第2話

 埼玉の工場地帯に夏がやって来た。

 駅前のタイル工場の煙が目にしみる。

 初夏の熱気が心地よく。

 土手の雑草が青臭く育っていた。

 砂利を踏みつけながら学校へ向かう堤防の上を歩く。

 砂利の上には男子生徒が踏み潰したり石をぶつけたりして遊んだ青虫の死骸があちこちに転がっていた。

 粘ついた体液で溺れた青虫が最後のあがきをする中、僕ら人間は体液が付着することを嫌がる。

 汗臭い体育会系クラブの男子生徒たちが走っているのが見えた。

 果たして彼らは青虫を避けられるかと思った。

 案の定、ランニングシューズに踏みつけられ青虫がぶちゅっと潰れた。

 踏み潰された青虫、靴の底に粘つく体液。

 それを見て男子生徒が顔を歪める。


「あんだよ! 踏んじまったじゃねえか! クソが!」


 たったいま殺害した生体を罵倒する。

 僕も同じくらい冷淡に「あーあ、やると思った」とつぶやいた。

 男子生徒は潰れた青虫を蹴り飛ばし、靴の裏を砂利にすりつけた。

 ただ無意味に殺されるために生まれてきた虫。

 そう考えると背筋が冷たくなってくる。

 嫌な気持ちを抱えたまま土手を下り中学校の校舎に入る。

 パンッという音が響く。

 玄関では野球部の下級生が上級生に平手で殴られていた。

 男子生徒たちがそれを指さしてはやし立て、女子は汚いものを見るかのように顔を歪めていた。

 ああ、下級生が殴られていることを汚らしいと思ったんじゃない。

 負け犬の下級生を見て汚らしいと顔を歪めたのだ。

 そういう意地の悪い顔だ。

 だって暴力への喜びが隠せてない。

 僕は、その顔が本当に嫌いだ。


「もう二度とやるなよ! チームに迷惑かかるからな!!!」


 上級生が怒鳴った。


「ご指導ありがとうございました!!!」


 上履きに履き替える間に上級生はさらに三、四回ビンタした。

 殴られて礼を言うなんて正直言って気持ち悪い。

 頭おかしい。

 僕は嫌悪感で胃が痛くなった。

 だけど1989年はそういう時代だった。

 男子は丸刈り。女子はおさげ。

 教師は挨拶代わりに体罰。

 はいは押忍。いいえは存在しない。

 高圧的で信用できない大人たち。

 だけど生徒だって同じだ。

 暴走族に不良に喧嘩にバイクにシンナーにトルエン。

 制服のズボンを作業着のニッカポッカみたいに大きくした通称ボンタン。

 それをはいた生徒が裏庭の炭でライターガスを吸う。通称ガスパン。ただの酸欠だ。

 でも彼らはそれで気持ちよくなれると思ってる。

 信用できる部分なんてどこにもない。

 三年生が足を引きずって歩く。すれ違うたびに足に目が行く。

 盗んだスクーターで転んだのだ。一生足を引きずることになるらしい。

 ここは埼玉でもあまり品のいい街じゃない。

 同級生の親はヤクザに彫り師に詐欺師。

 親が刑務所にいる子もいた。

 みんな殴られて育ったし、自分の人生の上限っていうやつが見えていた。

 三年生の誰と誰がいくらでやらしてくれるかって話は男子生徒の鉄板の話題だ。

 やんちゃな男子の話題は万引きかカツアゲで稼いで女子に金を払ってヤル話ばかり。

 泌尿科の診察代が必要になる話もセットで。

 そんやつはすぐにわかる。

 ボリボリと股間をかきむしってるから。

 恋愛禁止の校則があるのに教師たちは何事もなかったかのようだった。

 恋愛は禁止だが、粘膜の接触は許されるらしい。

 彼ら教師の話は常に虚無だ。

 不良たちは卒業式の日に報復することを夢見ていた。

 教師が生徒を徹底的に信用しない時代だった。

 生徒も教師を信じるわけがなかった。

 汚い想像に朝っぱらから気分を悪くして階段を上がり教室へ入る。


「おはよー」


 一応、挨拶するが返事は返ってこない。

 教室にいる男子たちはジョジョの奇妙な冒険を読むのに夢中だった。

 学校に漫画を持ってきちゃいけないのに。

 別の男子生徒はプロレスの話をしていた。

 野球はわからないけどプロレスなら興味ある。

 でもプロレスごっこは殴られるのを耐えるだけで攻撃させてくれないので好きじゃない。

 不良たちはバタフライナイフを抜く練習をしていた。

 僕は席に着くと鉛筆とノートを出して落書きを始める。

 女生徒の会話が聞こえた。


「ねえねえ。例の殺人事件。別の子が誘拐されたって」


「らしいね。事件のせいでうちの親がうるさくてさあ、夜出歩けないんだわー」


 正直言うと殺人事件には少し興味があった。

 人を殺したいなんて思ったわけじゃない。

 ただ人殺しとそうじゃない人の違いは知りたかった。

 しばらく絵を描いていると大人の女性が入ってきた。

 担任の鈴木だ。

 中年と言うにはまだ若い顔に野暮ったい眼鏡。

 ヨレヨレのジャージは働いてる感を前面に押し出した。

 わたしプロよ。な女。

 いじめも暴力も見えないし記憶もしない。

 話も通じなければ問題解決をする気力もない。

 なんら職遂行能力のないのに職場にしがみつく害悪。

 発言のすべてが薄っぺらいクソババア。

 だが絶望的なのは、話は通じないが怒鳴らないだけこの学校の教師の中では比較的マシという事実。


「おはよう!!!」


 声は強いが目が笑っていない。


「元気ないぞ~もう一度」


 挨拶をしろということだろう。

 ここは生徒が大人になるしかない。


「おはようございます」


 元気はたったいま死んだ。

 そんな精神的虐待を終えると鈴木は目以外は満足げな顔をした。

 おれは鈴木を見て今朝の青虫のようだと思った。

 今日もまた憂鬱な一日がはじまった。

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