結実 その八

 通話終了を知らせる無機質な通知音がなり、そして静寂が訪れた。


 私はその場で凍りつき、指一本動かすことができなかった。


 次の瞬間私のすぐ後ろで誰かの声がした。


 一瞬心臓が止まる。


「いやあああああ!」


 私は叫び声をあげ、その場に崩れ落ちる。


 まだ誰かの声がしていた。


 嫌だ! 聞きたくない。


 私は咄嗟に耳を塞ぐが、声は私の手のひらを難なく通過し、鼓膜を揺らした。


「……さま、お客様!」


 はっと顔を上げると、店員が血相を変え、へたりこむ私を覗き込んでいた。


「お客様、大丈夫ですか?」


 私は、息を整え、そして立ち上がろうとした。しかし、腰が抜けて立てない。


「す、すいません……腰が抜けてしまって……」

「こちらこそ大変失礼しました。驚かせてしまい、申し訳ありません」


 店員、たぶんこの店の店長だろう。人の好さそうな、初老の男性は私に手を差し伸べた。


 私は、その手を取る。とても暖かい手だった。それだけで、指先に少しだけ体温が宿る。


 何とか立ち上がるが、膝が笑ってうまく立てなかった。


「さあ、こちらへ」そう言って店長が私を近くの席に誘導しようとした。


 私は何度も首を振りそれを固辞する。


「しかし……」

「良いんです。あの、私すぐに行かなくちゃいけなくて」


 電話をしていた私の尋常ならざる様子を見ていたのか、彼は力強く頷く。


「分かっております。何やら緊急のご様子。もしよろしければタクシーをお呼びしましょうか?」


 確か津田は西T駅にいると言っていた。


「あの、西T駅ってここから近いですか?」

「え? ええ、まあ電車ですぐですが、もしかしたら乗換が必要かもしれません。車の方が早いかと」

「そうですか。では、タクシー、お願いできますか?」


 私はそう言って軽く頭を下げた。


 店長は「分かりました」と言って店の裏へと入っていった。


 多少なりとも落ち着きを取り戻した私は、店内を見渡す。


 どうやら客は私一人のようだ。


 しばらくすると、店長が戻ってきた。


「五分ほどで来るそうです。それまで、これでも飲んで落ち着いてください」

「あ、ありがとうございます。でも、その前に警察に電話してもいいでしょうか?」

「警察?」


 店長は眉をピクリと動かし、怪訝な表情をする。


「ええ。友人が電話口で誰かに襲われていたんです」


 私がそう答えると彼は血相を変える。


「それは大変だ! 早く、電話してあげてください!」

「ありがとうございます」


 警察に西T駅で友人が襲われている旨を話すと、警察はそれ以上詳しいことを聞かずに、巡回中の警官を向かわせてくれた。


 そうこうしている間に店にタクシーがやってきた。


 タクシーに飛び乗り、心配そうな顔で見送る店長に礼を述べ、私は西T駅に向かうように運転手に告げた。


 タクシーの中、一度警察から連絡がきた。現場に急行したが、すでにそこに津田はいなかったとのことだ。


 警察の方で周囲を巡回し、確認すると言ってくれた。


 あとは、任せるべきかとも思った。しかし、何もせずただ待つのは耐えられなかった。


 凛子のときも彼女が飛び降りる瞬間まで、私はぼうっと突っ立っていることしかできなかったのだ。あんな思いをするのはもう嫌だった。


 タクシーは西T駅の北口のすぐそばに止まった。


「あの、この駅のコインロッカーってどこにありますか?」


 私が運転手にそう聞くと、運転手は「この駐輪場の奥です」とホームへと続いているであろう階段のすぐわきにある小さな駐輪場の入口を指さした。


「ありがとうございます」と礼を述べてからタクシーを下車する。


 とても寂しい駅だった。


 街灯はまばらにあるのみで、通りには人影がなく、しんと静まり返っている。


 私は恐る恐る駐輪場へと入る。その奥には小さめのコインロッカーが蛍光灯の光の中に浮かびあがっていた。無機質で冷たい光に照らされたそれは幽霊のようだった。


 周囲に警察官はおろか、人影すらなかった。もちろん、化け物の姿も。


 私は一歩一歩コインロッカーに近づいていく。


 数メートル先の地面に何かが転がっているのが見えた。


 大きめの水筒のようなそれは、コインロッカーを照らす蛍光灯の光に照らされて、ぼんやりと浮かびあがっている。その水筒のようなものは、よく見ると花柄のように細かな模様が刻まれている。


 もっとそれをよく見ようと目を凝らした次の瞬間、前方のコインロッカーから視線のようなものを感じた。


 私は咄嗟に顔を上げ、コインロッカーを凝視する。


 しかし、何の変哲もないただのコインロッカーだった。


 コインロッカーを注視しながら、私はそれにじりじりと近づいていく。何か恐ろしいものが這い出てくるのではないか、そんな恐ろしい妄想で、十二月だというのに背筋には嫌な汗がじわりと染み出てきていた。


 ふと、足元に目をやる。


 先ほどの花柄の水筒が目に入る。


 いや、それは花柄の水筒などではなかった。


 それが何なのか理解した瞬間、私は声にならない悲鳴を上げた。


 それは、人間の前腕だった。その腕は浅黒く変色し、そして、びっしりと歯形がついていた。その歯形一つ一つから血が滲み、花を散らしたように見えた。


 喉元まで胃液が上がって来た。それを必死で押しとどめようと、喘ぎながら何度も唾液を飲み込む。


 呼吸がどんどん浅く、早くなっていく。


 手の中には、小さな鍵が握られていた。


 私は、無意識にその場にしゃがみこむと、握られた鍵を取り上げていた。


 ずるりと何かが這い出るような音。


 音のする方、コインロッカーへと目をやると、丁度真ん中、上から二段目のコインロッカーの扉の隙間から、ドロリと黒々と嫌な艶を持つ液体が流れるのが見えた。


 私はほとんど夢遊病患者だった。


 熱に浮かされるように、ふらふらとそのコインロッカーへと近づいていく。


 頭では、嫌だ、嫌だと思っているのに、その足を止めることは出来なかった。


 血の滴るコインロッカーの鍵穴へと先ほど拾った鍵を入れ、ゆっくりと回す。


 カチリ


 鍵が開く。


 私は、コインロッカーの扉に手をかけ、そしてゆっくりと開く。


 そこには津田のバラバラになった身体が、まるでパズルのピースのように隙間なく


 私は次の瞬間、気を失った。

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