第9話 【心の中に残り続ける風景】

 

その日は青空の飛び抜けて気持ちの好い日だった。

 私は友人に宛てた手紙を郵便受けに差し出すために、宿屋を抜け出し、小家の込み入った村の中心部へと出かけた。


 ゆるやかに続く松並木の道を抜けて、小さな市場を横手に眺めながら少し歩いてゆくと、やがて花々の好い匂いのする真新しいレンガ造りの病院が見えてくる。私はそこを目をつぶりながら歩いた。ただ、その好香のみを味わうことによって、もっともっと鮮明に瞼(まぶた)の裡に浮かんでくるその花々たちを、私は生き生きと感じ出しながら……


 しばらくゆくと四ツ辻に出た。その真ん中には、円形の、二重三重に中心へゆくごとに高くなる仕組みの、レンガ造りの花壇が設(しつら)えてあって、中には少数の黄色い一輪草がこじんまりと咲いていた。


 私はその花壇を通り過ぎざまにふいと立ち止まり、何か気になるという風に見た。ここいらの四ッ辻や三叉路(さんさろ)には、きまってこれと同じような花壇が設えてあって、それがこんな赤茶けた、素朴を取ったら何も残らないというような、村の道々にあるニュアンスを与え続けている。


 私はいつもこれらの花壇のすぐ側(そば)を通り過ぎる時、その中に咲いている小花が絶えず少数なのを見やりながら、少し寂しい気がした。が、同時にその花壇を取り巻いている雰囲気が、何だかクラッシックのような静と美で充たされていることに気づくのだった。


 「寂しかれ……美しかれ……」


 終いにはチャイコフスキーの第六交響曲〈悲愴〉のある部分が与える感動に似たもので、心を一ぱいした自分自身を見つけるのだった。

 私はどこからともなく流れてくる泡沫(うたかた)の音楽のように、〈悲愴〉の雰囲気を心に味わった。そうしてそんな心の状態のまま、この村道をぶらつくことが私には快かった。


 「ここいらの花壇をしつらえたのは、いったい誰だろう?」


 そう私は独り言ちた。

  


 そこここに黄味色をした小さな野花を散りばめて、道はゆったりした弓なりに伸びてゆく。両側には幹の浅白い、背の高い木々が森を成している。


 海蒼が瑞々しい。眼前に見える湧きたつ雲の峰が風を受けて、高天へゆっくりと押し上がってゆく。私は途々(みちみち)、一寸強すぎる位の陽射しを避けるために木陰を求めた。

 そうしてその涼しい木陰の下で、時折吹く風で身を冷ましながら、絶えずしている小鳥たちの地鳴きに耳を傾けた。小鳥たちは楽譜の上を飛び跳ねる音符なぞのように、木々の茂みの中をいかにも気持ちよさそうに飛び回った。


 目の前の林の中に、明るい斜光が落ちそそいでいる。木々の根元の緑苔や、木々の合間に密生した羊歯なぞがその光を受けて、恍惚(こうこつ)と輝いている。私はしばらくその光景に目を奪われた。


 心の中でいつまでも消え去らずに残り続けるような風景とは、いま目にしているようなこんな風景のことなのではないだろうか?


 私はその光景を惜しみながらも、数分後にはそこから立ち去った。太陽はすでに真上にかかり、静かな午後の光線を落としていた。……



 用事を済ませて宿屋へ帰る途中、私は市場に寄って買い物をした。

 草ぶきの小さな露店が三つ四つ立ち並んだだけの極(ご)く小さな市場では、川で捕った小魚を日干しにしたもの、バナナやトマト、それから長ひょろいサトウキビぐらいしか見受けなかった。


 小魚の日干しは山と盛られて台の上に置かれていたために、一番目立っていた。そうして、どこからともなく川の匂いを漂わせている。トマトはその横で、キチンとピラミッド風に何段にも積まれて、美味しそうにその赤みを立体的に見せていた。売人の小母さんの気分によってはこのトマトの並び方が微妙に変わっているのに、私はここを通りがかる度に気がついた。


 その横の露店では、大きな籠の中で小ぶりなバナナが、その籠を半ば黄色で埋めていた。私はそれを数本求めた。

 数歩離れた木の下で売っているのはサトウキビらしい。髭をはやした痩せぎすな中年の売人は、もう待ちきれないといった風に、結わえてあるサトウキビの束をほどくと、その一本に歯をあてがい裂いては、内部の食実を口に含みだしている。


 私はこの光景に、いつも見慣れた道具立てながら、なくては寂しい、小劇場のような親しみを感じ出し、自分までもいつの間にかこの劇場の登場人物になりきってしまっていることに気がついた。


 私はこういう素朴そのものをこれからも愛してゆくだろう……

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