第20話 疲れた体に味噌汁が出てくる幸せと日常の考察

 徹夜で仕上げた原稿は改稿と校正を繰り返して、起きてきた輝が部屋を覗き込む頃には第5版になっていた。目が勝手に閉じそうになるのをコーヒーを飲んで頬を叩いてごまかしてなんとか完成させた。


 今回は完璧だ。完璧に作った。美空先輩が見たら新入部員が来ると絶対に期待するくらいのいい出来になった。輝にデータの入ったメモリーカードを渡して、俺はベッドで深い深い眠りについた。


 目が覚める。味噌の香りが部屋の中にほのかに入り込んでいた。慌ててスマートフォンを手に取って時間を確かめる。すでに3限目が始まっていて、今日の授業は絶望的だった。大学に入って授業をサボったのは初めてだ。


 俺にとって勉強は家から逃げ出す知識をつけるためと一人暮らしを認めてもらうための方法だ。それを投げ出したことに少なくない罪悪感があった。


 まだ少し重い頭を抱えながらベッドから這い出す。寝癖のついたままの髪を手で押さえつけながらダイニングに向かった。


「起きてきた。もうお昼だよ。珍しいね」

「あぁ、昼飯の準備代わってくれて助かる」

「いや、これ朝ごはんとして作ってたんだけど」


 食卓につくとトーストの隣になぜか味噌汁が置いてある。組み合わせとしてはあんまり見たことがない。出されたものに手をつけないのも悪いと思って口をつけてみる。口に残ったバターの上にしじみの出汁がたっぷりと出た味噌汁が流れ込んでくる。


「意外と合うな。トーストとしじみ汁」

「そうなんだ。思いつきで作ったけどよかった。なんか朝に飲むと元気が出るらしいよ」


「それ二日酔いの場合だろ」

「まぁまぁ。たまたまあったから作ってみただけ」


 輝がテーブルの向かいに座って自分のトーストをかじる。そういえばトーストに乗せているジャムも普段は置いていないイチゴのジャムだ。俺は普段からマーマレード一択だから部屋には置いてないはずなのに。


 俺が徹夜してるのを見て、わざわざ買い物に行ってきたのか。輝の顔を盗み見る。いつも通りの何を考えているのか読み取れない澄ました無表情で口を動かしている。最近は話しているときは笑ったり怒ったり感情が豊かになったと思う。変態とかののしらないし。


 それでも俺を意識していないときの輝は、やっぱりどこか感情を失っていて無表情というか、別人のようにさえ見える。本当の輝はどっちなのか。性別すらいまだにわからない輝の本心なんて見えてくるはずもない。


「ありがとな、輝」

「んー? 何のことかわかんないな。早く食べてお掃除やってよ。どうせサボったんでしょ」


「わかったよ。食器洗うのも任せとけ」

「うん、よろしく。僕はこれちゃんと読んでおくから」


 輝は微笑みを作ってイスの背もたれに隠していたクリアファイルを見せる。中に入っているのは、今朝完成させたばかりの次の動画の原稿だった。渡したメモリーカードからコンビニで印刷してきてくれたらしい。


「スタジオもまた同じとこ予約しておくから。準備しといてくれよ」

「はいはい。美空がびっくりするような動画作っちゃおうね」

「……原稿、あんまりよくなかったか?」


 輝の微笑みに少しの違和感を覚える。ほんの少しだけ、輝の笑顔はどこかぎこちないように見えた。


「なんで? 前のよりまとまってて面白いと思ったよ」

「そっか。それならいいんだけど」


 それ以上深くは聞けなかった。輝は追いかけると逃げていってしまいそうな怖さがある。だから今までも深くまで踏み込めないところがあった。この嘘をつけない嘘つきの考えていることはなかなかわからない。


「これで美空をおびき出すんでしょ? 気合入ってるし、告白でもするの?」

「なんでそれ知ってんだ?」

「なんか寝言で言ってたよ。美空が部室に来るようにって」


 今度の輝はニヤニヤと笑っている。これは間違いなく本心から笑っている顔だ。こんなにわかりやすいのに輝の底は見えない。悩みを忘れるように俺はしじみ汁を一気に飲み干した。


 撮影も編集も2回目になればそれなりにわかってきて、完成に時間はかからなかった。輝は前回よりやけに気合が入っていてどこをカットするか悩んだ結果、ほとんど垂れ流しの動画になってしまった。解説や字幕の表示に加えて、今回は場面転換のエフェクトや効果音を少し入れてみた。ちょっとカジュアルで楽しみやすくなった気がする。


「よし、後は投稿するだけだな」

「へー、もうできたんだ。めちゃ早かったね」


 後ろから急に声をかけられて慌てて振り返る。当然のように勝手に部屋に入ってきていた輝がモニターを覗き込む。そこにはちょうどエンコードが終わった画面が映っている。


「いきなり声かけるなよ。あと勝手に入ってくるな」

「だってこの間みたいに死んだように寝てたらびっくりするじゃん。最近無理ばっかりしてるし」

「死んだように、って。ってか寝てた間も入ってたのかよ」


 俺の抗議を完全にスルーして、輝は俺の肩を揺らす。いいから早くアップロードしろ、と言っているようだ。


 動画サイトを開いてアップロードの準備を始める。説明文もタグも全部準備は終わっている。2つしかない投稿動画。少しずつメーターが進んでいく。気合の入った30分近い動画はすぐに公開状態になって世界中にバラまかれていった。


「前より再生数伸びるかな?」

「まぁ、今回はテーマ的にもとっつきやすいしな」


「ニュートンのリンゴの話って有名なの? 僕は聞いたことなかったけど」

「高校くらいでよく聞く話だよ」

「へー、そうなんだ。僕はあんまり勉強好きじゃないし」


 輝は中学生くらいに見えるし、こんなだから学校もろくに行っていないだろうから知らないかもしれないな。


「ま、そういうやつにはこの動画が刺さるかもな」


 数分もすると再生数がどんどん回っていく。コメントもついてきた。あいかわらずコメントは輝がかわいいってやつばっかりだけど。


 前回のペースを超える早さで増えていった再生数は、翌朝には1本目の再生数を抜いて3万再生を超えていた。

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