第3話 これは断じて覗きではない。実験の観測だ

 シュレディンガーの猫という思考実験がある。


 鋼鉄の箱に猫と50%の確率で放射線を出す物質を入れてふたをする。当然中を見ることはできない。放射線が出れば中にいる猫は死んでしまうが、出なければ生きているはずだ。


 放射線が出るまで十分な時間が経った。さて、箱の中の猫は生きているだろうか、死んでいるだろうか。というものだ。


 今の俺はまさにその実験を現実にやっていると言っていい。


 男を自称している輝だけど、その雰囲気は女の子そのもの。今はまだ男の子の可能性と女の子の可能性がある。だが、俺が輝の性別を観測した瞬間に性別は確定する。


「そして俺の予想が正しければ、輝をここから理由をつけて追い出すことができる」


 そうは言ってもどうしたものだろうか。無理やり服をはぎとって本当に女の子だったら、こっちが警察に捕まることになる。あくまで合法的に、輝にバレない方法で脱がして性別を観測しなければならない。

 考えを巡らせながら着替えを済ませるがいい方法は浮かばない。


「そういえば何か着替え貸してやらないとな。美空先輩にも言われたし」


 部屋着にしようとした体操服がある。その中に確か間違えて中学時代のものもあったはずだ。それなら小柄な輝でも着られるだろう。

 ついでに今日は少し寒いので、部屋着のパーカーも持っていってやる。


「おーい、着替え持ってきたぞ。とりあえずこれ使ってくれ」


 ノックもなしにドアを開ける。輝は落ち着かないのかほとんど何もない部屋の隅で膝を抱えて小さくなっていた。


「どうしたんだよ?」

「何でもない。気にしないで」

「いや、気になるだろ。さっきまでの元気はどうした?」


 輝は何も言わないまま俺の手から着替えを奪い取ると、弱々しい体当たりで俺を部屋から押し出そうとする。


「着替えるから出てってよ」

「わかったよ。だから押すなって」


 背中に柔らかい圧力を受けながら部屋から追い出される。うつむいた輝の表情は無理やり首をひねっても見ることはできなかった。


「あんな顔されたら追い出しにくくなるじゃねえか」


 急に見せた年相応の寂しげな表情は俺の脳にしっかりとこびりつく。一緒に住むつもりなんてない。でもそのせいで輝が不幸になるというのなら寝覚めが悪い。


「とりあえず今日はうまいものでも食わせてやるか」


 俺は思い立ってキッチンへと向かった。


 向かったけど目的は料理を作るためじゃない。俺の料理スキルはオムレツを作ろうとしてギリギリ食べられるスクランブルエッグになるレベルだ。目当ては食器棚の引き出しに入れてある宅配業者のメニューだった。


 たった一ヶ月でこの近辺で宅配に対応している店はほとんどチェックしたと言ってもいい。

 ピザ、中華、うどん、ハンバーガー。チェーン店から個人経営の店まで様々だ。


「これなら一つくらい気に入るのがあるだろ」


 俺は選びもせず、メニューの束を抱えて輝のいる部屋へと戻る。そして、俺はろくに学習せずにノックもなしにドアを開いた。


 薄暗い部屋に発光しているんじゃないかと錯覚する白が二本見えた。それが輝の両脚だと気付くのに時間はかからなかった。


 着替えている途中らしい。黒のストッキングを脱ぐために背を向けたまま、大きく前かがみになっている。上にはブカブカのパーカーを着ているから太ももの半分くらいまでしか見えないが、見えなくてよかったとほっとしている自分がいた。


「だからなんでノックもなしに入ってくるの!」

「いや、晩飯何食いたいかって」

「そんなことより見るな。早く出てけっ!」


 輝が足元に落ちていたバニースーツを投げつけてくる。慌てたせいでメニューの束を落としてしまった。


 顔面直撃したレザー地のバニースーツにはまだぬくもりが少しだけ残っていた。ぶつかった衝撃で中から二つ、胸に詰めていたらしいパッドが落ちてくる。


「あれで入れてたのか」

「うるさいっ! いいから出ていけって言ってるでしょ!」


 今度は部屋の棚の上にある空の写真立てを投げつけそうな勢いだったので、俺は早々に逃げ出した。


「あれでパッド入れてたなら本当に男かもしれないな」


 バニーガール姿の輝を思い出しながら考える。


「着替えを覗くのが一番手っ取り早いかと思ったけど、これはリスクが高いな。作戦から外そう」


 さっきのは偶然だったけど、本当に女の子だった場合は、輝を部屋から追い出すどころか俺が刑務所に連れていかれることになりそうだ。


 少し赤くなっている気がする鼻をさすりながらリビングのソファにもたれかかると、まだ不服そうな顔をした輝が部屋から出てくる。大きなパーカーがワンピースみたいに太ももあたりまで覆っていて、非日常感がある。彼シャツスタイルってやつか。


「悪かったからそんなに怒るなよ」

「ん。これで許してあげる」


 輝は胸元に抱えていたメニューの束から一つを差し出す。俺が落としていったものを拾い集めて持ってきてくれたらしい。


「って、これ俺も引っ越し祝いのときの1回しか使ってない寿司屋じゃねえか」

「悪いと思ってるならいいでしょ。僕の引っ越し祝いだし」

「俺はおめでたく思ってないんだけど」


 当然、と言うように、輝は俺が受け取ったメニューの中から一番高い特上を指差す。着替えを覗いてしまった以上、今日の俺に断るという選択肢は残されていなかった。


「今日だけだからな」

「やった。こーすけはこんな広い部屋を借りてるんだからお金持ちだよね」

「だから、俺の金じゃないっての」


 そう言いながら俺はやけくそ気味に電話で特上握りを二人前注文する。


 高級店らしくすばやく届けられた寿司は、めちゃくちゃおいしかったけど少しだけ涙の味がする気がした。

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