開花 その十八

 その文字を見た瞬間、鳥肌と震えが止まらなくなった。それは、この地下室の寒さだけが原因ではない。


 あの改竄された古地図の発行年月日は確か昭和十五年だった。この村での実験後に村の場所を隠蔽するために地図を改竄したのだとすれば、この村での実験は、昭和十五年よりも少し前ということになる。そうだとするならば、実験が行われたのは太平洋戦争開戦の少し前だと考えられる。


 そんな、戦争の足音が近づく時期に日本軍が関わっていた実験なのだとしたら、本当に恐ろしい人体実験だった可能性がある。


 現実味を帯びてきた自身の仮説に私は心底恐怖した。


 これ以上この件に首を突っ込むのは絶対に危険だ。


 しかし、津田は目の前の扉を開けようとしていた。


 私が引き止める間もなく、その鉄製の扉はいとも簡単に開いた。いや、開いてしまった。


 扉の先は、研究所という名から想像していたよりもずっと小さな空間だった。


 六畳ほどであろうか。


 両方の壁際には、備え付けの金属製の書架が並んでいる。しかし、そこには何もなかった。


 正面には、小さな事務机が三つ並んでいる。その上にも何もない。


 何もないなら、何もないで良い。何かが見つかり、私の仮説が実証されてしまう方がよっぽど恐ろしかった。


 津田はそれらの机に近づくと、引き出しをひとつずつ開けていく。


 三つ並んだ真ん中の机の一番上の引き出しを開けた時だった。津田が「あっ」と声を上げた。


 津田は中から何かを取り出す。それは、古い本のようなものだった。


 彼はその本を机の上に乗せると、口にペンライトを咥えて、ペラペラとページをめくる。


 彼がページをめくる度、心拍数が上昇していく。


 そして、とあるページまで来ると咥えていたペンライトを左手で掴むと、私を振り返ってこう言った。


「あんたの言ったとおりだったよ。ここは実験場だったんだ」


 私は冷たい手で心臓を握られたような感覚。一瞬心臓が止まったようだった。その次の瞬間、両の耳に響くほど、ばくばくと心臓が鳴る。


「これ、読んでみてくれ」


 津田に近づき、恐る恐るその本を覗き込む。


 一瞬何が書いてあるのか分からなかった。良く見るとそれは漢字とカタカナの羅列であった。見慣れないその取り合わせに脳が一瞬混乱したようだった。


「ここだ」


 津田がページの真ん中あたりを指さす。


 十八三〇 実験開始

 十八四五 クチナシ様、出現ス


 本当にここは陸軍の実験場だったのだ。実験の詳細は分からない。しかし、陸軍はこの村にクチナシ様と呼ばれる怪物を放ち、村人たちを惨殺させたのだ。


 私は強い吐き気を感じて咄嗟にその本から顔を背けて目をつむる。しかし、ペンライトの強い光が瞼を照らし、それのせいなのか、一向に吐き気が収まらなかった。少しでもその光から離れようと、目をつむったまま右側の壁の方に歩いていく。そのまま、膝に手を置き、屈んだ状態で粗く息をして、吐き気が収まるのをただひたすらに待つ。


 しばらくそうしていると、吐き気は次第に収まっていった。


 そんな私の様子に気が付いたのか、津田が私の方にやってくる足音が聞こえた。


「大丈夫か?」

「大丈夫です。ちょっと、吐き気がして……」

「そうか。もう帰ろう。今日はもう十分だ」

「そうですね」


 津田は力強く頷くと、机に戻って先ほど、おそらく報告書であろうあの本を取りに戻った。そして、それを拾い上げようとした瞬間、彼の動きがぴたりと止まる。


 彼は表紙を凝視している、ように見えた。


「どうしたんですか?」


 声をかけると、彼は何かに気が付いたように急いで報告書を手に取り、こちらを振り向く。


「なんでもない。行こう」


 何か様子がおかしい。彼の顔には光が当たっていないのでその表情は読み取れない。しかし、その声には恐怖が滲んでいた。


 今まで、驚くことはあっても怖がっているような素振りを見せなかった津田が初めて見せた恐怖だった。


 これ以上、知りたくない。知りたくないと思うのに、私はその恐怖の理由を聞かずにはいられなかった。


「何か、表紙に書いてあったんですね?」

「……いや、その」

「どうせ、ここを出れば私も見ることになるんです。言ってください。何が書いてあったのか」


 私にはなんとなく予感があった。


「しかし……」

「大丈夫です。知りたいんです。


 私がそう言うと、津田は一瞬息を飲んだあと、大きなため息をついた。そして、私に報告書を裏向きで手渡してきた。彼が照らす光の中で、ゆっくりと報告書をひっくり返す。


 ああ、そうか。


 これが私がクチナシ様に呼ばれている理由か。


 そこには、報告書第三号という表題と、その報告書を書いたたであろう陸軍将校の名が記されていた。


 陸軍大佐  桜

 

「ぐ、偶然だろ……? 敷島なんて名字は別に珍しくないだろ?」


 津田は明らかに狼狽えている。


 私は顔を上げ、津田を見つめて言う。


「たぶん、偶然じゃないんです」


 そう、偶然じゃない。やっぱり私はクチナシ様と縁があったのだ。


「――私は、クチナシ様に呼ばれているんですよ。私の先祖が

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