開花

開花 その一

 凛子が身を投げたあの日から、約一か月が経っていた。秋は深まり、東京でも朝晩の気温が十度を下回る、そんな日も増えてきた十月の終わりごろ。私は東京で凛子の痕跡を追っていた。


 あの日、私はその場で警察に連絡をした。すぐに凛子の捜索活動が開始されたが、一週間経っても彼女の死体は見つからなかった。消防の話では、岬の周辺は潮の流れが激しく、捜索は困難を極めるそうだ。


 私はあの宿に凛子が見つかるまでと言って、逗留し続けていたが、捜索の一時中断を受けて、私は凛子の両親とともに東京に戻ってきたのだった。


 凛子の両親とは私が中学生だった頃から交流がある。実の娘、とまではいかないがそれでも相当に可愛がってもらっていた。それもあってか、彼らは私を責めることはしなかったが、大いに取り乱し、「瑠璃ちゃん、何があったの?」と泣きながら私に縋り付いてきた。


 私はその質問に、うまく答えることが出来なかった。私自身、なぜ凛子があんなことをしたのか、分からないのだ。だから、起こったことをありのまま、凛子の両親にも、警察にも話をした。


 凛子の両親は、私の話、つまり何があったのかという事実については信じてくれた。しかし、凛子の動機については、未だ謎のままであり、その真相を知ることを彼らも、そして私も強く望んでいる。


 ひたすら謝ることしかできない私を優しく抱きしめて一緒に泣いてくれた彼らが、東京駅で別れ際に言った言葉がある。


「瑠璃ちゃん。あの子がどうしてあんなことをしたのか、少しでも心当たりがあったり、何かに気が付いたら教えてほしいの」


 この言葉が呪いとなり、私を縛り付けていた。


 私は東京に戻ってからも日常に戻れず、この一か月間、ずっと真相を追い続けている。


 手がかりは、彼女が言ったあの言葉――


「クチナシ様が呼んでる」


 私は、このクチナシ様という存在を知っている気がする。初めて聞いたはずなのに、凛子からその言葉を聞いた時、全身に鳥肌が立った。


 それに、宿で見た白昼夢。逃げ惑う村人たち。そしてそれを茫然と立ち尽くして、ただ眺めることしかできなかった夢の中の私。その後ろに立っていた恐ろしい何か。あれがきっとクチナシ様なんだと思う。


 なぜ、あんなものを見たのか、クチナシ様と私の間にどんな縁があるのか、まったく思い当たる節がない。それでも、私の身体は、その存在を、それに対する恐怖を覚えているようだった。


 私はとにかく、クチナシ様と呼ばれるこの得体の知れない存在について調べることにした。しかし、どれだけネットを漁っても、民俗学の本をひっくり返してみても、それらしい伝承やそれにまつわる事件などを見つけることはできなかった。

それどころか、茜ちゃんが言っていた、自殺が多発するというあの岬についての記事も見つからなかった。ひょっとしたら、地元のそれも学校という狭いコミュニティで流布している怪談の類なのかもしれない。


 とにかく、何の糸口も見つけられないでいた。


 その日も朝から在籍する大学の図書館にこもり、調査を続けていたが何の成果も得られないまま閉館の時間となり、アパートへと帰宅したのだった。


 玄関の扉を開けると電気がついていた。出るときに消し忘れたかと一瞬思ったが、廊下の奥、扉を隔てたリビングに誰かがいる気配がする。玄関には見覚えのある黒のフラットシューズが揃えて置いてある。


 思わずため息が出た。


 借りてきた本でぱんぱんに膨らんだカバンを廊下に下ろしてから、玄関に座り込んでブーツの靴紐を緩めていく。背後で扉が開く音がする。それと同時に、生温かい風と食べ物の匂いが這い出てくる。


「お帰り」


 背後からのその声に振り返りもせず応える。


「ただいま。姉さん、何しに来たの?」


 まあ、理由など聞かなくても大方予想がつく。どうせ、いつものように旦那と喧嘩でもしたのだろう。


「何しに来たのって、あんた。理由がないと来ちゃいけないわけ?」

「別に、そういう訳じゃないけど。でも、私なんかに構ってないで、自分の体調とか気にしなきゃならない時期なんじゃない?」 


 ブーツを脱いで玄関に上がり、床に置いた重たいカバンを肩にかけてから声の方向を振り返る。そこには、姉の実咲が腕を組んで、廊下の壁に寄り掛かるようにして立っていた。彼女の下腹部は重そうに膨らんでいる。


