第18話

 十一月十一日、金曜日。

 長かった一週間が、ようやく終わった。午後七時半、身体を引きずって帰宅した。


「沙緒里さん、おかえりなさい!」


 アミと一緒に、笑顔の小林さんが出迎えてくれた。もう特に拗ねてはいない、明るい様子だった。


「お風呂沸いてるんで、先にどうぞ。晩ごはんの支度しておきます」

「あ、ありがとう……」


 上機嫌かつ用意の良い小林さんに、私は警戒していた。

 ハンバーグの一件で、ひとりの料理を禁じている。今夜の夕飯は、スーパーで惣菜を買うよう指示したから、それを盛り付けるだけだろう。そっちはまあ、問題無い。

 小林さんは一体、何を企んでいるんだ……。

 私は湯船に浸かりながら、ぼんやりと考えた。


 ――わたしは沙緒里さんに、何かカタチを残したいです。


 あの夜、そのように言われたが、未だに何のアクションも無かった。……期待してるわけじゃない。

 小林さんのことだから、忘れたり水に流したりはしていないだろう。たぶん、チャンスを伺っているんだ。

 ピアスは本当に諦めてくれたのか? その疑念があるからこそ、警戒を怠れない。痛いのだけは、本当に勘弁して欲しい。

 私はじっくりと身体を温めた後、風呂を出た。


「さあ。ご飯にしましょう」


 リビングのテーブルには、ポテトサラダと唐揚げ、そしてストロングなレモンチューハイが置かれていた。

 うわぁ……。金曜の風呂上がりには、たまらない光景だった。


「はー、美味しい!」


 私はソファーに座って、夕飯というか、晩酌を始めた。

 スーパーの不味い唐揚げは、レモンチューハイと謎に合う。食欲が無くても、箸が進んだ。


「はい。冷凍パスタもチンしてきましたよ」


 匂いの通り、ペペロンチーノだった。わかってるな、小林さん。不味い冷凍パスタは、これぐらい質素なものがちょうどいいし、酒にも合う。

 メニューとしてはどれも最低なものだが、晩酌には最高の組み合わせだった。


「良いな……。すごく良い!」

「お酒のおかわりもどうぞ。お仕事頑張りましたね、沙緒里さん」


 一本切らしたタイミングで、小林さんが二本目を持ってきた。

 天使か? 隣に座ってニコニコと微笑む姿が、私にはそう見えた。

 もう、さっきまでの警戒はこれっぽっちも無かった。警戒どころか、小林さんには感謝していた。


 ……しゅる?

 ふと、そんな音が聞こえた。

 気持ちよく二本目を飲み干したところまでは、覚えている。それ以降の記憶が飛んでいるから――目を覚ましたんだと理解した。

 ソファーに座ったまま、酔い潰れて寝落ちしていたようだ。疲れが溜まった身体にアルコール九パーセントを二本飲むと、こうなるのは当然か……。

 頭がぼんやりとする。目を閉じたら、またすぐ眠れるだろう。

 だが、それを妨げたのは窮屈感だった。何か、普段味わうことのない感覚が、違和感として脳に働きかけた。


「ちっ」


 舌打ちが隣から聞こえた。

 小林さんがゴソゴソと何かしているんだと理解した時には、意識は八割ぐらい起きていた。


「え……何してるんだ?」


 身体が思ったように動かない。俯くと、お腹のあたりが――両腕も含めて、ロープでぐるりと巻かれていた。

 同じような窮屈感が、足にもあった。両足が開かない代わりに伸ばしてみると、足首のあたりも巻かれていた。……いや、縛られていた。

 どっちも、割とキツい。加減を知らないのか、この子は……。荒縄ではないが、内出血しないだろうな?

 なんか、知らない内に私は束縛されていた。サスペンスの映画やドラマみたいな経験は、たぶん人生で初めてだ。普段の生活で、意外と無い。

 今になって思えば、笑顔で出迎えたことも、完璧な晩酌も、全部罠だったんだな。

 まだ、頭がぼんやりするから――ハメられた状況を理解するが、焦ることがなければ、怒る気にもなれなかった。また小林さんがふざけてるんだと、呆れるだけだった。


「えいっ」


 上半身を縛り終えると、小林さんが私をソファーにゴロンと倒した。


「いいですか? 誰彼構わず優しくされただけでその気になるチョロい沙緒里さんに、私のマーキングをします」


 そして、私を見下ろしながら宣言した。いつかのように、目が笑っていなかった。


「いや……別に、チョロくないだろ?」

「あのクソババアと、なんか良い感じじゃないですか!」

「そんなわけあるか!」


 夏目さんとは最低限の仕事上の会話しかしてないのに、やっぱり妬いてたんじゃないか。今まで溜め込んでいたものが、拘束したうえで爆発した感じだった。

 小林さんはソファーから立ち上がると、アミの部屋へと向かった。

 マーキングと言ってたが……まさか、身体のどこかにピアス穴を開けるつもりか!? そのために、身体の自由を奪ったのか!?

