結実 その十五
そこはセピア色の世界だった。
いつか見た白昼夢と同じだと直感する。
霧がかかったように白濁する意識の中、私は目の前の人物の背中を見る。
それは男だった。
身長は見上げるほど高い。いや、私が小さいのかもしれない。その男は軍服と思われるものを着ていた。
男は必死で目の前のドアを押さえている。
ドアの向こうからは、大勢の人間の悲鳴、呪いの言葉が聞こえる。何かから必死に逃げようとする人間の悲鳴だった。その助かりたいと叫ぶ人間のありとあらゆる感情の濁流があまりに壮絶で、私の心は縮みあがる。
おそらくこの男は扉に鍵をかけ、他の助けを求める人間達を締め出したのである。己とそして私だけが助かるように。
「何故だ⁉ 何故あのようなことを!」
男が扉を押さえたまま、額を
その問いかけの相手は私だ。しかし、私にその理由が分かるわけがなかった。夢の中の私が一体何者なのか、それすら分からないのだから。
しかし、私の身体は私の意志とは関係なく、まるで台本どおりに進む舞台の役者のように、なめらかに美しく動く。
私はその小さな腕で目の前の男を後ろから抱きとめる。
そして、口を開いた。
「姉様のことでしょうか」
男は何も答えない。
私はその白く、細く長い指を男の両腕へと這わせる。男の背中に密着した頬から、男が怯えているのが手に取るように分かる。
「貴方様は、私がなぜ姉様を殺したのか、そうお聞きになりたいのですね」
やはり男は何も答えない。浅く息をして、額を強く扉に押し付けているだけだった。
相変わらず、ものすごい勢いで扉をたたく音と、叫び声が聞こえている。
「だって、仕方がないじゃないですか。貴方様と結ばれて、そして子を宿すのは私。姉ではありません。姉のお腹の子は貴方様との子供なのでしょう? だとしたら私はそれを許すわけにいきませんの。だって、貴方様を愛しているから。貴方様も同じ気持ちでしょう?」
男は絞り出すように「狂ってる……」と呟いた。
私は男の両腕に重ねていた両の手を男の胸へと這わすと強く抱きしめる。
「貴方様だって狂っているではありませんか。人の心を惑わし、操り、あんな化け物を生み出して……貴方様はお国のためとおっしゃりますが、本当なのですか? いいえ、違います。貴方様は楽しんでいらっしゃる。ご自身の実験が上手くいくたびに。人の心を弄ぶ愉悦に心が震えているのです。そうでしょう? だからこそ貴方様は私の心も姉の心も弄び、そして実験の道具とした。子供が宿ればどちらでもよかったのでしょう? 姉様は馬鹿な女でした。ただ、操られ、実験の道具となった。しかし、私は違います。私が惹かれたのは貴方様の甘言や重ねた身体の熱などではございませんの。貴方様の深く、恐ろしい、その狂気に惹かれたのです。だから私は考えました。貴方様と釣り合うためにはどうしたらよいだろうかと。答えは簡単です。私も狂人となればよいのです。そして、その答えが分かったとき、私は歓喜しました。だって、私はすでに狂人を愛してしまうような、狂人だったのですから……」
男は体中を強張らせ、ぶるぶると震えている。
「あ、来た」
私は嬉しそうな声を上げる。
次の瞬間扉の向こうの叫び声が一層大きくなる。
「ほら、感じてください。これが貴方様と私の狂気が生み出した、結果です。あれは、私達の子供と言ってもいいでしょうね」
ここでようやく男が口を開いた。その声は、震えている。
「私は、どうしたら……」
私の中に、この世のものとは思えないほど、甘く、激しい多幸感が沸き上がり、下腹部が収縮する。
「ああ、大丈夫ですよ。私が貴方様をすべて受け入れて差し上げます」
男の胸に回していた腕を解き、ドアノブを強く握りしめる男の手に重ねる。そして、一本、また一本と男の強張る指を解いていく。
「本当か」
「ええ、もちろん。さあ、こちらを向いてくださいませ」
そう言って私が男の肩に手を置く。
男は諦めたかのようにこちらをゆっくりと振り向く。
その顔は――嗤っていた。
私の中で先ほど感じたよりも激しい悦びが突き上がる。それは、性衝動に近かった。
「やはり貴方様は狂人です」
「どういうことだ」
「お気づきではないですか? 貴方様は今、嗤っていらっしゃいますよ?」
男は自分の顔をその大きな手で触って確かめる。
私はそんな男の手をつかんで優しく払いのけると、口づけをする。そして、男の口
内に舌をねじ込み、男の舌に絡ませる。
扉の外では、今までで一番壮絶な悲鳴が上がっている。扉の外の人間達は、「喰われる、喰われる」と叫んでいる。
そうだ。喰うのは私だ。私は今からこの男を喰うのだ。心も、その身体も、すべて私のものになる。
着物の隙間から男の大きく熱い手がするりと侵入してきて、私の乳房を力強く掴む。
その手を私は優しく掴み、ゆっくりと乳房から剥がす。
「ここでは嫌ですわ。五月蠅くって、集中できませんもの。この先の、あの私達が初めて繋がった、星見の岬にいきましょう?」
私は男が押さえていた扉と反対側の扉、というより鉄格子と言った方がいいだろう、それを指さす。その奥には、暗い闇が広がっていた。
男は恍惚とした表情で、頭越しに鉄格子を見つめている。
「……そうだな」
「ええ。今日は良い天気です。きっとあの日のように満点の星空ですよ」
そう言って私は男の腕に自分の腕を絡める。
「さあ、参りましょう? 敷島様」
私の意識はそこで途切れた。
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