05 黒猫様

 ダンスレッスンから数日後のお昼休み、ランチの後の短い時間ではあるがソフィアは校舎西側の散策林の一角にあるベンチで読書をすることにした。読みかけの本の続きがどうしても気になったのだ。

 その場所は、ほかの生徒にあまり知られておらず、一人でのんびり過ごすのに最適な場所だ。

 今日も木漏れ日が気持ちいい。


 ここに来るのも久しぶりね。


 このところ、目前に迫った音楽祭の練習をお昼休みにしていたため、なかなか来られなかったのだ。今日はたまたま、練習室が満室だったため、空き時間ができたのだ。

 時間を稼ぎたくて少し急ぎ足で歩いていると、髪の毛が木の枝に引っかかってしまった。


 あっ、カチューシャが……。


 大事なカチューシャが外れてしまい一瞬慌てるが、どうせ周囲に人の目はない。お目当ての場所に着いてからつけ直すことにした。

 ベンチに座って、校内移動用のバッグから鏡をとりだそうとゴソゴソしていると、足元に何か動くものがいることに気がついた。


「にゃ~~~」


 下を覗くと、小さくて黒い猫がソフィアの足にすりすりしていた。


「まぁ、あなたは」


 思わず抱き上げて、黒猫を目の高さまで持ち上げる。


「あなたは、いつもレオナルド殿下の肩に乗っている黒猫様ですね? な、撫でてもよろしいでしょうか?」


「にゃ~~~~」


「か、かわいい」

 ご都合主義だがなんとなく「いいよ」と言っているように聞こえた気がした。


「で、では、遠慮なく」


 膝の上に置いていたカチューシャをバッグの中に放り込み、代わりに黒猫様を乗せて毛並みを堪能する。


「ず~っと触りたかったんですの。もふもふですわ」

 顔がニヤニヤしてしまうのは許容してほしい。

 黒猫様も気持ちよさそうにしているようなのでウィンウィンの関係と言っていいだろう。

 だが、ソフィアは、このうれしいを満喫していて、急いでやろうとしていた肝心なことをすっかり忘れてしまっていた。


「休憩中のところ、失礼?」


 突然、ほぼ真横から掛けられた声に、ソフィアはゆるゆるの笑顔のまま、振り向いてしまった。 

 声をかけてきた男性と目が合うと、男性の表情は固まった。

 そしてソフィアも固まった。



「……てん……」


「……てん?」

 ソフィアは首をかしげる。


「えっと、天気がいい日は外が気持ちいいねと言いたかったんだ」


 あ、“てんき”ですか。

 ……ん? えっと、なぜレオナルド殿下がここに!?


 よく考えれば、黒猫様がいるということは、レオナルド殿下もセットなのは当然なのだが、今のソフィアにそこまで考える余裕がない。


 ソフィアは、内心慌てたが、ポーカーフェイスで立ち上がった。黒猫様は胸元でしっかり抱っこしたままだ。


「ごきげんよう。レオナルド殿下」


 あぶない、あぶない。動揺を隠すことができていたのか微妙なところではあるが、貴族令嬢として受けてきた教育のおかげか、ギリギリセーフだったと思う。


「その猫が触れるんだね?」


 この言葉の意味は…… 黒猫様が殿下のペットと知っていて図々しく勝手に触るのは不敬だとおっしゃっているんだわ。


「この子はいつもレオナルド殿下が肩に乗せている大切な黒猫様ですよね? 私のようなものが触ってしまって申し訳ありません。お許しください」

 反省した顔で、黒猫様を差し出す。


「いや、そういう意味ではないのだが。この猫はいくらでも触ってくれていい」

「ありがとうございます。恐縮です」

「これも何かのだ。君の名前を教えてくれないか? そして俺のことは『レオ』と呼んでほしい」


「私の名前ですか? 私は……」

 同じクラスなのになぜ名前? と考えた瞬間、カチューシャをつけ忘れていたことを思い出す。


 い、いけない。私いま、素顔を見せてしまっている。どうしよう。名乗れないわ。


「私は、レオナルド殿下に名乗れるような身分のものではございません。ましてレオナルド殿下のことを愛称で呼ぶことなど恐れ多くてできませんわ。もうすぐ昼休みも終わりますのでこれで失礼いたします」


 そのまま何事もなかったかのように立ち去ってしまおう。


 だが、立ち去る気配を見せたとたんレオナルドに手首を取られてしまった。ダンスの時より強い電流が流れるようなゾクゾク感がソフィアの体を貫く。


「学園内では、生徒は平等で身分を気にせず交流できる。こちらの学園はそういう校風と聞いている。でも君はその所作や気品からして、名乗るのを躊躇するような低位貴族や平民ではないだろう。どうか名前を教えてくれないか?」

「申し訳ありません。今は事情があって名乗れないのです」

「名乗れない事情とは? 想像がつかないな」


 レオナルド殿下、手を放して下さらない。困ったわ。名乗るまで帰してもらえなそう。


 その時、ソフィアは閃いた。反応をみながら話しかける。

「では、簡単なゲームをしませんか?」


 少し驚いたような表情で、レオナルドは答える。

「ゲーム?」

「はい。いわゆる鬼ごっこです。レオナルド殿下は30数え終わるまでこの場にとどまってください。予鈴までに私を捕まえることができたら、その時は名前をお伝えします。いかがですか?」

「なるほど。わかった。だが、たったの30では女性の君に不利でないか?」

「ではゆっくり目の30でお願いします」


 レオナルドがうなずくと、ベンチに置いてあったバッグを持って、準備できましたと笑顔で答える。


「っ……わかった。では始めるぞ。1、2……」


 ソフィアは来た時より早く、小道を早歩きで……見る人が見れば全力疾走だったかもしれないが……その場を離れた。

 貴族令嬢としてははしたないが、ここで捕まるわけにはいかない。


 そろそろほかの学生に出くわしてしまいそうなエリアまで来ると、バッグからカチューシャを取り出し頭につけた。

 もう走らなくても大丈夫だろう。魔道具のおかげで先ほどの生徒がソフィアだとは認識できないはずだ。伊達にと呼ばれていないのだから。


 散策林から出たところで、近くにあったベンチに座り、本を読んでいる風を装う。

 鏡も見ないままカチューシャをつけたので多少髪型が乱れているかもしれないし、走ったことで少し息切れしていたが、印象が薄いのが売りなのだ。気づかれることはないだろう。


 数秒後、レオナルド殿下が慌てた様子で散策林から飛び出して来たところが視界の端で確認できた。

 キョロキョロしていて、おそらくこちらも見ていた気はするが、間もなく校舎の方に向かったようだ。

 ソフィアは、ほっとした気持ちと、なぜか少し残念なようなちょっと複雑な感情を抱いていた。


 しばらくして予鈴が鳴ると、ソフィアはそっと立ち上がり、教室に向かうのだった。

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