 私は嫌な予感がして暴れるも、ロープが解けなかった。あれ? 意外とヤバかったりする?


 焦っている私の元に、小林さんが戻ってきた。手には、いくつかの小瓶とキッチンペーパーを持っていた。アルコールあたりで消毒から始める気か!?

 小林さんはソファーに座ると、私の足を持ち上げた。これで私は、文字通り頭から爪先まで、ソファーで横になったことになる。


「今から沙緒里さんに……ペディキュアを塗ります」

「は?」


 予想もしなかった言葉が出てきて、私はポカンとなった。

 ペディキュア? 私には馴染みの無い言葉だが、聞いたことがないわけじゃない。

 ああ、マニキュアの足バージョンか――足を持ち上げられてるから、思い出した。


「うん……。まあ、いいんじゃないか?」


 私は生まれてこの方、一度もマニキュアを塗ったことが無い。塗りたいと思ったことも無い。ちなみに、手足の爪は週に一度ぐらいの頻度で切っているので、清潔感のキープを心掛けている。

 何か異物を付けてゴテゴテしたネイルは、実生活でも仕事でも邪魔になりそうだから嫌だ。でも、マニキュアには――単に興味が無かったから、是非を考えたことが無かった。

 そうだな……。周囲としても私には、たぶん塗ってないイメージが出来上がっているだろう。死守したいわけじゃないが、もし塗って驚かれたら面倒だ。

 そういう意味で、小林さんが手の方に塗ろうとしたなら、拒んでいたと思う。でも、足なら……まあいいか。

 というか、ピアスじゃなかった。思ってたよりも全然普通で、拍子抜けした。


「え……いいんですか?」


 手の込んだ真似でハメた張本人が驚いて、どうする。私が全力で拒むことを、想定していたんだろうな。


「沙緒里さんには、真っ赤なものが似合うと思ってましたけど……黒ですよ? こんなにヤバい色を塗られるんですよ?」


 小林さんはいくつかある小瓶の内、ひとつを見せた。確かに、真っ黒な液体が入っていた。趣味が悪い色というか、どういうセンスでそんなのを選んだ?

 他人の黒いネイルを、これまでに見たことはあるが、やっぱり印象はよろしくない。どっちかというと、私は塗りたくない。


「足なら周りから見えないから、いいよ」


 でも、そういう理由で頷いた。この程度で小林さんの気が晴れるなら、安いものだ。

 夏場でも、私はサンダルを履いて会社に行くことは無かったが――これから寒くもなるんだから、他人に素足を見せる機会はゼロと言ってもいいだろう。


「あっ、そうですか……」


 小林さんは、どこか腑に落ちない感じだった。

 嫌がって欲しいのかよ!?

 まったく、面倒だなぁ。そんな演技をするつもりはない。


「わざわざ足を選んだあたり……私のこと、気遣ってくれてるんだろ? ありがとうな」

「いや、それは……澄ました顔で実はノーパンでした、みたいな……背徳的というか……」

「すまない。何を言ってるのか、全然わからない」

「もうっ、知りませんよ!? 本当に塗りますからね!?」


 もう一体、何がしたいんだ……。日和って逆ギレするぐらいなら、最初からこんな企てを立てないで欲しいと言いたい。

 私を気遣う意図が無いにしろ、結果的にはまあ許そう。だから――


「別に暴れたりしないから、これ外してくれ」


 とりあえず、ロープを解いて欲しい。私に騙すつもりが無いことを、わかってくれだろ?


「もうちょっと我慢してください。……この方が、なんか燃えるので。束縛って、いいですねぇ」


 だが、小林さんはグフグフと怪しい笑みを浮かべた。

 なんか危ない方法へ行こうとしているが、私は聞かなかったことにしておこう……。


 小林さんは私の足を膝に載せると、まずは透明な液体を馴染ませるように塗った。下準備だろうか?

