開花 その十七
しかし、屋敷の中には文字通り何もなかった。
これは明らかにおかしい。
あの白昼夢が現実に起きたことなのだとしたら、この家の者たちには家財を持ち出す余裕などなかったはずだ。それこそ履物すら履かずに逃げ出しているような慌てようだった。
廊下の突き当りの扉をあけ、中を確認している津田に背後から声をかける。
「何かありますか?」
「いや、ただの便所だな」
そう言って津田は扉を閉めた。
私達はトイレの隣にある部屋へと入る。そこは畳張りではなく、板張りだった。窓もなく、中はたった今入ってきた扉から漏れる光だけがこの部屋を照らしている。
おそらく、物置か何かだったのだろう。
しかし、その部屋ももぬけの殻だった。
「津田さん、何で家財が一つもないんでしょうか? お爺さんの話によれば一夜にしてクチナシ様に襲われ、村は壊滅したんでしたよね? だとしたら家財なんて持ち出す余裕なかったはずじゃないですか」
津田は顎の無精髭に触りながら「それは俺もさっきから思っていた」と答えた。
「ただ、資料館で見た陸軍の古地図には改竄された痕跡があった。もし、あれがこの村とこの村で起きた事件を隠すための工作なのだとしたら、事件の後に何者かに全て持ち出された可能性がある」
何者か……それは、少なくとも陸軍の地図を改竄できるほどの権力を持ったものだ。
だとすれば、なぜ村を焼き払わなかったのだろうか。その方が手っ取り早いはずである。
「なんで村ごと焼き払わなかったんでしょうか?」
「ん? ああ、確かにな。でも、山火事になるのを恐れたのかもしれねえな」
その可能性はある。
この村は四方を杉林で囲まれた土地だ。そんな村に火を放てば周囲の山に延焼する可能性が高い。
しかし、改めて考えると四方を山に囲まれているというのは相当に不便なのではないだろうか。もちろん、そういった山村が日本には他にもあるのだろう。しかし、現代のそれも東京という都市に暮らす私にとって、この村は閉鎖的だと思った。
その『閉鎖的』という言葉が、魚の小骨のようにちくりと引っかかる。
「閉鎖的、か……」
思わず口にしてしまった。それに津田が反応する。
「何か言ったか?」
「いや、こういう周りを山で囲まれた村ってなんだか閉鎖的じゃないですか。それで……」
それで何だ?
私は何に引っかかっているんだ?
「まあ、確かに陸の孤島って感じだよな」
津田の言葉で、私の中の回路がぱちりと繋がった。
「それですよ!」
津田は目を丸くする。
「どうした? 突然」
「ここも島とおんなじなんですよ!」
「島って……あ……」
津田も何かに気が付いたようだ。
そう、この村もクチナシ様の伝承が伝わる咬ヶ島と同様、孤立しているのである。津田の言葉を借りるのならば、結界の中なのである。
津田は昨晩、島を舞台とした怪談は『ウケる』と言っていた。
その理由は、民衆にとって怪談は娯楽であり、動物園の檻の中にいる肉食動物と同じく、絶対に自分たちに危害を加えないという前提があってこそ楽しめるものなのだと言っていた。
もし、津田が以前仮説を立てたように、伝承の舞台を咬ヶ島へとすり替えた人間の目的が、この村とこの村で起きた事件の隠蔽工作だったとするならば、そんな面倒なことをせず、クチナシ様という伝承ごとこの結界内に閉じ込めてしまうのが一番効率的である。こんな陸の孤島の村と交流がある村など、かなり限定的なはずだ。情報統制は容易だっただろう。なにせ、陸軍の地図を改竄できるほどの権力を持つのだから。しかし、その何者かはクチナシ様という伝承自体を完全に封じるつもりはないようだ。
だとすれば、その何者かの目的とはいったい何だったのか?
実はその逆で、クチナシ様の伝承を広めたかったのだろうか?
それも少し違う気がする。
この陸の孤島である山村だって檻の中であり、民衆にとってはこの山村で起きたクチナシ様にまつわる恐ろしい話は、エンターテインメントに昇華されるはずだ。だから、わざわざ檻の場所を変更する必要はない。そのまま、この村を舞台にしてクチナシ様の悍ましい話をまことしやかに語ればよいのだ。本当にクチナシ様が原因であるかは別にして、事実村一つが廃村になっているのである。無人島を舞台にするよりもよっぽど信憑性がある。
では、真の目的とは何なのか?
