入れた。


 見る限り誰も姿は見えなかった。


 その話し声は、個室の中から聞こえてきた。


 裕子は溜息ためいきをついた。

 イラついていたせいか。

 彼女はわざわざその声がするブースの前まで行き、立ち止まった。


 ノックを二回した。


 声がピタリと止まった。


 今度は明らかに嫌がらせの意図を含めて、三回ノックをした。


 反応はなかった。


 見ると、鍵表示の色がであることに気づいた。

 彼女は怪訝けげんに思い、ドアをそーっと開けた。


 個室には、誰もいなかった。


 裕子は、思わずまばたきをした。


「やだ……何」


 幻聴げんちょう


 咄嗟に両手で耳の辺りをでた。


 すると、そばにある窓の外から声が聞こえてきた。

 裕子は小さいすべり出し窓の隙間すきまから、下を見下ろした。


 女子中学生たちが大きな声を出してふざけ合いながら、帰宅している途中だった。


 それを見て彼女は、安堵あんどするように溜息ためいきをついた。

 裕子はゆっくりと出口の方に向かって歩いて行き、そのまま出て行こうとした。


 が、かがみに映った自分の顔色の悪さに気づき、思わず立ち止まった。

 彼女は内ポケットからコンパクトを取り出そうとした。

 すると、小石が出てきた。


 の記念に持ち帰ったものだ。


 裕子はそれを洗面台の上にひとまず置き、さらに内ポケットを探ってコンパクトを取り出した。

 化粧ブラシを出し、メイクを整え始めた。


 その時だった。


 右方向から、が聞こえてきた。


 咄嗟に横を向いた。


 女性の笑い声が、はっきりと耳に入ってきた。


 裕子はゆっくりとつばみ込んだ。


 聞き間違いかと、自分の呼吸の音を殺し、耳をます。


 確かに、人の声だ。


 思わずさっきの窓際に向かって早足で走って行った。


 下を見下ろした。


 誰も見えない。


 裕子は振り返った。


 話し声は、すぐそばから聞こえていた。


 彼女は戸惑いの表情を浮かべながら、さっき開けた隣の個室の戸を思い切って開けた。


 誰もいなかった。


 その隣の個室も、また開けた。


 同じように人はいなかった。


 気味が悪くなり、裕子はそのままトイレから出ようとして出口へ小走りに向かって行った。


 が、コンパクトを忘れたことに気づき、洗面台の前に戻った。

 それをとろうとしたが、手が滑りコンパクトが床に落ちた。


「もう……! 何やってんの……!」


 慌てて屈み込み、それを拾った。

 体を起こし、そのまま出口から出ようとした。


 ふと、動きを止めた。


 かがみに背を向けながら思った。


 今……


 何か……映っていた?


 必死に荒くなりそうな息を整えようとする。


 心臓の音が高鳴り始めたのがわかった。


 もう一度唾を呑み込むと、裕子は恐る恐るゆっくりと振り返った。


 自分の姿が映っているだけだった。


 すると、さっきの話し声が徐々に大きく聞こえてきた。


 裕子は思わず両耳を塞いだ。


 きびすを返し、急いでトイレから出ようとしたが、ハイヒールが折れてバランスを崩してしまった。


 壁面に体をうちつけ、裕子は床に倒れた。


 必死に起き上がろうとして壁に手をつけた、その時だった。


 倒れながら彼女は、を、はっきりと見た。


「きゃあぁぁぁ――――――!」

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