第1話 バーナー島の朝

 春のある晴れた日。

ローレシア大陸の東南端から肉眼で見える位置にある小さな島、バーナー島。


「ほら、おいでよ」

そう言って家から持ってきたニンジンを一匹の野兎にあげようとするのは、十五歳になったばかりのマルヴィナ・メイヤー。朝食前に自分の部屋から抜け出して、村の裏山の藪に囲まれた秘密の場所に来ていた。

野兎たちは地面に穴を掘って住んでいるようで、たいていここに来れば少なくとも一匹は見つかる。

「ほら、もっと近くにおいで」

最近はだいぶ慣れてきたのか、足元近くまで近寄ってくるのだが、まだ体に触れることは出来なさそうだ。

「兎、飼いたいなあ」

一年前、この島にある王城へ行った時パレードの行進を見に行った。その時、神輿にのった貴族の子どもが膝のうえにこれまた上品そうな兎を抱いているのを見たのだ。

「でもなあ……」

とため息をつく。

この裏山に住む野兎は遠目には可愛く見えるのだが、実際近づいてみると目が横へ飛び出たような間の抜けた顔。しかもそもそもあまり人間に慣れそうもない。飼えたところで連れて歩いていてもあまり自慢のできるペットにはなりそうになかった。

兎の餌やりにひととおり満足すると、マルヴィナはいつものように山の頂きへ登った。山頂はなぜか高い木々も少なく、全ての方位がよく見えた。

山はそこからすぐ下ったところが遠浅の砂浜になっていて、その先は大きな海が広がっていた。沖合には漁をする小さな船も見える。彼女の鴉の羽を思わせるつやのある豊かな黒髪が海風になびく。