私はあの白昼夢を思い返してみる。
あの白昼夢の中で、この屋敷の者たちは逃げ惑っていた。まるで、肉食動物が闊歩する檻の中に入れられた、贄のように……。
その時、私の中で一つの恐ろしい仮説が浮かび上がる。
その仮説はあまりにも荒唐無稽だった。そして、もしそんなことが本当にあるのだとすれば、その何者かという存在はクチナシ様などという存在よりもずっと恐ろしい。
全身に鳥肌が立つ。
まさか、あり得ない。そんなはずない。そう、思うのに、なぜか確信のようなものもあった。
「だめだ、やっぱり何にもねえ」
津田は、思考の海に潜り固まっていた私と会話をするのをあきらめ、例のペンライトをつけて部屋の中を捜索していた。しかし、諦めたのかペンライトをしまって煙草を吸いだした。
そんな津田に声をかける。
「ねえ、津田さん」
「なんだ?」
「これは、単なる妄想なんですけど、この村は実験場だったんじゃないでしょうか」
津田は眉根を寄せ「なに?」と低い声を出す。
「この村は陸の孤島です。津田さんは昨日、怪談は檻の中の猛獣を見る娯楽と同じようなものだと言ってましたよね」
「ああ、まあ……」
「この村が動物園の檻の中なのだとして、クチナシ様は猛獣、じゃあ、ここに住む人たちは何だったんだろう? そう考えたら……」
何かに気が付いたような津田が私の言葉を遮り呟く。
「餌か……」
津田は煙草を持っていることを忘れたのか、一口も吸わない。じりじりとただ灰が伸びていく。
「そうです。でも、ただの餌じゃない。観察していたんじゃないでしょうか? 猛獣に人が食べられる様を」
津田は絶句していた。
彼の指に挟まれた煙草から灰がぽろりと落ちる。
私はさらに続ける。
「この村は、クチナシ様という怪物を放ち、それがどのように人を殺すのか観察するための、実験場なんじゃないでしょうか。そしてその観察者は、この村での実験を終え、次なる場所へと実験場を移した。それが――」
咬ヶ島
「そんな、馬鹿な……」
その時、彼の持つ短くなった煙草の火が彼の指を焼いた。
小さな悲鳴を上げて、彼は煙草を取り落とした。
その煙草を拾い上げようとしゃがみこんだ彼の動きがぴたりと止まる。
そして、もう一度「そんな、馬鹿な」と声を上げた。
彼は床を凝視したまま、固まって動かない。
「どうしたんですか?」
「この床、開くぞ……」
「え……」
仰天していると、彼は先ほどしまったペンライトを取り出し灯りをつけて、床を照らす。
「煙草の煙、見てみろ」
そう言われて私は床に落ちた煙草から立ち上る煙を注視する。通常上に昇っていくはずのそれは、床下へと吸い込まれていた。そして、その煙草の向かう先、その床板には目を凝らしてようやく見えるほどの細い隙間が開いていた。
彼は落ちた煙草を拾いあげるとそのまま床に押し付けて火を消す。
そのまま這いつくばって、煙が吸い込まれたあたりを中心にペンライトで照らしながら、コツコツと拳で音を確かめながら床板を調べ始める。
そして「ここだ」と声を上げた。
彼が、指で床板を押すと、その床板がくるりと反転する。そこには、小さな取手がついていた。彼はそれを片手でつかむとしゃがんだ体勢のまま、持ち上げる。すると、『にい』という大きな軋み音を響かせて、床板の一部が持ち上がる。持ち上がった床板と床の間に両手を滑り込ませると、ちゃぶ台を返すように力任せに跳ね上げた。何か木製のものが壊れるような大きな音がしたかと思うと、勢いよく床板が開き、そのまま百八十度回転して、反対側の床へとひっくりかえる。部屋中に大きな音がこだました。
静寂が戻ってくる。と、同時に、恐ろしく冷たい風が足元から這い上ってくるのを感じる。
津田は無言で立ち上がると、ペンライトを床に向ける。
そこには大人一人がやっと通れるくらいの正方形の穴がぽっかりと口を開けている。その先には、地下へと繋がる階段が白い光の中に浮かびあがっていた。
「どう、します?」
私は津田に声をかける。
「行くしかねえだろ……」
「そうですよね」
私はそう同意したが、正直行きたくなかった。
この地下室には絶対に恐ろしい何かがある。それを本能で感じ取っていた。
津田が先に階段を下りていく。それは階段というより梯子に近かった。一段、一段と降りる度に気温がどんどん下がっていくのを感じた。
下りた先は一畳ほどのスペースで、その先に扉があるようだ。津田のペンライトに照らされたその扉は、金属製のようだ。
「敷島さんがさっき言っていたことは、どうやら間違いじゃなさそうだ」
「え?」
「いや、ここが実験場なんじゃないかって言ってただろう? それ、たぶん当たってるぜ。これ、見てみなよ」
津田は扉を照らしたまま、狭い通路の右側へと体を寄せる。私は、彼の脇辺りから顔をのぞかせる形で、目の前の金属製の扉へと目を向ける。
そこには、こう書かれていた。
――帝国陸軍 第十一陸軍研究所
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