発芽 その四
「いいなあ。私も行ってみたいです」
足つきの漆盆を持って立ち上がりながら茜ちゃんが溜息をもらす。
凛子と私はたった今、囲炉裏端での夕食を終えたところだった。食事中ずっと付いてくれていた中居さんの茜ちゃんはこの宿の女将の孫娘で、まだ高校生らしい。学校が終わると、修行のため旅館を手伝っているのだそうだ。
「東京?」
私がそう尋ねると、茜ちゃんはこくりと可愛らしく頷いた。
「そんなに良いところじゃないよ」と凛子は大げさに手を振る。
「ええ? 本当ですか?」
「ほんと、ほんと。人は多くて騒がしいし、人も冷たいしね。それに比べて此処はいいよ。静かだし、ご飯も美味しいし」
「お楽しみいただけました?」
「もっちろん! 最高だった!」
凛子は足をだらしなく投げ出すと、自分のお腹をさすって見せた。
「ふふ。良かったです。では、私はこれを片付けてまいりますので」
そう言って一礼して、その場を去ろうとする茜ちゃんを凛子が呼び止める。
「ねえ、茜ちゃん」
「はい?」
凛子は投げ出していた足を引き寄せると、胡坐をかいて茜ちゃんを見上げる。
「それ片付けたらお姉さんたちと、一緒に飲まない?」
「ちょっと、凛子」
「良いじゃんさ。茜ちゃんとってもかわいいし、もっとお話ししたい! あ、もちろん茜ちゃんは高校生だからお茶とかジュースとかだけど」
茜ちゃんは恥ずかしそうに頬を染める。
「でも……」
「ね? いいでしょ?」
茜ちゃんは困ったように笑う。しかし、その瞳には明らかに好奇心が炎のようにちらちらと揺らめいていた。彼女が東京から来た私たちに非常な興味を持っていることは、食事中に交わした会話からも明らかだった。聞けば、東京からの旅行客などめったに居ないらしく、東京に憧れているであろう彼女にとっては色々と話を聞きたくて仕方がないのだろう。
彼女は散々悩んだ挙句「女将に聞いてみます」と小さく呟いた。
「うん。よろしく」
「では、いったん失礼します」と茜ちゃんは再びお辞儀をすると、その場を去っていった。
私は、凛子の茜ちゃんへの態度を不思議に思っていた。彼女は明るく物怖じしないタイプではあるが、決して軟派な人間ではない。自分が友人と認める人間以外には、それなりに親しげに接するものの一定以上は近づこうとはせず、むしろ淡々と接するタイプである。多少お酒が入っているとはいえ、明らかにいつもと様子が違っていた。
私は茜ちゃんが裏に消えたのを確認してから、声を落とし凛子に話しかけた。
「凛子がナンパなんて珍しいね」
凛子は「ふふふ」と柔らかく笑うと「なに? 焼いてるの?」と揶揄ってきた。
「はいはい。で、なんか理由があるわけ?」
「だって可愛いじゃん」
それは私も同意するところである。茜ちゃんは目元の涼しい、実に《都会的な》顔立ちをしていた。しかし、その話し方や所作はその見た目に反し、やわらかく牧歌的である。そして、何よりもその鈴を転がすような可愛らしい声色が、彼女の都会的でシャープな印象の見た目とのギャップも相まって、とても魅力的だった。
「もちろん、可愛いよ。でも、それだけじゃないでしょ」
「まあ、高校生だからかな」
私は核心に触れずのらりくらりとする凛子の態度に多少嫌気がさして、ため息をついた。
「凛子にそんな趣味があったとはねえ」
「半分冗談」
凛子は可笑しそうに喉を鳴らしながら笑う。
半分が冗談なのであれば、もう半分は本気ということである。私は、さらにもう一つ大きくため息をついた。
「まあ、そうカリカリなさるな。高校生というのは、噂好きな生き物なのだよ。瑠璃だって覚えがあるでしょう?」
まあ、覚えがないわけではない。凛子ほどではなかったが。
