声を出せなくなった幼馴染を幸せにするまでの話

皐月陽龍 「氷姫」電撃文庫 5月発売!

幸せまでの道のり

「ふーんだ。そんな事言っちゃうんだ」

「いや、前から言ってるだろ……」


 ベッドで寝転がりながら漫画を読む美少女。金糸のように綺麗な金髪を持ち、気の強そうな……しかし、美少女である彼女は俺の幼馴染。羽黒弥子はぐろみこである。


 彼女とは中学の頃まではよく遊んでいた。変わったのは高校生になってからだ。


 黒髪を金色に染め。言葉遣いも荒くなる。……まあ、あれだ。ギャル化だ。


 それから。高校は同じだが、絡む事も少なくなり。自然とその縁も途切れる……と思っていたのだが。


 こいつ、居座るのだ。俺の家に。


「あんまり男の家に上がり込むもんじゃない。いつ襲われても知らんぞ」

「……そんな勇気ない癖に」

「慎重派だと言ってくれ」

「もー! 分かったわよ! 帰れば良いんでしょ、帰れば」

「ああ。さっさと帰れ帰れ」


 しっしっと追いやる素振りを見せると。憤慨したように弥子は立ち去ったのだった。




 ……結果的に。俺は、この時の選択を一生後悔する事となった。


 ◆◆◆


「……あれ、あいつイヤホン忘れていってるな」


 数十分程して。俺はその事実に気づいた。


「はぁ。明日届けるか?」


 一応スマホで確認してみるか。既読だけは早いし。


『イヤホン忘れてるぞ。明日取るか? 届けに行くか?』


 そう送り、既読が付くのを待つ。



 ……しかし、付かない。


 一分経っても、三分経っても。


 普通の人ならばこれが普通なんだろうが。弥子の場合は別だ。


 なんとなく、嫌な予感がした。


「……届けに行くか」


 俺はイヤホンをポケットに入れ。外へ出た。


 ◆◆◆


「弥子? え? そっちに居るんじゃないの?」

「……いえ。十五分ほど前に帰ったはずですが」

「おかしいわね……まだ帰ってきてないわよ」


 弥子の母親の言葉に。モヤがかった黒い霧が胸中を渦巻き始めた。


「すみません、俺、探してきます」


 そう断って。俺は駆け出した。


 ◆◆◆


「くそっ、どこに居るんだよ」


 公園やスーパー。辺りの心当たりがある場所は回った。しかし、どこにも弥子は居ない。


 焦りからか思わず悪態をついてしまい。一度、呼吸を整えるために深呼吸をした。


「……後はどこだ? そんな遠くには……分からないな」


 十五分ほどあればバスやタクシーで遠くまで行けるだろう。


 その辺りをうろつき。ふと、路地の方へ足を向けてみる。


「ここ。まだ来てなかったよな」


 昔から。この辺りはおかしい人が多いから近寄らないように、と言われていた。


 俺は少し考え……そこに足を踏み入れた。



 異変に。すぐ気づいた。


 ヘドロのように重い空気に。全身に鳥肌が立つ。これ以上は進むなと。感覚が告げている。


 しかし、止まれない。……もしかしたら、ここに弥子は居るかもしれない。









 俺の想像は。最悪の形で現実へ現れる事となった。


 人を殴る鈍い音。女性の啜り泣くような声。


「抵抗、すんじゃねえ! さっきから! 大人しくしてろって言ってるだろ!」


 そして、男の怒声。俺は気づけば走り出していた。


「弥子!」


 路地の裏に隠れるような場所に。弥子は居た。



 服を乱暴に引きちぎられ。肌の至る所に痣を付けられ、顔も腫れ上がり。



 男に組み伏せられている状態だった。


「……ッ! お前ぇ!」


 頭に血が上り。俺はその男を引き剥がし、尚弥子を掴もうとする手を蹴った。


「弥子、逃げるぞ!」


 いきなりの事でその男は固まっていた。俺はガタガタと震える弥子を抱えて。そこから逃げる。


 幸い、路地裏から通りまでは遠くない。向こうも追いかけてくる事はなかった。


 路地から出る手前で。俺は警察と救急車を呼んでいない事に気づいた。


「……少し待ってくれよ、弥子」


