第7話 術式書士

「――さん、姫さん。終わったぜ」

「!」


 軽く肩を叩かれつつかけられた声に、アネリナははっとして身を起こす。そうして、瞬きを数回。


「わたくし、寝ていましたか」

「寝る以外、やる事ねえ場所だからな。今は季節もいいし」

「確かに」


 夏の暑さからも冬の寒さからも逃れられない牢の中では、季節は過ごしやすさに直結する。


「今は悪い季節じゃないが、体、大丈夫か? 姫さん、あんまり丈夫じゃねえんだから。悪かったな、気が付かなくて」

「わたくしももう子どもではありません。己の体調管理ぐらい、己でするものです。そこは謝るのではなく、わたくしの軽率さを叱るべきでしょう」


 アネリナはあえて、自身に厳しくそう言った。

 アッシュの優しさにも厚意にも感謝するが、つい先程彼がアネリナをどうしたいかを聞いたばかりだ。

 意に沿わないことの警戒ぐらいはする。


「……この狭い牢の中で十年も閉じ込められていれば、体力も衰えようというものですね」


 体を動かすことを怠ってきたわけではない。しかし、限界はある。

 水も食糧も満足に取れないアネリナの生活では、運動に余分なエネルギーを回すことは死にさえ繋がりかねない。


「――もう、こんな時間ですか」


 暗いと思って外を見てみれば、陽はすっかり沈んでいる。空の明かりは月と星のみだ。


「ちょっと遠くの方まで手ェ伸ばしたからな。時間かかった。だがまあ、いい頃合いだろう」

「いい……ですか? まさか、今から行くと?」

「姫さんが行けそうならそうしたいと思っているが?」


 アネリナはもう一度、空を見上げた。やはり、暗い。もう深夜の方に近い時刻ではないだろうか。


「人を訊ねるのに相応しい時間ではなさそうですが」

「いいんだよ。これぐらいの方が人に見つかりにくいだろ?」

「成程」


 ユディアスは近しい者には紹介すると言っていたが、どちらにせよ転移陣のある部屋からの移動は必須だろう。人目につかないように動くのなら、夜の方が好都合だ。


「それに、少なくともここよりゃマシなものが食えるだろう。姫さんの体のことを思えば、一食だって早い方がいい」


 無駄な肉どころか、無駄ではない肉にさえ乏しいアネリナの体を見て、アッシュは労しそうに眉を寄せる。


「ふむ。それは魅力的ですね」


 得るべき栄養が満足に与えられない状態に、アネリナの体はすっかり慣れてしまった。とはいえ勿論欲求が消えたわけではないから、空腹と疲労感は常に存在している。


「と、言うわけだ。やってみな」

「魔法陣に魔力を流す……でしたね。ああ、使い方を聞くのを忘れてきました」

「あー、悪い。知ってる奴がやりがちなやつだな。陣に、魔力を始めに流す描き出しの部分があるだろう? そこに触れさせればいい。別の場所から始めると魔力が滞って失敗するから、注意しろよ」

「なんと」


 陣の外側にある部位が置いて行かれるとか、怖い話に尽きない魔法だ。

 術式自体も不安定だというのだから、転移魔法は本当に緊急のとき――使わねばそこで死ぬ、というような状況にしか使われないのだろう。


(わたくしに、陣の始まりが分かるでしょうか)


 もう一度よくよく紙面を見てみると、成程、ユディアスの魔法陣はとても分かりやすく描かれていた。小石とほぼ同じサイズの円が、不自然に記されていたからだ。


「ここでよいのですよね?」

「ああ。……しかし、余計な文様まで入れて整合性を取る力があるか。術式書士としては一流だな」

「術式書士、ですか」

「そうだ。使い手に依らず、魔法を図形によって再現させるための技術者だな。ほら、こうして転移魔法を使えない姫さんが、道具さえ揃えれば魔法を再現できる。そういう技術の開発、制作者だ」


 転移魔法は高度な魔法であると、ユディアスは言っていた。使い手が限られることも容易に想像がつく。

 その魔法を、理屈も何も知らないままアネリナは使おうとしている。


「……便利で、恐ろしい技術ですね」


 転移魔法がもし一般化したら、とても便利だろう。行きたい場所にいつでも行けて、すぐに帰って来られる。そこから広がる可能性は膨大だ。

 同時に危険でもある。それこそ暗殺者のような仕事は格段に難度が下がるだろう。


(ようは人次第。そして人は、その技術を良きようにだけ使えるほど、精神が発達していない)

「今のところ、物になるような品を作れる奴が少数なのが救いだ。少なくとも一般に流通する商品になる数じゃない」

「それでも、いずれその時は来るのでしょうね」


 生み出された技術というものが、消えることはないのだから。


「そうだな。――っと、横に逸れたな。やってくれ」

「分かりました」


 アッシュに促され、アネリナは改めて小石を図形の上に置く。紙面の魔法陣が輝きを増す一方、同じ速度で小石から魔力が失われていく。

 完全に魔力が行き渡った瞬間、魔法陣は紙を中心に大きく描き出され、アネリナが初めて招かれたたときと同様に、光の柱を打ち立てる。

 そして光が消えた後は、再び神殿内と思わしき魔法陣の上に戻ってきていた。

 幸いにして、今回も事故は起こっていないようだ。


(無事に着いて何より。ですが、一日に何度もしたい経験ではありませんね……)


 ふうと息をつき、冷たい石の上に座り直す。


「どうした。具合、悪いのか」

「いいえ。いつまで待つことになるか分からないので、座ってしまおうと思っただけです」


 正直に言えば、体は少し重かった。

 普段ほとんど動かない生活をしているアネリナである。体が驚き、疲れを感じるのは当然だと、さほど気にせずそう答えた。

 疲れた、というだけでアッシュの手を煩わせるのも気が引けたのだ。


「それもそうか。けど、直接石に座ると体温奪われてよくねーぞ。……つっても俺もな。来てる服しか布ねえしな……」

「わたくしなら大丈夫です」

「姫さんが気にしねーなら、俺は脱いでもいいけど」

「結構」


 アッシュの言葉に被せ気味に、アネリナは拒絶する。仄かに頬に血が上ったのは、淑女に想像をさせたアッシュの責任と言えるだろう。


「おお。意識されてない訳じゃねーんだな。いいモン見たわ」

「そうですか。幸いでしたね。それとは関係なく、わたくしは他者が嫌がることをする性格の悪い者は嫌いですが」

「悪かったって」


 不機嫌に声を低くしてあらぬ方向へと顔を逸らしつつ言ったアネリナに、アッシュは苦笑交じりに謝罪をする。

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