第10話 【追憶】


 いつものように朝方早く目が覚めると、私は応接間に行き、朝焼けのし出した窓辺に寄りついて、それをじっと眺め出す。


 いつの間にか時も忘れて、そんな真っ赤な太陽が山並の上から、まるでそれは人間の魂を見ているかのように、あるいは母胎の裡の小さな生命の生きようという意志のように昇ってゆくのを見入っていると、私ははからずも私自身の裡に、生命であることへの誇りみたいなものに目覚めてゆくのを感ずる。


 と同時に、何ともいわれのないような生の喜びが全身を一ぱいに満たしてゆく。が、そんな火の太陽が雲の内に入ってしまうと、私は思い出したように窓を離れて、そばにあるソファーに腰を下ろした。


 窓越しに見える巨きな雲の塊は、湖上の上でその縁を金色に輝かせながら、空を泳ぐ一匹のナマズみたいに、ゆらとうらしていた。私は何か考え事をし出しでもしたかのように、頬杖(ほおずえ)をついたまま、唯(ただ)、朝の光の交響楽とも交響詩ともつかないものに、身を任せきっていた。


例えば私の胸の奥深くに描かれ続けている様々な過去の風景は、こういう朝にはとめどなく溢れてくる夢の奔流のように、何か知らないもやもやしたところから、活発に蘇ってくる。



 ――ある町中で見た山羊の親子の姿……親子は互いに頭を突き合わせながら、両足を踏ん張りつつ、角で突き合いっこをしている。見れば子山羊の方が親山羊に積極的に頭を下げ、角を立て、向かって行っている。親山羊はそれを受け止めながら、時々自分がお手本を見せるかのように、子山羊をたじろがすくらいの素早い突きに出る。子山羊は一時は後退するが、すぐに体制を立て直し、いま見たものをそっくり真似ながら、その小さなデッサンを演じてみせる。……こうして親山羊は子山羊に身の守り方を教えているのだ。


 そんな山羊の親子の姿が、私の裡に、まざまざと蘇り出した。そうしてその影像は、いつまでも私から立ち去らずにいた。私は私自身の少年期の匂いを微かに嗅いだ。……



 湧き立つ雲の波を越えて、陽はまぶしいほど輝きを増し、(それは一切の闇をゆるさない、朝の扉の開かれた光――)徐々にこの村一帯の緑に黄金を混ぜ入れて、薄緑金の世界に染め出していた。そんな風景をにわかに見つめていた私は、急に私の裡ががらんと変化したのを感じた。


 ちょうど二年前の夏頃、私が旅したある高原地方の、そこは過酷なまでに自然の厳しい、高い山脈に囲まれた、――私が愛し続けた、そして今でも愛し続けているあの土地のことを私はひょっくり思い浮かべて、追い追い追想し出していた。……



 果てしないまでに続いてゆく一条の河、それを取り囲む迫りくるような雄々しい山脈、木に留まった瑠璃鳥、ところどころに花園のように咲き乱れる高山植物、――それらが一瞬間に私の胸にせまり、私を打った。


 私は果てしなくうねりくねりを繰り返す、岸辺が、遥かかなたまで展(ひら)けた河岸に沿って、巡礼者の一行と旅をしたことを思い出す。私たちは何度も高原の草地の上で共に寒さをしのぎながら野宿をした。身に負う食料が尽きてくると、私たちは近くの村に物乞い同然に食べ物を乞いに一軒一軒めぐり歩いた。


 星空を見上げながら、やっと手に入れたそれでおごそかな聖餐(せいさん)となる。食事は毎日のようにじゃがいもを茹でて食べて、河の水に茶の葉をくべて飲んだ。

時には野夜の褥(しとね)で満月と雷光を同時に味わったりした。


 雨の日には簡単な草葺(くさぶ)きの屋根をこしらえて、そこで宿をとった。

 歩きながら、口を衝いて出るままに高らかに歌を歌ったりした。

 岩と岩のくぼみに身を寄せて、岩に抱かれるようにして眠ってしまったこともあった。そんな思い出に導かれるままに、私はある事を考え出していた。……



 あの時の旅の折に、私は不意と拡げた地図中に、〈幸福〉という名の村がごく小さく記載されているのを目にとめた。どんな村だろうと、私はさも心にときめかせたが、結局私はその幸福村を意に反して、訪ねることも探すこともせずにしまった。


 何故かというと、それはそんな幸福村のイメージをそのまま大切にいつまでも持ち続けていたかったから。現実の幸福村が、もしもそんな幸福のイメージから余りにもかけ離れている村であったならば……そう考えると私はやはり、そういった幸福という名の村があるということを知り得ただけで十分だという気がする。――それが本当のところだろう。

 

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