楽しい時も、悲しい時も平等に、万人に時は流れていく。


 それが摂理であり、真理。


 月天げってんにあっても、決してそれは変わらない。


「……こんな所にいたのか」


 迦楼羅カルラの正装のまましゃがみ込み、瞳を閉じて祈りを捧げていた緋蓮ひれんは、聞こえてきた声に目を開いて振り返った。


 青い空しかない景色の中に、墨染の法衣と紅の燐光が散る様を見た緋蓮は、小さく笑みを浮かべて応えるとその人物に場所を譲る。


肆華衆しかしゅうに、墓なんてあったんだな」


 緋蓮がしゃがみ込んでいた前には、小さな供養塔が建てられていた。


 似たような供養塔が四基。


 今は緋蓮が持参した花が供えられているが、緋蓮がここを訪れるまでは草に覆われ、明らかに訪れる者がいないことを物語っていた。


「私や吏善りぜんには、教えたくなかったんですって。思い入れがありすぎるだろうからって」

亀覚きかく様か?」

「うん」


 緋蓮の言葉を静かに聞き入れた吏善は、その場に膝をつくと四基の供養塔に手を合わせた。選抜試験を終えて正式な修行生になったというのに、その口から念仏が紡がれることはない。


 ここを拝んでも、先代を含めて歴代の迦楼羅の亡骸はここには埋葬されていない。迦楼羅の肉体は死す時に焼き払われ、魂は迦楼羅に喰われて結界の礎となる。だからここは、拝んでみたところで元から空っぽなのだ。


 それでも吏善は、長い間供養塔と向き合っていた。吏善が来るまでは緋蓮も、同じように長い間、ここで手を合わせていた。


「……飛天楼ひてんろうの地下に繋がれた玲月れいげつ様に、託宣が降りたそうだ」


 立ち上がった吏善が振り返り緋蓮にそう告げた時には、一体どれだけの時間が流れていたのだろうか。


「近々、執生しっせいは代が変わる」


 その言葉に、緋蓮は視線を伏せた。


 近い内に聞くことになるだろうと思っていた言葉だったが、実際に聞かされると心はしんと静まり返る。


「……そう」


 執生の座にありながらあやかしと通じ、数多の人の命を奪うという大罪を犯した元執生・玲月は、事件の後も一命を取り留めたが、飛天楼地下深くにある座敷牢へ閉牢という処分を受けた。


 一片の光も差し込まない座敷牢の中から出ることは生涯許されず、玲月はもはや日の光を浴びることもなくその命を終える。


 それが視力を持たず、心の声を聴く力も失われた玲月に下された罰だった。


『……ちょうどいいのよ。わたくしには似合いだわ』


 最後に玲月に会ったのは、玲月が牢に入れられた直後のことだった。


 執生の証である白髪を瘴気で黒と白のまだらに染めた玲月は、まるであんな事件などなかったかのように、昔と変わらない優雅な笑みを緋蓮に向けていた。


『それに、ここは静かよ? 余計な声が、一切聴こえないの』


 今まで生きてきた中で、わたくし、今が一番静寂に満ちているわ。


 そう言って、玲月は穏やかな顔で笑っていた。


 ──玲月の命は、もう、長くない。


 次代を指名する託宣が降りたということは、すなわちそういうことだ。


 通常、迦楼羅を除いた肆華衆の葬儀は盛大に行われるものだが、大罪人である玲月はその限りではない。きっと玲月はひっそりと、歴史の波に埋もれるように静かに消えていくのだろう。


「……ねぇ、吏善。吏善はまだしばらく、月天にいるのよね?」


 そのことに思いを馳せながら、緋蓮は吏善を仰ぎ見た。まだ真新しい法衣の腰で揺れる紅玉の佩玉は、やはり少し居心地が悪そうに見える。


「そうだな。選抜試験にも無事に合格できたことだし、しばらく修行に励んでみるのも悪くはねぇな」


 あんな騒ぎがあったというのに、修行生選抜試験は通常通り遅滞なく行われた。


 亀覚によると、吏善は口が利けないという設定のまま、その不利を実力で跳ね除けて見事に首席で試験を突破したらしい。様々な思惑と裏事情があって、どのような結果であれ一乗院に迎え入れられる予定だった吏善だが、『そんな気遣いなど無用』とばかりに吏善は正面から堂々と一乗院に入る資格を得た。


 そんなことも、もうひと月近く前の話になる。


 ──それだけ、季節は廻った。


 季節が廻る分、緋蓮の終わりも、ヒタヒタと近付いてくる。


 だが今はそのことに、以前ほど焦燥に駆られることはなくなっていた。


響術師きょうじゅつしなのに、僧侶の道を歩むんだ?」

「響術師が坊主になっちゃいかんという決まりはないだろうが。それに、元を正せば俺は、響術師になるよりも早く寺で修行をしていたわけだし」


 そんな思いを胸の奥深くに沈めて、緋蓮は軽やかな口調で吏善に問いを向けた。


「ねぇ吏善。響術師は華仙かせんの法要では耳にすることがない旋律の呪歌を歌うって、ほんと?」


 緋蓮の唐突な問いに、吏善は緋蓮へ瞳を向けた。その瞳の中で、緋蓮が纏う紅が舞う。


「事実だな」

「じゃあさ、私が死んだら、吏善は私の法会でその呪歌を歌ってよ」


 ここ数日考えていた言葉は、思っていたよりもすんなりと音になった。


「しばらく月天にいるなら、私が死ぬ時まで、ここにいてよ」


 緋蓮の言葉に、吏善は初めて視線を交わした時のように深く凪いだ瞳を向けた。


 その瞳を改めて正面から見据えて、緋蓮ははっきりと己の覚悟を口にする。


「私のこれからの人生を、吏善がきちんと見届けてさ、……私が生ききった人生を、吏善が言霊に乗せて、最期に寿ことほいでよ。よく頑張ったなって、一番近くで見ていた吏善が、褒めてよ」


 その瞳を正面から見つめ返す。


 緋蓮の紅を受けて赤く染まった吏善の瞳に映る緋蓮の表情は、静かでありながら何かの決意に満ちていた。


 決して死人のような無表情ではなかった。


「その歌を迦楼羅と一緒に聞けるっていうのなら、私……もうちょっとだけ頑張ろうかなって、思えるの」


 しばらくその瞳を緋蓮に向け続けた吏善は、不意に大きく息を吸い込むと低く歌を歌い始めた。緋蓮には聞き慣れない旋律に乗った言霊は、キラキラと光を放ちながら澄んだ青空へ吸い込まれていく。


 その旋律に、独特の揺らぎに、いつの間にか死への恐怖に震えていた体が、フワリと解きほぐされていく。


 ──あと四回季節が廻ったら、私の命は終わる。


 それまでの時を、この煌びやかな鳥籠の中で崇められ、奉られ、飼い殺されて一生を終えるのだと、疑ってもいなかった。


 だけど。


 ──ねえ迦楼羅。生きている間だけ、もう少し抗ってみても、許してくれるでしょう?


 命を返す旅路につく時に、少しでも胸を張っていられるように。少しでも多くの温もりを胸に灯して逝けるように。


 そのために抗うことが、緋蓮の『生きる』ということなのだろうから。


 緋蓮は一度口元に小さく笑みを刷くと、光の粒が散っていく空を眺める。


 やがて緋蓮が還る日も頭上に広がっているであろう月天の空は、今日も無慈悲なくらい深く澄み切っていて、残酷なくらいに美しく青かった。




【暁の空に死を請わば-月天秘抄- 了】


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