マルヴィナはそこから見える景色がとても好きだった。なぜなら、そこからは東の水平線から昇る朝日も、西の水平線に沈む夕日もどちらも見えるから、というのもある。

「あの海の向こうに、何があるんだろう」

そこに自分の人生を激しく大きく変えてくれる何かが潜んでいるような気がしてならないのだ。そう、全く違う人生、まったく違う生き方。

海の向こうの全く違う世界で、そこで彼女は女王で、絢爛で豪華な衣装を着て、宮殿のバルコニーに立ってもの凄い数の民衆の前で得意の歌を歌うのだ。

だから、地図なんかを見せて、この向こうにはこの距離に何があって次に何があって、などと具体的に教えてくる大人たちをマルヴィナは嫌いだった。

その時、遠くのほうから声が聞こえたような気がした。

母が呼んでいるような気がする。現実に戻らなければいけない。


 家に戻ってくると、すでに朝食が用意されていた。

「マルヴィナ、あなた、朝のお屍道のお稽古は済んだの?」

目玉焼きの乗ったパンを頬張りミルクを飲みつつ、うん、と答えるマルヴィナ。実はまだ終わっていなかったが、この後部屋に戻ってやるのだ。

「しっかりお勉強して、ほら、あのお城の宮廷魔術師のお子さん、神童って呼ばれているでしょう、あなたもそういう風になりなさいな」

「前から聞きたかったんだけどさ、なんでお母さんは屍道をやらないの?」

茹でた卵を半分かじりながら話すマルヴィナ。

「そうねえ、あなたのお父さんもそうだけど、私もまるっきりゾンビを動かす才能がないのよ。なんでも、隔世遺伝というらしいけど」

おじいちゃんやおばあちゃんは屍道を使えたらしいが、一族の中で全く屍道を使えない者も少なくないようだ。

「ふーん、そうなんだ」

「だから、お父さんもお母さんも、神聖屍道士としてあなたが成功することを願っているのよ」

「うん」

と小さく言ったあとに、私もゾンビ苦手なんだよね、と口の中で呟くマルヴィナ。

「ほら、今晩も満月だから、ゾンビ召喚の実地訓練をやるからね」

「えー。あ、そっかあ、いやだなあ……」

今日が満月で、実際に墓地へ行ってゾンビを呼び出す練習があることをすっかり忘れていた。

「お父さん元気にしてるかなあ」

嫌なことを忘れようと、話題を変えるマルヴィナ。

「仕事のほうは順調みたいだけどね」

マルヴィナの父は海を渡った大陸に出稼ぎに出ている。マルヴィナの父自身は屍道は使えないため屍道士ではないが、その知識を使って仕事をしているのだ。

「ところでお母さんさあ、私、なんで小さなころからお使いに行ってたの? 他の子に聞いたらたいていそんな小さいころからやってないって」

その問いに母の顔が明らかに曇る。

「お母さんね、昔から性格が悪くて、あまり空気の読めないことを言うものだから、村のみんなから嫌われてたのよ。あなたも気を付けなさいよ」

「へえ、そうなんだ」

マルヴィナの場合、学校などで特に嫌われている、ということはない。ただ、印象が薄くて存在感がないことを気にしていた。

「私、嫌われてはいないかもしれないけど、何のとりえもないからなあ」

「屍道があるじゃないの」

「苦手だし」

将来どうやって生きていこうかな、というマルヴィナのため息に、

「あなたね、自分がまったく取り柄が無かったとしても、他力本願でもなんでもいいから、夢だけは捨ててはいけないよ。自分がどんなに弱くてダメ人間でも、夢を持って挑戦するんだよ」

え、お母さんも夢持ってるの? という問いに、あたりまえよ、と答えるマルヴィナの母。早く学校の支度をしなさい、という母の言葉に、はーいと答えてマルヴィナは自室へ戻った。


 部屋に戻ると、家に代々伝わる大きな屍道書を開くマルヴィナ。

毎日少しずつ読みすすめながら、実際に詠唱の練習をした後でわからないところをあらためて読み返してみたりするのだ。

「第一章、屍道の基礎、屍道とは屍術にあらず、屍道士とは屍術士にあらず。屍術とは、悪魔の力を借りて災厄を起こすものである。対して屍道とは、冥界神ニュンケ様の力をお借りして奇跡を起こすものである。すなわち屍道とは神聖なるものであり屍道士たるもの屍道を悪の道に使うことなかれ……」

「つまり、悪いことに使っちゃだめ、ってことでしょ」

少し飽きてきたのでちょっと先のページをめくってみる。

「第三章、屍道のしくみ、屍道とは一般の魔法と根本原理は同様であり、アストラル界の最下層である地獄にましますニュンケ様の選別されたるソウルをその屍体に降ろし、普段から蓄積されたるマナおよびニュンケ様のエネルギーをお借りして屍体を動作させる奇跡である。屍道士たるものゆめゆめその仕組みを忘れるべからず」

「つまり、あまりよくわからないけど、呪文を唱えたときにゾンビが動けばいい、ってことでしょ」

「でも、アストラル界ってどこにあるんだろう? アストラル界からもの凄く強くてかっこいいゾンビが来て、どこかもっと楽しい場所に連れて行ってくれないかなあ」

椅子の背もたれで大きく伸びをしながら想像してみる。

さらに先のページをめくってみた。

「第十三章、屍道究極呪文、大量マナをアーティファクトなどの魔法デバイスに蓄積し、かつ冥界神ニュンケ様のエネルギーをお借りすることで禁断の究極呪文を発動させることが可能となる。その場合、二体の超常屍体にソウルを召喚する。屍道士たるものみだりに使用するべからず」

「へえ、なんか凄そう。だけど、使うのはちょっと恐そうね」

ま、でもこんなの使う場面なんて人生においてそうないだろうな、などと思っていると、居間のほうから母親の声がした。

「マルヴィナ、あなたもう学校行く時間じゃないの?」

「やばい」

慌てて支度を始めるマルヴィナ。

退屈な一日の始まりだ。

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