 俺は上着を脱いで、弥子にかける。弥子はまだガタガタと震えていて、目も焦点が合っていない。


「大丈夫。もう大丈夫だからな」


 そして。俺は救急車と警察を呼んだのだった。


 ◆◆◆


 警察の事情聴取は長かった。当然それも覚悟していたのだが、思わずうんざりしてしまう程には長かった。


 弥子の様子が気になって何度聞いても教えてくれず。俺は犯人だと疑われる。


 そして、俺が開放されたのは……夜遅くであった。


 俺は真っ先に弥子の母親へと電話をかけた。どうやら病院に居るらしく……。



 俺は。衝撃的な内容を聞かされた。


 ◆◆◆


「弥子、居るか? お見舞いのお菓子。持ってきたぞ」

 こんこんとノックをして。俺は病室へ入った。



 病室からは返事は返ってこない。しかし、それは事前に聞かされていた事。


 中に入ると……ベッドに。弥子は座っていた。体を起こし。……ぼうっとしている。


 その目が俺を見た。



 顔の腫れは良くなっている。しかし、貼られているガーゼが痛々しい。その目は赤く……さっきまで泣いていたのだろう。


「ほら、お土産。近くで京都フェアがやっててな。お前の好きな八ツ橋買ってきたぞ」


 机の上にその箱を置くと。弥子の手が俺の服を掴んだ。



 弥子は、俺をじっと見て。口を開いた。



「ぁ…………ぅ」


 口はしっかりと開いている。しかし、その声はほとんど出ておらず……空気の掠れたような音が漏れるのみだ。


「……ぁ」


 そして。その瞳が潤み始め。大粒の涙が零れ始めた。






 弥子は。言葉を喋れなくなってしまった。あの男に喉を殴られた、とかではなく。強いショックを受けたからだろうと医者は言っていたらしい。


「大丈夫、分かってるぞ。お礼を言ってくれているのは」


 服をぎゅっと掴んでくる弥子に……恐る恐る触れ。怯えないのを確認して、抱きしめた。


「いつか、ちゃんと声は出せるようになるから。大丈夫だ。大丈夫だからな」


 弥子が落ち着くまで。そうして、抱きしめるのだった。


 ◆◆◆


「どうだ? 美味いか?」


 八ツ橋をその小さな口へ近づけると。弥子はちょぼちょぼと齧る。


 俺の言葉にこくりと頷き、またちょぼちょぼと齧り始めた。



 痣はあったものの、骨折などはしていなかったらしい。怪我も全て治るもので…………強姦未遂で終わったらしい。現在は警察が調査をしている。


 結局、弥子の心には大きな傷が残ってしまった。これは……俺が反省すべき事だ。


 あの時、弥子を邪険に扱わなければ。家まで送っていれば。


 後の祭りだと分かっているが。考えずにはいられない。


「ほら、弥子。水もちゃんと飲んでくれよ」


 水の入ったペットボトルを弥子に飲ませ。……八ツ橋を食べさせ終える。


「よし、それじゃあ俺は――」


 いつまでも居ても邪魔だろうし。



 その言葉を俺は飲み込んだ。



 弥子の目が……とても、不安そうに見えたから。



 親が居なくなった時の子供のように。寂しげだったから。






「――いや。もう少し居ておくか」


 俺がそう言うと、弥子はこくこくと頷いた。俺はそのままベッドの縁へと腰掛けた。そんな俺に……弥子はぽすんと寄りかかった。







 あ、だめだ。泣きそうになってきた。



「……ごめんな、弥子」


 自然と。その言葉は漏れ出た。



「俺が、あの時……あんな事を言わなければ。しなければ。……ごめん」


 自己満足のための謝罪。それを分かっていながら言葉を発してしまい……罪悪感に襲われる。



 弥子はそんな俺の服をぎゅっと握り。そっと、腕を回してくれたのだった。


 ◆◆◆


 弥子は今日、退院した。……まだ言葉は発せられないが、怪我はほとんど治っている。


 無事、犯人は捕まった。どうやら近くにいる無職の男で……無差別だったらしい。どうしても、童貞を捨てたかったとか。生活費もなくなり、捕まれば生活も補償されるから一石二鳥だとかの考えで……とにかくクズだ。

