発芽 その五

 それから五分ほど経った頃、制服姿の茜ちゃんが現れた。


「お待たせしました」

「おお、制服なんだ」

「学校から直接来ているので」

「なるほどね。でも大変でしょう? 友達と遊んだりしたいんじゃない?」


 そう言いながら凛子は立ち上がると私の隣に座りなおす。


 茜ちゃんは凛子が空けたスペース、囲炉裏の角を隔てた斜め向かいにちょこんと座った。


「まあ、大変は大変ですけれど、仕事ですし、何より私、この宿が好きですから」そう言って茜ちゃんは微笑んだ。それは、愛おしさと口惜しさが同居する何とも大人らしい笑顔だった。


 それを見た私はすっかり感心してしまった。自分が茜ちゃんくらいの年の頃はもっと子供だった思う。今の茜ちゃんのように笑うことなどもちろんできなかった。いや、ひょっとしたら今の私でも無理なのではないかとさえ思う。


「大人だねえ」

「いや、そんな……あ、おばあちゃん」


 振り返るとそこには女将さんが柔和な笑顔をたたえながら近づいてきていた。女将さんは私たちの近くに美しい所作で座ると、指をついて礼をする。


「お相手をしていただき、申し訳ありません」

「いえいえ、無理を言ったのはこちらですから」


 私が慌ててそう言うと、女将さんは顔を上げて「ありがとうございます。世間知らずな孫娘ですから、どうぞ大目に見てやってください」と再度軽く礼をする。


「いやいや、茜ちゃんは私たちよりもずっと大人ですよ。ねえ、瑠璃?」

「そうですよ。私たちが高校生の頃なんて、もっとちんちくりんでした。ひょっとしたら今の私たちよりもずっと大人かもしれません」

「確かに!」


 凛子はそのとおりだと手を叩く。


「もう、二人して揶揄うのはやめてください」と茜ちゃんは恥ずかしがるが、まんざらでもなさそうだった。

「茜」


 女将さんに名を呼ばれた茜ちゃんはとたんに真剣な顔になる。そして短く「はい」とだけ答えた。


「くれぐれもお客様に失礼のないように」


 そういう女将さんの声はあくまで柔らかかったが、有無を言わさぬ響きがあった。茜ちゃんはもう一度「はい」とだけ答える。


「さて、お客様。何かお飲みになりますか? 簡単なおつまみのような物もご用意できます」

「いえ、私は……。凛子はまだ飲むんだったよね」


 一緒に飲もうと茜ちゃんを誘っていたのだから当然そのつもりなのだろう。しかし、凛子は首を横に振る。


「んー。なんだかもう満足しちゃったかも」


 なんて勝手な奴なのだ、自分から誘っておいて……。まあ、昔からこういうタイプであったが。


「それでは、食後のお茶かコーヒーはいかがですか?」

「じゃあ、せっかくですからいただきます。凛子はどっちにする?」

「コーヒー……かな」


 そこで茜ちゃんがポンと手を叩いた。


「コーヒーでしたら、私が淹れましょうか」

「え? 本当?」

「はい。ちょっとお時間いただきますが、良いですか?」

「もちろん」


 凛子は嬉しそうである。


「ではちょっと準備してきますね」と茜ちゃんは立ち上がる。それと同時に女将さんも立ち上がり「では私は何か甘いものでも用意させますね」と言った。

二人が連れ立って裏へと戻っていくのを見ながら私は凛子に声をかける。

「なんだかほんとに良い宿だよね」


 とても心霊写真の舞台とは思えないほど、とは言わなかった。


「そうだね」と囲炉裏の火を見つめたまま応える凛子の目元がすっと細くなる。大方、私と同じことを思っているのだろう。


 しばらくの間、私たちの間には微妙な、でも決して居心地が悪いわけではない沈黙が流れた。


 私は目の前の囲炉裏の中で熾きている炭火を見つめる。その時、少しだけ開けられた窓から秋風がするりと音もなく入ってきた。シルクのような肌触りをしたそれは、私を後ろからさらりと撫でた。風に吹かれた炭火が一瞬勢いを増し、赤々と輝いた。それはまるで生き物の鼓動のようだった。


 ――どくん


 頭の奥の方で何かが脈打つ。その瞬間、私は激しい頭痛に見舞われた。眼球の奥を捩じられているような重く鈍い痛み。私は、咄嗟に目をつむり目頭を押さえた。瞼の内側には墨を散らしたような不規則な模様が脈を打つ。痛みはどんどん激しくなり、目の前が徐々に白んでゆく。私はこのまま気を失うのか……そう思った次の瞬間、悲鳴が聞こえた。


 私は顔を上げる。


 そこは、セピア色の世界だった。粗末な着物を着た大勢の人間達が篝火を持ったまま何かを叫んでいた。人々は巣をつつかれた蟻のようにわらわらと右に左に逃げ惑う。地面に倒れる男、耳を塞ぎ地面に座り込む女、子供を抱えて必死に何かを探す母親。幼子がどこかで泣いている声が聞こえた。


 私の中に、彼らの感情が濁流となって押し寄せる。


 それは恐怖だった。それともう一つ、激しい後悔の念であった。


 ここは地獄だ。私達はこれから地獄の業火に焼かれるのだ。


 しかし、それは仕方がないことだ。私達が犯した悍ましい罪への天罰なのだから。


 私のすぐ後ろでカチリと何かが合わさる音が聞こえた。


 いる。


 ――嗚呼、私は今から


 その時、どこか遠くで鈴の音が響いた。

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