湯けむり:5 冒険へのフラグ

 子どもが寝てしまえば夢物語など必要はない。これからは大人の秘め事。

 16歳だったチェイス少年は26歳のチェイス青年に成長をした。


「ぅんンんん!」


「今日はどんな御伽噺で寝たんですか?」


 深い青色の髪が宙にふわっと浮かび上がった。小さく薄い唇が「あまり事実を話してはなりません。残してはならないものですよ、あれは」チェイスを注意する。まつ毛の長く大きな目をした女性は妻だ。

「【湯けむりの番頭】のことは忘れなさい! チェイス!」

「でも。そのおかげさまで。今、こうしてパパはママとぉうぅうう~~」とチェイスは妻を抱きかかえて何度となく舞わした。険しかった妻の表情も緩み苦笑に歪んだ。


「アンヌ女王陛下は、その顔が一番お美しいですよー~~」


「っば! ~~~っつ! ……もぉうっ!」


 チェイスはアンヌ女王陛下と結婚をした。と言えば階級を超えた愛と聞こえるが。王冠を姉のサマンサに譲った後、庶民になってからだ。この結婚はチェイスの目論見があった。つまるところ。恋人を失い、生き甲斐を見失い屍となり命を狙われた彼女の居場所を、活き場所をと考え着いた場所が最も安全かつ最大の権威。本来の座るべき玉座。お湯に浸かりながら、サマンサと話しながら。行き着いた思考がそこにしかいかなかった。安易にも。だが首替えなら姉妹であり本来の王位順序はサマンサにある。嫡男がいなかったからだ。

「私なんかに逢わなかったら。あのまま女王陛下としていました?」

「どうでしょう? あの玉座は姉様が放り捨ててあてがわれたもので、私はそこに座らされていただけの所詮はお人形。どこぞの国の皇子と政略結婚をさせられる寸前……逃げる準備をしていました。国になんか身を捧げる気なんかさらさらなかったわよ」

 にやりとほくそくむアンヌに「だと思った」チェイスは口づけをした。


 ◇◇◆◆


【湯けむりの番頭】は1人の男に富を与えた。その男の名前はハイジ=ブランコ。チェイスの甥っ子だった。彼が書いたのはチェイスが子どもに聞かせた御伽噺を自身も聞き、生活苦に小説を書くために思い出し必死に書き続け書籍化まで漕ぎつけた。バツ4で母親違いの子どもが4人。生活苦のためにファンタジーが産まれた。だが、それは夢物語ではなく現実にあった物語。安易に嘘を交えて書いた物語によって彼は――


「ハイジ先生。サイン、家宝にして大切にします!」


「ああ。そうしろ」


 適当に投げやりに言葉を投げかけるのがハイジだ。彼本人が一番、この状況を未だに騙しやびっくりなんかではないかと疑っていたからだ。

「サイン。お願いします」

「名前はどうする?」

「《チェイス》で」

「……なんの冗談だ?」と顔を上げるとそこには見知らない紳士と見覚えのある老女が腕を組み立っていた。その老女には見覚えのある。


「アンヌ、叔母さん」


「おや。よくもわかったものです」

「先月、逢っただろう」

「たしか借金のお願いの件でしたよね。返済はいつになるんでしょうね」

 っち、とハイジが舌打ちとする。

「いままでの借金をチャラにしてあげると言ったら。乗りますか? ちょっとしたお願いがあるのですが」

「断る。印税で返せるからな」


 紳士が肩を揺らして笑う。


「何がおかしいんだ?」


 可笑しくも痛快な冒険にハイジ=ブランコは行かざるを得なくなるが、それは死に際のチェイスが望んだことであることを間もなく知った後、彼は、そして子どもたちも選択をする。


 あの日のチェイス少年のように《せんたくびより》とはいかないが。

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湯けむりのエルフ ちさここはる @ahiru

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