結実 その六

 郁人さんは、即死だったらしい。


 彼は最寄り駅のホームから急行電車に飛び込んだらしい。防犯カメラの映像からも事故や事件の可能性は無いとのことだった。つまり、自身の足で駅に向かい、そして、自ら電車に飛び込んだのだ。


 警察は事件性は無しと判断し、自殺として捜査を終了した。


 姉の受けたショックは凄まじく、そのせいなのか、妊娠後期の不正出血がでてしまい、大事をとって一時入院することになった。


 そのため、郁人さんの葬儀は、二週間後に執り行われた。


 喪主は身重であったが、姉が務めた。


 電車と衝突したことによる損傷が激しく、棺は閉じられたままだった。生前の彼の顔を思い出そうとしたが、ぼんやりとしか思い出せなかった。祭壇に飾られている遺影を見ても、ピンとこなかった。姉の結婚式以来彼とは会っていない。義理の兄だというのに、私は何と非情な人間なのだろうか、そう思った。


 火葬場から、郁人さんの遺骨とともに、父と、姉と、私の三人で姉の住むマンションへと帰宅した。


 姉は気丈な人だった。幼くして母を亡くした私の母親の代わりを十年以上続けてきた人だ。姉が弱音を吐いたり、泣いたりしたところをほとんど見たことがない。一番記憶に新しい彼女の泣き顔は、彼女の結婚式の日に見たものだ。私のささやかな祝いの言葉に笑いながら涙をこぼしたのだった。郁人さんの顔はぼやけて思い出せないのに、その顔だけははっきりと覚えている。


 そんな姉は、今、居間にしつらえられた、骨壺を供えるための小さな祭壇の前でただ、静かに泣いていた。


 最愛の人を失った悲しみ、それは私にも覚えがある。しかし、彼女のお腹には新しい命が宿っている。その重みたるや、未婚の私には想像もつかないものだ。絶望と言い換えても良いのかもしれない。


 姉のすすり泣きが聞こえるたび、脳の最奥が痺れて、体の芯から冷えていくのを感じた。


 痺れてまともに働かない脳で思ったことは、何としても彼女を守りたい、それだけだった。 


 幼子を抱えて生きていく彼女を今度は、私が支えるのだ。そのためには大学院を中退したっていい。私にできることはすべてやる。それが、姉であり、私の母でもあった彼女にできる唯一の恩返しだと、本気で思った。


 しかし、郁人さんの死の原因は、クチナシ様にまつわる一連の物語の一部なのだという確かな予感があった。


 ならば、私がまずやるべきことは、この馬鹿馬鹿しい物語に終止符を打つことだ。もう、誰も傷つけさせない。


「今度は私がを守るから」


 姉は、はっと顔を上げ、私を見つめる。その瞳は揺れていた。


「瑠璃……?」


 私が黙って姉を見つめていると、彼女の顔はどんどん険しくなっていく。そして、唇をわなわなと震わせながら口を開いた。その言葉には明らかな怒気が含まれていた。


「守る? あんた、まさか、いっちゃんがこうなったのが、自分のせいだなんて思ってないでしょうね……」


 隣で黙っていた父が驚いた顔で私を振り返る。


「瑠璃、どういうことだ?」


 父は明らかに動揺していた。凛子が死んだ詳しい状況や、クチナシ様のことは父には一切話していなかった。


「あんたが首を突っ込んでいる馬鹿げた怪談と、いっちゃんは何にも関係ない!」


 姉はそう叫んだ。その悲痛な叫び声は、小さなアパートの中に響き渡り、四方の壁に衝突すると、まるでばらばらと音を立て、崩れるジグソーパズルように床に落ちた。そのあとには、耳が痛くなるような静寂だけが残った。


 父の震える声がその静寂を破る。


「怪談? 瑠璃、何のことだ? この間帰ってきたことと何か関係があるのか?」

「父さんは黙ってて……」


 姉は息を荒げながら、父を制すと私を睨みつける。その目は燃えていた。


 私は姉のこの目を知っていた。


 これは、私を叱るときの母の目だ。


「私、あんたがこれ以上変なことに首突っ込むの、許さないから……!」


 姉は、本気で私のことを心配してくれている。それがはっきりと分かる。あの日、突然押しかけて鍋を作って待っていてくれた日も、自分の旦那を亡くし、絶望の中に居るはずの今日だって、いつだって彼女は自分よりも家族を優先する。


 それは美しいことなのかもしれない。でも、幼いころに母を亡くしたからこそ、そうならざるを得なかったのだとも思う。母が亡くなったとき、姉はまだ十四歳だった。甘えたい盛りだったはずだ。それなのに、当時九歳だった私に寂しい思いをさせないために、大人になるしかなかったのだ。それは、決して健全なことではないと思う。


