12-1.【事例9】窮地で手の平を返す人達

 これは、私が工場ではなく、本社の化学プラントの設計部隊に所属していた時の話です。


 【事例4】と重複しますが、もう一度、基本設計と詳細設計をご説明させてください。


 基本設計というのは、プラントの基本的な設計を行い、主要な設備の内容や、工期、予算などを決めるものです。この基本設計の結果をもとに、会社がその案件を実施するか否かの稟議りんぎを行い、実施が決まれば詳細設計に移行します。一方、詳細設計というのは、基本設計を基に、より詳細に設備の仕様を決めて、メーカーに機器を発注し、工事までを実施するものです。


 この話の起こった当時、私のいた会社では、基本設計と詳細設計のグループが分かれており、私は基本設計のグループに所属していました。【事例4】でも記載しましたように、このような組織構成のため、必然的に詳細設計グループは、基本設計グループの決めた工期や予算で仕事を進めることになります。いわば、他人が決めた工期、予算で仕事をするわけですから、どうしても詳細設計グループは、基本設計グループと反目することが多かったのです。


 さて、その時、私は特殊な晶析装置を導入する案件を担当していました。


 晶析というのは、例えば食塩水を冷却すると、飽和温度以下になったら食塩の結晶が溶液中に出てきますが、その現象を利用して、ある物質を溶解した液を冷却することによってその物質を析出させて純度の高い固体として取り出す操作のことをいいます。


 私が担当した晶析装置は冷却して結晶を析出させるだけではなく、ある特殊な方法で析出する結晶固体の純度をさらに上げるというもので、私のいた会社が日本で二番目に導入する新しい技術を用いたものでした。私は基本設計が担当でしたが、このような特殊な装置でしたので、詳細設計に移行しても、全体のオブザーバーとして工事と設備の立ち上げに参加していました。


 その装置は、マイナス10℃程度の温度で冷却を行うことでよかったため、ステンレス鋼ではなく、安価な、いわゆる「鉄」と呼ばれる炭素鋼で製作していました。炭素鋼の場合、マイナス10℃程度の温度での使用は問題ありません。しかし、ステンレス鋼は大気中で錆びることはありませんが、炭素鋼は大気中で錆びますので、メーカーでの製作過程で充分に錆び落としをしてから、装置を工場の現場に据え付けたのでした。


 そして、工事がすべて完了し、いよいよ実際の液を用いた試運転が始まったのです。


 試運転には1ヵ月ぐらいかかりますので、私も工場の独身寮に泊まりこんで参加しました(当時、私は既婚でしたので、短期間の単身赴任ということになります)。試運転は本来、詳細設計部隊の担当ですので、詳細設計部隊からも3人のエンジニアが参加していました。しかし、先ほど述べましたように、基本設計部隊と詳細設計部隊はもともと反目していましたので、詳細設計部隊の人たちはことあるごとに、オブザーバーの私の意見や進め方に反対するといった状態で、私も非常にやりにくさを感じながら試運転に臨んでいました。


 その晶析装置は、直径5m、高さ20m以上という大きなものでしたので、実際に液を張りこんで冷却を開始しても、そんなに速く内部の液の温度が下がるというものではありません。所定の温度まで冷却するのに4日が必要でした。


 さて、装置の冷却を開始して4日目、すなわち、初めて結晶が析出する温度まで冷却された日のことです。


 初めて結晶が析出するということで、私はその日、朝早く現場に出勤しました。すると、私と親しかった製造部隊の運転班長が「永嶋。悪い知らせだ。ちょっと来てくれ」と言って、私をその晶析装置のところに連れて行きました。そして、装置の底のバルブを開いて、内部の液を容器に流し出してくれたのです。本来、内部の液の結晶は真っ白をしています。すなわち、底のバルブからは、透明な液と、微細な真っ白な結晶が出てくるはずでした。


 ところが、底のバルブから出てきた液は、透明な液と赤茶色をした結晶だったのです。結晶の赤茶色が鉄さびであることはすぐに分かりました。その量は半端ではなく、肝心の真っ白な結晶はまったく見当たりませんでした。晶析装置の材質が炭素鋼でしたので、充分に錆び落としをしたつもりでしたがまだ不十分で、装置の中に残っていた鉄さびが結晶と一緒に析出したのでした。


