第5話 【言葉を発する自然という自然】


 それから数時間後、私は私の部屋へ起こしに来てくれたこの宿屋のスタッフに促されながら、すこし遅い朝食についた。紅茶と砂糖とそれから数個のパンケーキと、それらがいかにも好い匂いを発散させながら、テーブルの上に、いくぶん寂しそうに置かれてあった。私は黙ったまま、その日も一人きりの食事をすませた。


 ここ六日間ほど、宿屋の宿泊客は私だけだった。それだけに私は静かな日々を、誰からも邪魔されることなく、その魅力を思う存分に愉しみながら、孤独と差し向かいで居た。私はその日々、殆(ほとん)ど毎日を散歩するだけで過ごしていた。林の中を、畑の側道を、それから赤茶けたこの村の様々な村道を、又、そこから支脈のようにあちこちに伸びていく山道までも私は足を踏み入れて行った。そんな折には、いつものように数人の村人たちと出会う。


 「意外なところでお会いしましたね……」


 「またどこかで……」


 そんな風に言い合うのが私たちの常の習慣になっていた。

 こういった外界から隔離されたような山麓深くにあるこの村においては、ここだけ不思議な、夢のような時間の流れを感じることができる。まだ私が一度も味わったことのないような生の愉悦を、それは限りなく幸福に近いような、言わば幸福と隣り合わせの日々、――そんな静かな愉しみに充ちた、しかし何か私にもわけの分からないような得がたいものを、私は身に感じて味わっている。――そんな日々にあっては、自然の一つ一つが風景の一つ一つが私に語りかけてくる。


 「ごらん! 世界はとめどなく美しい」


 そう朝焼けは、その全身を絶えず美しく変化させながら、告げるのだった。

 この村から少し降(くだ)ったところに在る、そそり立つ断崖の上から、私がその眼下の谷間を見ろしている時なぞは、その谷を埋め尽くしている、まだ一度も人間に手をつけられたことのない原始の森を縫って奔放に往き来する谷風が、あたかも少年の微笑を浮かべて、


 「私はみどりの母胎原から生まれた……私はみどりの母胎へ戻ってゆくために生まれた……」


 と言って、突然激しく、谷底から私めがけて吹き上げてくる。

 果てしのないような青藍色の空にその梢の緑を浮かばせながら、村道の側(そば)や、山腹の広い傾斜地に悠々と直立してい大きな樹は、


 「おおい! おれは、たった今、世界から独立したぞおう!」


 と、まるで全世界に向けて、宣言しているかのようであった。

 そういう一つ一つの言葉を発する自然という自然が、私の知らぬ間に私の上に、或る影響を与え出しているらしかった。それまで私を縛りつけていた、何か無理して求めてでもいるような或る生の欲求は、今の私にはもうどうでもいいものに変わり出していた。そうして本当に、何もせずとも、たんなる日常生活の根本的なものだけで満足できるのだった。


 散歩の折に取り交わす様々な村人との会話、その毎日の当てのない散歩、食事、睡眠、孤独、それから美しい朝焼けと、満天の星空、――今の私にはこれが全部(すべて)である。それらが本当に、日ごと同じように平静に繰り返され、過ぎてゆく。そんな日々がいかにも私には快かった。そうしてそんな静かな愉しみに充ちた日々の中に、昨日も今日もないように、私は暮らし始めていた。……



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