 私の足指の間に、キッチンペーパーを折ったものを挟んだ。そして、黒い液体を慎重に塗っていった。ちょっと塗っては数分乾かすという、気の遠くなる作業だった。

 軽々しく承諾したが、このように他者から塗られると、なんだか変な感じだった。ロープで拘束されて身動きが取れない状態だから、恥ずかしさに似たようなものがある。サワサワと触れられているから、余計に。

 というか、縛られてペディキュア塗られてるって、どんな状況だ……。ソファーでアミが、物珍しそうに眺めていた。

 やがて、時間をかけて十本の指の爪が黒くなると、最後に透明な液体を塗られた。最初に塗ったものと同じなのか分からないが、心なしかツヤが出たような気がする。


「はい。完成しました」


 結局、一時間ぐらいだろうか……ようやく終わって、私はロープから開放された。よくこれだけ耐えたな、私。

 シンプルに黒一色だから、パッと見は気にならないが、よく見るとムラが多い。お世辞にも、上手いとは言えない。生地である私の爪に問題は無いはずなのに。


「なんていうか……小林さんらしいな」


 色といい、出来栄えといい――足の爪を見る機会はこれからもあまり無いが、見る度に小林さんを彷彿とさせるだろう。

 カタチを残すだのマーキングだの、当初の目的は充分に達成されたと思う。


「そうですよ! これで誰の元にも行けなくなりましたね! 沙緒里さんは、わたしの所有物モノです!」


 実際、小林さんの気は晴れたらしい。だが、そんなことでイキられても……と思う。


「別にキミの名前が入ってるわけじゃないから、もし誰かに見られても、キミの仕業とはわかって貰えないな」

「うっ」

「けど、まあ……私ひとりがわかるだけでも、充分じゃないか」


 私は自分の足指を眺め、微笑んだ。

 ひどいものだが、こんな私のためにわざわざ塗ってくれたことが、多少なりとも嬉しかった。この事実を、周りに知って欲しくないとさえ思う。私ひとりだけで、噛み締めていたい。


「とにかく……沙緒里さんは、わたしだけのモノです! 他の人からどんだけ優しくされても無視ですよ、無視!」


 必死に訴えかけてくる小林さんを、私はそっと抱きしめた。


「わかったよ。キミが手放さない限り、私はキミのものだ……」


 この子に対して私なんかが釣り合わないと思う気持ちは、今でもある。それでも、私には勿体ないぐらいの愛情を与えてくれることには、素直に甘えたかった。

 たぶん……こんな私にウザいぐらい絡んでくれるのは、世界でこの女性ひとひとりだけだと思うから。


「ところで……。そんなに所有権を主張したいなら、ちょっとした提案があるんだが」

「へ?」


 ソファーで、小林さんと改めて向き合った。

 小林さんの手には、ラメ配合のピンクのマニキュアが塗られていた。だが、私の記憶が確かならば――

 私はソファーに座る小林さんから、無理やりスリッパを脱がせた。思ってた通り、黒のストッキング越しに見える足には、何も塗られていない。


「私とお揃いにすれば、いざという時は説得力があるよな?」

「いや……わたしは……」


 小林さんは引き気味に下がり、逃げようとしていた。

 私はそれを防ぐため――自分が縛られていたロープを持ち、笑顔でじわじわと迫った。


「安心しろ。たぶん、キミよりは上手く塗れると思う」

「ひいっ。ちょっと! やめてくださいよ! もっと可愛いやつにしましょうよ!」

「こら、暴れるな」


 私はさっきまでの恨みを晴らすべく、とりあえず小林さんを縛り上げた。

 実際、身動きが取れない状態の人間にちょっかいを出すと、確かに燃えるというか……ソクゾクと、背徳感のようなものが込み上げてきた。小林さんの言うことが、ちょっとだけ理解できたような気がする。

 小林さんは犯された後みたいに傷心気味だったが、お互いの足が黒くなると、私は満足した。

 これでお揃いだ。何か、ふたりの繋がりのようなものを感じた。

 他人から見えない身体の箇所で、こんなバカげたことをしているのは……たぶん、私達ぐらいだろう。



(第06章『私の身体に穴を開けるな』 完)


次回 第07章『何が恥ずかしいのかわたしには理解できない』

美香は沙緒里と一泊の出張に行く。

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