 この事態はまったく誰も予想していませんでした。明らかに緊急事態で、すぐに対処しなければなりません。試運転は時間との闘いです。試運転を完了した直後から、実際に製品を出す商業運転が待っています。商業運転開始の日時はすでに決められていて、製品を出荷するお客さんもすでに決まっています。すなわち、商業運転の開始を遅らせることがあったならば、会社に何十億円という損失を発生させることになるのです。その時点で、商業運転の開始日は、もう来週に迫っていました。しかし、そのような緊急事態ですが、予想外の状況に私の頭は混乱し、対策がすぐに思いつきませんでした。


 そのうち、詳細設計部隊の人たちや製造部隊の人たちも出勤してきて、当初予定していた白い結晶ではなく、鉄さびの赤茶色の結晶が出たことは、すぐに全員に知れ渡りました。


 試運転の時は、毎朝、8時から30分程度、関係者全員が参加する全体会議を開いていました。これは、前日までの試運転状況やその日の予定を全員が確認する目的で開かれていたものです。そして、その日も、私が対策を思いつかないまま、8時から全体会議が始まったのです。


 その時、集まったメンバーの様子を見て、私は目を疑いました。さすがに、運転を行う製造部隊の人たちは不安な表情をうかべていましたが、このような誰もが予想しなかった緊急事態が発生したというのに、詳細設計部隊の連中は、なんとニヤニヤと薄笑いを浮かべているのです。そして、詳細設計部隊の連中は口々に私にこう言ったのです。


 「さあ、永嶋さん。どうするんですか?」

 「どうするのか、早く対策を決めてもらわないと困ります」

 「何でも言ってください。対策を決めてくれたら、我々は決められたことは何でもしますよ。早く対策を決めてくれませんか?」


 一体、何という人たちでしょうか! 昨日まで、さんざん私のやる事に文句をつけていたのに、緊急事態が発生すると、一転して、傍観者に立場を変えてしまったのです。つまり、傍観者となることで、緊急事態から逃げ出して、この事態の責任から逃れようというわけです。


 本来、試運転は詳細設計グループの責任範疇です。私は、あくまでオブザーバーにすぎません。また、装置の材質に炭素鋼を用いることを最終決定したのは、晶析装置をメーカーに発注した彼らなのです。しかるに、このような緊急事態が生じると、自分たちの責任を完全に放棄して、基本設計の担当である私に全責任を押し付けて、自分たちは傍観者に転じるとは無責任にもほどがあります。


 私の怒りは頂点に達しました。あまりの怒りに、そこにあった椅子を彼らに投げつけたいという衝動を抑えるのに苦労したほどです。しかし、そのような怒りを彼らにぶつけている時ではありません。まずは、この緊急事態を打開するために、取るべき対応をすぐに決定し、それを実行しなければなりません。前に書きましたように、試運転は時間との闘いなのです。そこで、私は彼ら、詳細設計グループのメンバーにこう言ったのです。怒りで声が震えたのを今でも覚えています。


 「よし、分かった。オレが全部決めてやる。その代わり、お前ら、オレが決めたことに一切文句を言うなよ。それから、オレがすべてを決める代わりに、お前ら、これから10分間、一切何もしゃべるな。10分のあいだにオレがすべてを決めてやる」


 10分といったのは勢いで言ってしまったのではありません。これは、実際にその場の状況や雰囲気を体現しないと説明が難しいのですが、10分の間に次の対応を決めないと、全員の中に不安と混乱が増長して、収拾がつかなくなると判断したものです。短時間で意思決定をしなければならないほどに事態は切迫していたのです。


 私は、みんなの前に椅子を出してきて、ドッカと座りました。詳細設計の連中は「いよいよ見ものだ」とばかりに好奇心にあふれた表情で、ニヤニヤ笑いをしながら、こちらを見つめています。