 俺に殴られたからこいつも捕まえろと主張したらしいが、証拠不十分とかでそちらは問題なかった。



 そして、当然と言うべきか……弥子は心を病んでおり、高校にも行けずにいた。


 これには大きな理由があった。





 弥子は小学生の頃。虐められていたのだ。気づいた両親や俺でどうにか止めたが……それから内気な子になり。中学は大人しい子として過ごしたが、高校生になって変わった。



 虐められないように。髪を染め、性格を無理やり変えて。それは無事成功した。


 ……俺はあまり人と関わるのが得意でなかったので、そんな弥子との繋がりも失いかけたが。弥子は学校以外では普通に接してくれた。


 だから、弥子は怖がっているのだ。……喋れなくなった自分はまた虐められるんじゃないかと。



 俺はしばらくの間、学校を休んで弥子と共に過ごした。ゲームをしたり、動画を見たり。


 しかし、ある日弥子に言われて……というか、筆談やスマホのチャットで会話をしているのだが。


 弥子は学校に行って欲しいと伝えてきたのだ。



 という事で。俺は久しぶりに学校に行ってきた。先生が上手いこと話してくれていたらしく、休んでいた理由を深く追求してくる人は居なかった。



 そして、追いつけない授業に頭を悩ませながら。学校は終わった。


 俺は真っ先に弥子の家へと向かった。


「すみません、またお邪魔します」

「あら、もちろん良いわよ。今部屋に居るはずだから。後でお菓子持っていくわね」


 弥子の母親へ挨拶をし、早速弥子の部屋へと向かった。


 こん、こんとノックをする。もし入って欲しくない状況なら。足踏みなどで合図をして欲しいと伝えていた。



 何もなかったので俺は扉を開く。



















 ぷらんと。ぶら下がっている足が見えた。












 弥子は、浮いていた。違う。



















 弥子は首を吊っていた。








「――ッ!」



 俺は走った。そして、弥子の体を持ち上げた。


 自分でもよくこの判断が出来たと褒めてやりたい。



 俺が弥子の体を掴んだ瞬間。弥子はじたばたと暴れた。



 良かった、大丈夫。まだ生きている。



「おばさん!!! 来てください!!! 早く!!!」


 俺は今までに出した事のない大声で叫び。弥子の母を呼んだ。


 弥子の母はこの光景を見て失神しそうになりながらも。協力して、どうにか弥子を下ろした。



「ばか……バカ! どうして、いきなり」


 既に救急車は呼んでいる。弥子の母は救急車が来た時のために外へ出ていた。


 俺は。気がつけば、涙が溢れ出していた。



「し、死ぬ……かと。思ったぞ。もう、会えないのかと……」


 緊張の糸が解けた、のだろうか。俺は体が、指が震え始める。


「……ぅ、あ。生きてて……良かった、本当に」


 滲む視界を腕で擦る。……すると、弥子は……震える手で、文字を書き始めた。



『私が。負担になってるって思った。死ねば、解放されるから。私を、もう気にしないで。自由に生きれるんじゃないかって』




 人は。マイナスな思考へ陥ると、どんどんそちらへ向かっていくと聞いた事がある。


 弥子も……恐らく。それだったのだろう。


『でも、死ぬってなって。怖くなった。準備に時間がかかりすぎた』

「……良かった、間に、合って。本当に」


 俺は弥子を抱きしめた。……力強く。もう、離さないと。伝わるように。



「もう、死ぬなんて考えないでくれ……頼む」



 扉を開けた時の事を考えるだけで。体が。手が震える。


 違う。こういう時こそ。自分の気持ちを。伝えないと。



 俺は、一度弥子を離した。



 そして。その頬に手で触れ。視線を交わす。



「好きだ。弥子」


 しっかりと。目を合わせて、俺はそう言う。弥子は目を丸くし……その目の端からぽたぽたと雫を垂らした。


