開花 その十四
しばらく薄暗い石段を登ると、少し開けた場所に出た。そこには捨てられた本殿があった。
本殿は苔むし、荒れ、この仄暗い林の中、幽霊のように佇んでいる。
屋根は一部が崩れ、壁材はほとんど剥がれ落ち、中が露わになっているそれの最奥、鳥居をかたどったような支柱が見えた。その支柱は所々剥げてはいたが、以前は鮮やかな朱塗りであったことがうかがえる。そのさらに奥には祭壇のようなものがある。その祭壇には何か絵のようなものが飾られている。しかし、中は暗くよく見えない。
私は、その絵をもっとよく見ようと、崩れかけの本殿の中に一歩足を踏み入れようとした。その時だった。
「待て」
津田が私の左腕を強く引いた。
私が驚いて津田を振り返ると、彼は社殿の朽ちかけた床板を指して言った。
「釘を踏み抜くとこだったぞ」
彼が指さす先、まさに今私が足を踏み下ろそうとした場所には一枚の朽ちた板が落ちていた。その板には一本の長い錆びた釘が上向きで突き刺さっていた。
「あ、ありがとうございます」
「いや。大丈夫だ。ただ、こういう廃墟にはむやみに立ち入らない方がいい。床が抜けて大けがすることもあるし、いつ崩れるか分からないからな」
津田はそう言いながら社殿の天井を見上げた。
「ところで、なんか気になるものでも見つけたか?」
「え? ああ、ほら、あの祭壇に飾られたものが何かなって」
私が指さす先を津田がじっと見つめる。
「あの飾られている絵のようなものか?」
「そうです。でも、暗くて良く見えなくて」
「ちょっと待ってくれ」
津田はそういうと、ライダースジャケットのポケットをまさぐり始める。
「あった。ほら」
そう言って彼は、内側のポケットからペンライトを取り出して見せる。
「まあ、ちと心もとないが、入るよりはましだろ」
「いつも持ち歩いてるんですか?」
私は驚いて彼に尋ねた。
「忘れてるかもしれないが、俺は一応オカルトライターだぜ?」
なるほど。確かにオカルトライターともなれば、心霊スポットなどに取材に行くこともあるだろう。
彼はペンライトのお尻を捻る。想像以上に強い光線が放たれ、私の足元を白く照らす。これほどの光量があれば、数メートル先の祭壇も十分に照らせるだろう。
津田がさっとペンライトを祭壇の方に向ける。
その白い光の中、何かが浮かび上がる。
私達は同時に息を飲んだ。
それは絵ではなかった。
木像だった。
ペンライトが創る影が祭壇の後ろに残った杉板の壁に投影される。
その影は、ペンライトの微かな動きに合わせてゆらりと立ち上がる。
痩せた長い胴体。そして四対の腕。
その八本の腕は、手のひらをこちらに向けた状態で扇形に広げられている。
千手観音のようだ、と一瞬思った。
しかし、それはまったくの別物である。
なぜならば、その木像の顔の部分には、無数の目玉が彫られていたから。
そして、こちらを向く八つの手のひらの一つ一つには――歯をむき出しにして嗤う八つの口が在った。
「つ、津田さん……」
「あ、ああ、クチナシ様だ……」
クチナシ様は、在るべきところに口は無い。しかし、それは無数の口を持った化け物だった。
私は、津田に見せられた無数の歯形がついた死体の写真を思い出す。凛子の身体にも、同じような痕が見られたという。もし、本当にクチナシ様によるものだとすれば、彼女たちは、この掌に付いた口で……。
私はこの化け物が凛子の身体を抱き、その掌に付いた八つの口で彼女の全身を齧り取っていく光景を想像する。
腰のあたりから、虫唾に似た悍ましい感覚が全身を駆け巡る。
そして、私はあることを思い出す。
黒鶴荘でみた、あの白昼夢である。私は、何かから逃げ惑う村人達のなか、背後に立つ何者かの気配をはっきりと感じた。そして、夢の中の私はこう思ったのだ。
『私は今から抱かれるのだ』と。
私は吐き気にも似た恐怖を感じた。
この像を見たのも、もちろん今日が初めてだ。
なのに、私は初めから知っていた。
私とクチナシ様と呼ばれる存在との不可思議な縁はいったい何なのだ?
なぜ私と凛子はこんな恐ろしいことに巻き込まれているのだ!
きっかけ……それはあの朋絵ちゃんの心霊写真だ。
そもそも何故、あの写真にあそこまで執着したのだろうか? 冷静になって考えてみればこれは明らかにおかしい。いや、それどころか……。
「まって……」
「敷島さん?」
何故あの写真を見て私は朋絵ちゃんだと分かったのだ?
そうだ、凛子も言っていたじゃないか。『なぜ分かったの?』と。
小学校以来会っていなかった朋絵ちゃんの成長した姿を見て、私は一発で彼女だと分かった。なぜだ?
私は不思議がる凛子にあの時なんと答えた?
確か、『小学校の頃から変わってない』と答えた気がする。
そんな訳あるだろうか。確かに、面影はあった。あったはずだ。
例えばほら、あの笑い方。あの……。
「あれ……」
小学校時代の彼女の顔が思い出せない。
そんな馬鹿な。
だって、私達は親友だったはずだ。
私はスマートフォンを取り出し、カメラフォルダを必死に遡ってあの心霊写真を見つける。
「うそ、でしょ……」
画面にはあの写真。何も変わっていない。何も変わっていないはずなのに、そこにはまったく知らない女が写っていた。
「嫌っ!」
その不気味な写真が写ったスマートフォンを地面へと放り投げる。
心臓は早鐘のようだ。
そもそも、何でこんな写真が私のスマートフォンの中に在るの?
私はどこでこの写真を手に入れたのだろうか?
思い、出せない……。
「嫌……」
瞼を閉じると、あの日の凛子が思い出される。
『クチナシ様がね。呼んでるの』
違う。
違うのだ。
呼ばれているのは――私だ。
「いやああああああああああ!」
恐怖で叫び声をあげた次の瞬間、激しい頭痛に襲われ、そして意識は暗転した。
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