 しかし、いまはそんなことを気にしている時ではありません。私は目をつむって、一生懸命考えました。


 このような窮地に陥った時、私はまず「落ち着け。落ち着け」と声に出して気持ちを落ち着けて、それから「今、自分にできる最善のことは何だろうか?」と、これも声に出して自問自答することにしています。さすがにこの時は、みんなの前でしたので、声には出しませんでしたが、頭のなかで自分に問いかけました。


 すると、「今、自分にできる最善のこと」として、大きく二つの対策が頭に浮かんできたのです。


 一つ目は、装置に液を投入し冷却はせずに、装置に付属している攪拌機で内部を撹拌して、鉄さびを充分に落すという「錆び落とし」の操作を何回も繰り返して、鉄さびがもう出なくなったのを確認してから、冷却を開始して晶析操作をもう一度やり直すというものです。


 この方法は一番確実に鉄さびを除去できると思われたのですが、次のような問題がありました。まず、液を撹拌して鉄さびを除去する前に、今、冷却装置の中にある鉄さびを含んだ液を抜き出して、空いている別のタンクに移送しないといけません。空いているタンクは約1㎞離れたところにありますが、液を輸送する配管がありませんので、ます、その配管を仮設しなければなりません。いますぐ手配しても、配管仮設だけで最短でも2日を要します。また、配管仮設が終わったら、いま現在、装置のなかにある鉄さび液をタンクに移送する必要があります。


 さらに、大きな装置ですので、その後、液を張りこむ、撹拌する、そして液を抜き出すだけでも、各々何時間もかかります。つまり、液を張りこみ、撹拌して、その液を抜き出すという錆び落としの操作だけも、1回が丸1日はかかるということです。さらには、この錆び落としの操作が一回で終わる保証はありません。何回か繰り返す必要があることも充分に予想されます。その場合、錆び落とし操作だけで、何日も掛かってしまいます。そして、それから、4日を要する冷却操作に入る訳ですから、試運転の工程は大きく遅れることになります。


 二つ目の方法は次のようなものです。


 まず、液を空タンクに移送する仮設配管を2日かけて造ります。そして、いまある液を約1㎞離れた空タンクに移送します。ここまでは、一つ目の方法と同様です。その後、装置に液を投入し、もう一度4日かけて装置を冷却し、析出する結晶を見てみるというものです。


 この方法の問題は、もう一度4日かけて冷却しても、析出した結晶に鉄さびが含まれていないという保証はまったくないということです。もし鉄さびが含まれていたならば、その時点で一つ目の方法の錆び落としに取り掛かるしかありません。すなわち、二つ目の方法で、もう一度4日かけて冷却し、出た結晶にまだ鉄さびが含まれていたならば、一つ目の方法に切り替えなければなりませんので、一つ目の方法よりも4日分、商業生産の開始が遅れることになります。これは、二つ目の方法が失敗した場合には、一つ目の方法よりも4日分、会社が莫大な損害を出すということに他なりません。 


 次に、私は商業運転開始の日程がどうなるかを考えてみました。すでに決められている商業運転の開始日時を厳守するには、二つ目の方法で、もう一度4日かけて冷却し、出た結晶に鉄さびが含まれていないケースしかありません。すなわち、一つ目の方法ならば、すでに決められている商業運転の開始日時を厳守することは不可能で、会社に大きな損害を与えてしまうことになります。


 一方、二つ目の方法で、再度冷却して鉄さびが出なかったら、商業運転の開始日時をなんとか厳守することができます。しかし、二つ目の方法でも、また鉄さびが出たら、一つ目の方法よりもさらに4日分商業運転の開始が遅れますので、その分、一つ目の方法よりも会社が大きな損害をこうむることになります。


 つまり、どちらの方法も一長一短があり、簡単にどちらを採用すべきかを決めることができませんでした。


 最後に、私は「装置の製作過程で錆び落としを、あれだけ充分に行ったのに、晶析操作を実施したら、なぜあんなに大量の鉄さびが出てきたのだろうか?」を考えてみました。


 その結果、次のような仮説を思いつきました。


 装置の製作過程で行った錆び落としは、紙やすりで装置内面全体をこすって鉄さびを取り除き、そのあとウエス(タオルなどの布)で鉄さびをふき取るという方法でした。ウエスでのふき取りは、こすっても、もうウエスに鉄さびが付着しない(付着すると、ウエスに色がつくので分かります)というところまで、徹底して行いました。そのあとは、水分をほぼゼロにした窒素を装置に封入し、そのまま試運転に入っています。すなわち、装置の製作過程で行った錆び落とし以降に、空気が入り込んで、再度錆びるということは考えられません。


 では、なぜ鉄さびが残っていたのでしょうか?