「言っておくが。俺はめちゃくちゃに重い。そこらのメンヘラ女より重い。……お前が死んだら俺も死ぬ。絶対に」


 そこでやっと……自分が何をしたのか分かったのか。顔をぐしゃぐしゃにしながら。弥子は泣いた。


「……だから。もうあんな事はしないでくれよ。本当に。心臓が止まるかと思ったんだからな」


 こくこくと頷く弥子に。俺もホッとして。



 そして、救急車が来るまでの間、抱きしめあっていたのだった。


 ◆◆◆


 あれから数ヶ月が経った。弥子はまだ喋れない。しかし、学校には行けるようになった。



 誰かと喋る事は出来ないが、俺とずっと一緒にいる。周りも別に冷やかしたりはしなかった。


 そして、今日。俺は弥子の家に呼ばれている。


 実は今日、俺は誕生日なのだ。そのパーティーをしたいと。


 もちろん俺の母さん達も呼んで、豪勢な食事を食べた。


「美味しいな、弥子」


 俺がそう言うと、弥子はニコリと笑ってこくこくと頷く。またもぐもぐと食べ始める弥子を見て。俺も笑顔になった。


 あれから、弥子は安定している。時間はかかるだろうが……きっと、喋る事も出来るようになるはずだ。


「それじゃあ最後はケーキね。弥子、お願いして良い?」


 弥子の母の言葉に弥子は頷き。冷蔵庫へ向かった。


 そして、俺は目隠しをされた。何故だろうと思いながら。数十秒ほど待つ。


 カタンコトンと皿などが用意される音がして。そして。目隠しが取り外された。



 そして、俺は瞼をひら――








「とー、か。お、おめ、でとう」







「……え?」


 俺は。思わず口をぽかんと開けてしまった。







 とーか。灯火とうか。それは、俺の名前だ。いや、そんな事はどうでもいい。



「み、弥子、お前……」

「ふふ。弥子、頑張ったのよね。絶対に灯火君を驚かせるんだって。いっぱい練習して」

「そう……だったのか」


 俺の言葉に、弥子はこくこくと頷いた。


 見ると、ケーキの方もプレートに『灯火、お誕生日おめでとう』と書かれている。


「ま、だ……とー、か」


 弥子が俺を呼んだ。そして――



「とー、か。す、き」





 そう言って……唇を重ねてきた。いきなりの事に。時間が止まったような。そんな錯覚に襲われる。


 そして。……数秒の後に。弥子は離れた。


「へ、んじ……いえなかった、から」

「……弥子。俺も、改めて言わせてくれ。好きだ」


 今度はこちらから唇を重ねる。弥子は受け入れ……笑った。


「……あり、がとう。とーか」

「俺こそ。ありがとう、生きててくれて」



 そうして笑い合う。……ああ、良かった。本当に。



 もう、弥子は大丈夫。これから先は良い方向へ進むだろう。



 十分絶望は知り尽くした。後は幸せになるだけ。幸せにするだけ。



 絶対に。幸せにしようと心に決めたのだった。


 ◆◆◆


「パパ、ママ。行ってくるね」

「ああ、気をつけて行ってくるんだぞ」


 ぶんぶんと手を振る娘を見送り。俺も鞄を持って、玄関へと向かった。


「よし、それじゃあ俺も行ってこようかな」

「はい、行ってらっしゃい。……灯火」



 そんな俺の唇へ。弥子は唇を重ねてくれた。そして、柔らかく微笑んだ。これは朝、仕事に行く前の日課になっている。




 そんな……日常に。俺は頬を弛めた。


「弥子。俺、凄い幸せだ」

「奇遇だね。私も同じ事、考えてたよ」

「そうか。……なあ、弥子」

「なあに?」

「大好きだよ」


 改めて。俺は弥子へと唇を重ねた。弥子はクスリと笑う。



「私も。大好きだよ、灯火」


 その笑みは……とても、幸せそうに見えた。 のだった。

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