私が何も言わないでいると、肯定と受け取ったのか凛子が大げさに頷いた。
「ま、そういうこと」
「つまり、どういうこと?」
今度は凛子の方が溜息をつく。
「だからさあ、あの写真の人のこと、何か知ってるかもしれないじゃない」
なるほどそういうことか。確かにここで中居さんとして働く茜ちゃんならば朋絵ちゃんのことを何か覚えているかもしれない。もちろん、女将さんの方が覚えている確率は圧倒的に高い。しかし、心霊がらみとなればきっと話をしたがらないだろう。もちろん、心霊写真だとは言わずに単純に朋絵ちゃんのことを訊ねることはできる。しかし、もし何か宿にとって不都合な、例えばあの部屋で彼女が自殺しているだの、その後幽霊の目撃談があるだの、そういった事実があったとしても、決して話さないだろう。
一方、茜ちゃんは凛子曰く、噂好きの高校生である。つまり凛子は、茜ちゃんであれば心霊現象などの非現実的な噂話にも乗ってくるだろうし、もしかしたら何か有益な情報を語ってくれるかもしれないと、そう考えているのである。たしかに一理あるが、しかし……。
「私はあまり気が進まないよ」
凛子は不思議そうな顔をする。
「だって、その人のこと知りたいんでしょ? どうなったのかも含めて」
「それはそうだけれど……」
私はあの写真を見てからというもの、朋絵ちゃんがその後どうなったのか、なぜあんなにも大きな悲しみを湛えていたのか、知りたくて仕方がなかった。だからここまで来たのだ。しかし、今は、その真実を知るのは、いや知ろうとすること自体が危険なような気もしていた。あの写真の奥に在る闇は広く、そして計り知れないほど深いような気がする。
私が「なんだか危ない気がして……」と口を開こうとしたとき、茜ちゃんがパタパタと着物の裾を翻しながら戻ってきた。明らかに頬が緩んでいる。どうやら女将さんの許しが出たようである。
「お待たせしました。おばあちゃん、あ、いえ女将からお許しが出たので、私、着替えてきますね」
「え、着替えちゃうの? 着物可愛いのに」と凛子が口を尖らす。
「あ、ごめんなさい。着物を着ているときは中居として振舞わなければダメだって女将に言われているんです」
「なるほど、そういうことね。じゃあ、私たちは今から友達ってことだね」
凛子がそう言うと、茜ちゃんの頬がほんのりと染まった。
「それじゃあ、私、着替えてきますね」と茜ちゃんは少しはにかむと、また裾を翻しながら裏へと引っ込んでいった。
凛子はその後ろ姿をしばらく見つめていたが、不意に私の方に振り向くと「ま、大丈夫でしょ」と言った。
「何が?」
「瑠璃、怖がってるでしょ?」
そう、かもしれない。
「大丈夫だよ。私は危険なことはしないから。ただ、話を聞くだけ」
凛子の言葉にはっとする。
この宿に着いてから、私はずっと、心臓を誰かに撫でられているような、底冷えのする胸騒ぎがしていた。それは恐怖心に違いないのだろうがしかし、私はあの写真や、この宿に潜んでいるかもしれない怪異に恐怖していたのではなかったのだ。私は、凛子の身に危険が及ぶことを恐怖していたのだ。それを凛子の今の言葉で自覚したのだった。
凛子をこの旅行に誘ったのは私だ。彼女があの写真に興味を持つだろうと分かっていたから。しかし、彼女の関心度は私の想像を遥かに超えていた。
あの写真が本当に危険なものだったとしたら? 彼女の身に何かあったら? それを思うと私は強烈な不安感に襲われた。
凛子はいつになく真剣な眼差しで「大丈夫だよ」と同じ言葉を繰り返す。私はそれに、小さく頷いて応えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます