開花 その四

 彼はくしゃくしゃになった紙のケースから煙草を一本取り出すと、オイルライターで火をつける。彼の吐いた煙が霧のように霧散していく。


 そのタイミングで先ほどの店員がホットコーヒーを持ってやってきた。


 私は軽く会釈をしてそれを受け取る。


 コーヒーカップの中にはこの店のように暗いコーヒーで満たされていた。相当深入りのようだ。一口すすると強烈な苦みが口の中に広がる。


 私はそっとソーサーの上にカップを戻してから、煙草を吸う彼に声をかけた。


「津田さん。一つ聞いてもいいですか?」

「ああ」

「どうしてオカルトの類を信じていないあなたが、オカルト雑誌に寄稿しているんですか」


 津田は煙草を一飲みしてから答える。


「まあ、俺もあんたと同じだからだよ」

「私と同じ?」

「そうだ。俺もある真実を探している」

「それはクチナシ様に関係があることなんですか?」

「かもな」

「いったい、何なんですか? クチナシ様って」


 彼はたっぷり煙草を吸い込んでから、口を開く。


「さあ。分からん。ただ、あの一帯にある伝承に出てくる悪神の類って事だけしか分かってない」

「悪神、ですか」

「そうだ。あんた、カミガシマは見たか?」

「かみ……何ですか?」

「あの港町の沖合に在る島だ」


 そう言って津田は煙草をもみ消す。そして懐からペンを取り出すと、テーブルに置かれた紙ナプキンに何やら文字を書いた。それを私が読めるようにくるりと反転させる。


 そこには「咬ヶ島」と書いてあった。


 私はあの岬から見えた島を思い出す。


「ああ、岬から見えた島、ですかね」

「たぶんそうだ」

「その島がどうしたんですか?」

「伝承によれば、クチナシ様はその咬ヶ島に住まう悪神だ。今は無人島になっているが、以前は人も住んでいたらしい。伝承によればそのクチナシ様は人を喰うらしい」

「人を喰う……」


 私は脳内で勝手に『梔子様』と変換していたが、もしかしたら『口無し様』なのかもしれない。人を喰うという伝承、その伝承の中心である咬ヶ島という地名。何か『口』というキーワードで繋がっているように感じる。


 しかし、人を喰う化け物なのに口が無いとは、不思議である。


「でも、口が無いのに人なんか食べられるんですかね?」


 私がそういうと、津田はピクリと眉を動かす。


「なんで、口が無いって思った?」

「いや、最初は花の方の梔子なのかと思ったのですが、伝承が伝わる島の名前を聞いたらなんとなく『口』に関係あるのかと……」

「そうか……あんた勘がいいな。クチナシ様の容姿は詳しく伝わっていないが、どうやら口は無いらしい。代わりに無数の目玉が顔中に付いているとある」


 私はその姿を想像して、思わず身震いをする。


「悪神っていっても神様なんですよね? 神様がそんなに恐ろしい見た目してますかね?」


 私が素直な感想を述べると、彼はもう一本煙草に火をつけてから口を開く。


「かの者、世界の広さと同じだけの身の丈と三十六対の燃え盛る翼と、そして三十六万と五千の瞳を持っていた」

「なんですか? それ。怪物か何かの記述ですか?」

「いや、天使だよ」

「天使?」

「そう。ユダヤ教の天使」

「そんな恐ろしい姿の天使がいるんですか?」

「居るんだよ。まあ、確かに恐ろしい姿だよな。でも、天使でこれなら、それを束ねる神はもっと醜悪な姿なのかもしれない」


 彼はそう言って一枚の写真を放りよこす。艶のあるよく磨かれた栗材のテーブルの上を写真が音もなく滑り、私の目の前でぴたりと止まった。


 写真を覗き込む。


 それは水死体だった。


 皮膚は白く、ところどころ破れ、裂けている。


 その灰色にも似た白い肌を見ていると、あの日の凛子の姿がふっと浮かび上がる。それは、フランス映画のような独特な青白さをまとっていた。


 凛子が海を臨む断崖に背を向けて立っている。

 宿の生地の薄い浴衣を着ている。

 青い月の光にその浴衣が透け、彼女の細身の裸体が影となって浮き上がる。

 凛子はゆっくりとこちらを振り向く。

 その表情は、月の光に照らされて怪しく嗤っていた。

 あの時、私の手には彼女の心の感触がはっきりと感じられた。

 ああ、彼女は今から死ぬのではない。とっくに

 ゆっくりと彼女の体が後ろ側に倒れていく。

 そして、崖の向こう側へと彼女の死体は消えていった。


「おい、あんた」


 津田の言葉で私は幻想世界から帰還する。


 彼の吸う煙草の煙が窓から差し込む光に照らされ、灰色とも水色ともつかぬ不思議な色に光りながら、くねりくねりと立ち昇っている。先ほどまで見ていた水死体の肌と同じ色だ。しかし、水死体とは違って煙の表皮はシルクのようにどこまでも滑らかだった。


「大丈夫か?」

「ええ、まあ」


 そう言って、再び写真に目を落とす。


 やはりそれは水死体だった。しかし――


 その身体には


「これ、歯型……ですよね?」

「ああ、そうだな」

「誰が一体、こんなことを……」

「さあ。頭のおかしな殺人鬼かあるいは」


 男が煙草を咥えて一口飲む。煙草を口からいったん離してから深く息を吸い込み、細く息を吐き出す。吐き出された煙が霧のように彼の体にまとわりついていく。


「――クチナシ様か」


 全身に鳥肌が立った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る