 炭素鋼は磁石にくっつきます。ひょっとしたら、ウエスで装置内面をふいた際に、静電気が発生して、鉄さびが装置の内面に付着したのではないでしょうか? 静電気で付着した鉄さびは、ウエスでいくらこすっても取り除くことはできません。その状態で、試運転に入ってしまったのです。


 専門的になって恐縮ですが、晶析操作で結晶が析出する際には、エネルギー準位の低いところから析出します。エネルギー準位の低いところとは、例えば、装置内部の壁面といった箇所になります。そして、もし、鉄さびが静電気で壁面に付着していたならば、その鉄さびはまさに最もエネルギー準位の低い箇所に他なりません。


 私は、このために、晶析操作で壁面の鉄さびを中心に結晶が成長して析出したのではないかと考えました。そうすると、もう装置のなかには、鉄さびは残っていないことも予想されます。すなわち、もしこの仮説が正しいならば、100%の確率ではありませんが、再度冷却しても鉄さびは出てこないことが予想されるのです。


 私は一か八か、「鉄さびはもう残っていないかもしれない」という、この仮説に賭けることにしました。すなわち、錆び落としは行わず、もう一度冷却から晶析操作を開始するという二つ目の方法を選択することにしたのです。


 長々と記載しましたが、以上が10分間の間に私が考えたことでした。


 そして、10分後、私は全員に次の二つの指示を出したのです。

 ・まず、空タンクまで液を移送する約1㎞の仮設配管を設置し、現在ある鉄さび液を空タンクに移送すること。

 ・そして、その後すぐに液を張り込んで冷却し、試運転を晶析操作から再開すること。 


 それから、配管仮設に2日、装置冷却に4日の計6日かかりました。その6日間の長かったことといったら、言葉では言いようがありません。私は心配で、6日間、ほとんど眠れませんでした。


 そして、運命の6日目がやってきました。装置は充分に結晶が析出する温度まで冷却されています。みんなが見つめる前で、運転班長が装置の底バルブを空けました。そして、出てきたのは、透明な液と真っ白な結晶だったのです。


 一か八かの賭けが、当たったのです。その時の私の気持ちは文章では、うまく言い表せません。「うれしい」というより「安堵した」という感覚でした。この結果、試運転は当初予定した期間内に終了し、無事、予定された日時から、製品を出荷する商業生産を開始することができたのです。


 私は自分の武勇伝を書く気はありません。この一連の出来事で、私が痛感したのは「人というものは、窮地になると手の平を返して、安全なところへ逃げてしまう」という教訓でした。以来、私は、他人の信頼度を「窮地になったら、逃げる人かどうか」で判断するようにしています。


 こうして何とか試運転はうまくいったのですが・・・詳細設計部隊の連中が窮地で手のひらを返して、私に責任を押し付けたことによって、ストレスだけが強く私の心に残ったのです。


 以上が【事例9】の私のストレス体験です。


 さて、皆様には、この【事例9】とよく似たご経験はありませんか? また、もし皆様がこの【事例9】の私の立場だったら、皆様はこの事例のストレスから逃れるにはどうしたらいいのでしょうか?


 それでは、次回にこの【事例9】を、エリック・バーン(Eric Berne)のゲーム分析で振り返ってみたいと思います。


 エリック・バーン(Eric Berne)のゲーム分析につきましては、『2. なぜゲーム分析で人間関係が改善するのでしょうか?』に記載していますので、読者の皆様は適宜読み返していただければ幸いです。

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