 私の帰りを待ちつつ、夕飯を作ってくれていたのだろう。最近は、自炊などする気になど到底なれず、食生活は荒れに荒れていた。だから、冷蔵庫にまともな食材などなかったはずだ。となれば、彼女は買い物にも行ったことだろう。妊娠中に重たい買い物袋を持ったり、キッチンに長時間立ったりするのは母体に負荷がかかるはずだ。


「まあ、そうかもしれないけれど、なるべく日中は歩いたりするように先生からは言われているし」


 意外だった。臨月間近の妊婦など、絶対安静なのだと勝手に思っていた。


「ふうん。そうなんだ。で、郁人さんと喧嘩でもした?」

「違うよ。なんていうか、その……あんた最近元気しているかなと思ってさ。ちゃんと食べてないんじゃないか思ってたけど、案の定冷蔵庫は空っぽだし、来てみて正解」


 姉とは、あの事件の後すぐに会った。その時、姉の「そんな気味の悪いところに行くからだ」という発言に無性に腹が立ち、大喧嘩になった。姉の言うとおり、私があの写真に興味を持ち、凛子を旅行に誘ったのがそもそもの原因である。図星を突かれたわけである。


 その喧嘩以来、私と姉は連絡すら取っていなかった。そのため、この邂逅は相当に気まずかった。


 先ほどの発言から察するに、姉は私と仲直りをしに来たのだろう。

それに、私のことを心配しているのも良くわかる。私が肩から掛けているカバンの中身も大方想像できているのだろう、それを見た姉の顔が分かりやすく曇った。


「まあ、入んなさいよ。あんた、夕飯はまだでしょ?」

「ん、まあ」


 私はそう応え、姉に導かれるまま自室へと入る。出かける前は荒れていた部屋だったが、今は綺麗に片付いていた。どうやら部屋の掃除までしてくれたようである。母親か、と心の中で突っ込みを入れる。しかし、ありがたいことには変わりなかった。

「すぐ食べる? 鍋でいいよね?」と姉が問いかけてくる。私は小さく頷いてから、適当な場所にカバンと上着を放り投げると、手を洗いに洗面台へと向かった。


 リビングに戻ってくると、ローテーブルの上にすでに鍋が置かれていた。鍋からは暖かな湯気が立ち上っていた。


 二人分の食器を準備し、食卓に着く。姉が取り分けてくれたお椀の中を見ると、くたくたに煮えた白菜の葉の部分と、私の好物である大きめにカットされた油揚げが沢山入れられていた。一口汁をすすると、白菜から出た滋味深い出汁の香りが口いっぱいに広がり、じんわりと足先まで温まっていく感じがした。


 しばらくは、他愛のない姉の近況聞きながら食事をした。


「それで、あんたの方はなんか進展あったの?」


 姉は私の後ろに置いてあるカバンにちらりと目をやってからそう聞いた。


「いや、何もないかな」

「そう……あんたさ、あんまり危ないことしちゃだめだよ。心配かけないで」

「分かってる。でも、姉さんが言ったとおりだから」


 姉は怪訝な顔をして「何が?」と聞いてくる。


「だからさ、この前喧嘩したとき言ってたじゃない? 『そんな気味の悪いところに行くからだ』って。図星だったんだ。私が凛子を旅行に誘ったのがそもそもの始まりだから。凛子があんなことになったのは、私の責任なの」

「……瑠璃」

「だからさ、この真相を調べて、そして凛子のご両親に伝える義務があるんだよ」

「それは、警察の仕事でしょ? 瑠璃がわざわざ危険な目に合う必要はないじゃん」


 姉の目は不安で揺れていた。


「ううん。ダメだよ。だって、警察はきっと事件じゃなく、事故とか自殺とかでかたをつけるつもりだから。だって、実際そのとおりだもん。凛子はあの時、自分から飛び降りたんだから。でも、凛子は自殺をするような子じゃない。あの時の凛子は明らかにおかしかった。だから私はその理由が知りたい」


 姉は何かを言おうと口を開きかけるが、その言葉を飲み込んだ。ひょっとしたら、自分の言葉が私を追い込んでしまったと、責任を感じているのかもしれない。


 しばらく黙り込んだ姉は「とにかく危ないことはしないでね。お姉ちゃん心配だよ」とだけ呟いた。私は何も答えなかった。


 それからしばらくして、姉は自分の家へと帰っていった。

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