第5話

 バイトもなく慌ただしく起きることもない朝に、けどいつもより少しだけ早く起きた。一限目から講義は入っていない、にもかかわらずそれに間に合うよう登校する理由は先日申し込んだバイトがあったからだ。

 大学内は一限目にはまだ少し時間があるというのに、ぞろぞろと人が歩き回っていた。さすが大学、と人の多さと感心していると講義室前に用意された椅子にちょこんと座る彼女を発見した。


「あ、柊さん。ですよね?」

「………?」


 声をかけると、僕の方に気づいた彼女は耳を指さした。あ、耳が聞こえないんだった。

 僕は適当なプリントに文字を書く。彼女もそれに反応して文字を見てくれた。


『柊さんですよね?』


 彼女はこくりと頷いた。同時に困ったような顔をする。


『今日から講義のノートをとることになった、雁夜夏樹かりやなつきって言います』


 すると彼女もスマホに打った文字を僕にみせた。


『はじめまして、では無いですよね。いつもコンビニで会いますよね』


 やっぱり覚えられていたらしい。

 僕もプリントに文字を書いた。


『はい。僕もコンビニでよく見かけます。まさか同じ大学だったとは』

『私もびっくりしました。昨日の講義も一緒でしたし』

『僕もです。昨日はちょっと恥ずかしかったですが』

『ふふっ、あれはちょっと面白かったです』


 文字を読んだ彼女がまた文字を打って、それを見た僕がまた文字を打っての繰り返しで挨拶を済ませた。

 声の聞こえない会話は不思議な感覚で、メールのようなやり取りを現実でやっているだけなのに、メールとまた違った緊張があった。それはきっと顔が、目が合うから。


『もうすぐ始まりますし、入りますか?』

『そうですね。今日はよろしくお願いします』


 講義は僕の受けたことのないもので、なるべく講義前に予習をしてきたが変に嚙み砕かないで講師の話をそのまま彼女に伝えようと思った。きっとその方が彼女もわかりやすいだろうし。その旨を彼女に伝えると、微笑みがちに『適当でいいですよ』と返してきた。


『それは悪いですよ。一応仕事だし、柊さんのためにも』

『本当にいいですよ。適当で、講師からも要約のプリント貰ってますし』


 彼女は頑なにそう答えた。彼女は我儘を言っていいのに、どこか遠慮がちで諦めた様子だった。


『それに……』


 と付け足してからスマホに文字を打った。


『基本みんな、ある程度しかまとめてくれませんし』


 その淡々と綴られた文字と彼女の苦笑いが僕の胸に影を落とした。

 そういえば初めて見た時も、彼女の隣に座っていた人は彼女のことを見向きもせずに板書していたのを思い出した。きっとこんな事本気でやる人なんていないんだろう。それが普通で、耳が聞こえない彼女に対して、自覚のない差別的扱いをしている。それも彼女が受け入れてしまうほどに。きっと僕だからこう思うんだろう。彼女に特別な感情を抱いた僕だから。


『わかりました……じゃあ、僕なりに書きます』


 それだけ言うと、彼女は静かに頷き前を見た。

 さっきと同じはずなのにより一層静謐に感じられる空間。彼女はそれから僕と視線を合わすこともなかった。

 それが理由かはわからない。でも……


「僕も、元々――――を患ってたんです」


 誰に聞かせるでもなく、彼女が聞こえないと知っていたのに、無意識に。

 気付けば独り言のように語っていた。

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