 だからこそ、今度は私が守る。


 この言葉に嘘偽りは一切ない、私の本心だ。


「それでも、私は、お姉ちゃんを守るよ」

「ダメ。絶対に許さない。これ以上は危険なことはしないで」


 私は首を振る。


「私の命に代えてでも……」


 そう言った刹那、ばちんと大きな音がしたかと思うと、左頬が熱を持つ。


 姉は一層息を荒げている。


「……馬鹿に……しないで」

「お、おい、実咲、なにも殴らなくったって……」

「この馬鹿にはこれくらいしないと分からないでしょ。いい? 私はあんたに助けてもらうほど弱くなんかない! あんたが命がけで私を守る? それで、あんたが死んで私が本当に喜ぶとでも思ってるわけ? これ以上、お姉ちゃんに心配かけないで!」


 彼女の声は震えていた。


 それから、彼女は何かを覚悟するかのように、大きく息を吸い込むと再び口を開いた。


「……それに、いっちゃんのことだって、あんたとは何の関係もない。これは私達夫婦の問題なんだから。あんたはくだらない呪いとかそんなもののせいだと思っているのかもしれないけれど、こんなことになってしまったのは、私のせいなのよ」


 そう言って俯く彼女の目から大粒の涙がこぼれた。


「……お前のせいって、どういうことだ?」

「いっちゃんは、私の浮気を疑ってたの」


 姉は俯いたまま絞り出すように言った。


 父は驚愕の表情を浮かべた。


「お前、まさか、そんな……」

「違う。浮気なんかしてない」

「それなら……」


 どうして? と父は言いたかったのだろうが、口をつぐんだ。


「妊娠が分かったとき、私すっごい不安だった。ちゃんと育てられるか、お腹を千花ちかが蹴る度、その力が大きくなる度、私の不安はどんどん大きくなったの。もう、耐えられないと思った。こういうのマタニティブルーって言うんだって。それで、私、病院に通ってたの……精神科に」


 私は姉の独白に驚愕していた。


 あの気丈な姉が、ここまで追い詰められているということが信じられなかった。


「でも、いっちゃんには言えなかった。すっごく楽しみにしてたから。その幸せを私は守らなきゃって思ってた。だから、内緒でカウンセリングに通ってたの。そのクリニックは、いわゆる病院って感じじゃなくて、マンションの一室を改造したようなところだった。それがいけなかった。私に何か隠し事があるんじゃないかって疑ってたいっちゃんは、診察に出かけた私をつけてたみたい。それで、ね……。問い詰められたとき正直に話せばよかった。でも、なぜだか私も意固地になっちゃった。何でもない、浮気じゃない、の一点張りで、余計に不安にさせちゃったよね……ごめんね……」


 姉は最後は顔を上げて、骨壺を見つめながら絞り出すようにそう言った。


 私も、父も何も言えなかった。


 ただ、姉のすすり泣きだけが部屋に響いていた。


 しかし、だとすると郁人さんの件は、本当にクチナシ様とは関係ないということなのか?


 確かに、冷静になって考えれば呪いなんかで人が死ぬという馬鹿馬鹿しい話より、姉が語った話の方がよっぽど信じられる。


 ――人は、信じたい話しか信じない


 頭の中で津田のあの言葉が響く。


 いや、今回ばかりは関係ない。


 姉が顔を上げ、私を見つめる。


「……そういう訳だから、瑠璃の件と今回の件は何も関係ないの。それに、あんたこそ?」


 いま、なんて?


 治療? 私が?


 胃の辺りから、言いようのない不快感がこみ上げてくる。


「何言って……」

「何って、あんたがそのクリニックを紹介してくれたんじゃない。凛子ちゃんの件があってから、自分も通ってるって……」


 私が、紹介した?


 まったく身に覚えがない。姉に病院を紹介したことではない。そもそも自分がそんなところに通っていること自体、記憶にないのだ。


 いったい何が起こっているの?


 初めてじゃない。


 ああ、そうか。


「おなじだ……」

「え?」


 そう、あの心霊写真の時と同じなのだ。


 知らない間に私のスマートフォンに入っていた画像。そして、それを小学校時代の親友と信じ込んでいたあの時と。


 私の中に、私の知らない記憶がある。


「お姉ちゃん、しばらく家から出ないで」


 やっぱり呼ばれている。


「はあ?」


 姉は泣きはらした目を大きくする。


「父さん。姉さんをよろしく。私、行かなきゃ」

「え? なに? 行くってどこに?」

「ちょっと、瑠璃! あんた、これ以上危ないことは……」


 姉が言い終わる前に、私は立ち上がり、そして玄関へと駆け出す。


 まずは、津田に連絡しなければ。


 私はスマートフォンを握り締めたまま、マンションの廊下へと出る。


 とたん、師走の冷たい冷気が足元からひらりと這い上がり、私は思わず身震いした。しかし、それは、けっして寒さのせいだけではなかった。

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