第31話 メリー・メアーと虹の架け橋 9



 西瓜の匂いが満ちている屋上で、私は詞浪さんへいった。


 いろんな欲望があるものです。

 ほら。赤ちゃんを見て、食べちゃいたい、とかいうじゃないですか。まあ、それを反転させたような欲求なのでは。

 ヤフー知恵袋でも、ほら。女の子が同じようなこと書きこんでいます。食べられたい願望とかっていうらしいですよ。

 〈ホール〉ではそういう欲望も露骨な形であらわれるものです。そんなに特殊なことではないと、まあ思いますよええ。たぶん。


 行きがかり上、センセイのフォローをしている。

 実際、私個人としては、食べられたい願望、大いに結構だとは思うのだけれど。

 とはいえ詞浪さんは聞いていない。


 あの後――つまり、畑で西瓜割り大会を催したそのあとで、彼女は残骸のすべてを屋上へ運んだ。

 それから、屋根の上に平坦な場所を探した。

 白いテーブル。

 白いテーブル掛け。

 白い椅子。

 を設置した。

 そして白い、そして大きな皿を何枚も並べ、そこにすべての西瓜たちを山盛りにした。

 大変な量だ。


 そのうえで詞浪さんは、やや行儀悪く椅子に腰掛けると、収穫したものたちを無言で食べ始めた。

 それから、もうずっとそうしている。

 食べているあいだに東の水平線から朝日が昇った。

 海沿いのホテルの上だから、まばゆい朝日を全身で浴びることができた。爽やかな潮風に西瓜の香りが混じっている。


 詞浪さんは延々と食べ続け、明るくなった頃には、約四〇人分の人頭西瓜をすべて、胃の中へ納めてしまった。

 テーブルには人面西瓜の皮だけが出土品みたいにならんでいる。特にセンセイの頭は満ち足りたような笑みを浮かべていた。


 テーブルへ投げだした素足で、センセイの抜け殻を一度転がすと、詞浪さんは立って屋根のヘリまで歩いて行った。手すりはない。十センチ先は虚空である。

 彼女は海へ向き合うと、ひとこと、可愛いげっぷのように「きっしょ」と呟いた。それ呼び水だった。しかるのち、彼女は高らかに吐瀉しはじめた。


「きっしょぉおお! 美味しいわけないじゃーん。アンタ達なんかー! 消化して? うんこにするわけないじゃん、きぃいいいいっしょー! ホントはいっちゃ駄目なことだけどぉおお。みんなのことずっときしょいと思ってましたぁああ!」

 際限なく詰め込んだあとだから、吐瀉は勢いよく、雄大に、ホテルの屋上から海まで、たいそう立派な橋を架けた。

 それは際限なく続いた。


「いらないからぁあああああ! そういうのおぉおおお」


 生理現象か、感情の炸裂か、その両方だろう。

 詞浪さんは涙をボロボロこぼしながら、吐き続けている。

 詞浪さんは、学校の仲間たちとの関係に息苦しさを感じていたのだろうか。ヒアの怪我が原因だったのか、その前からすでにそうだったのか、私には分からない。

 たぶん詞浪さんにも分かっていない。

 意識の奥に、溜まりに溜まった無自覚の怒りが、今、爆発したのだ。


「どいつもこいつも! 二度と私に同情するボぁあああああ! あああああああああああッ!」


 雄大。混沌。ジェット噴射のような音。

 しかし爽やかな香り。

 赤い果汁を迸らせる詞浪さんの姿は、大滝のようでもあり、火を噴く大魔神のようでもあった。

 激怒しながら、涙を流しながら、それでも気持ちよさそうに、詞浪さんは長い時間吐き続けた。

 やがて噴火が終わると、海峡に虹。


 詞浪さんは、ゲボを吐いた人特有の、照れくさそうな、しかし、打ち解けた顔で私を振り返った。

 そして高らかに「いえたよー! すっきりしたぁあああああ」と笑った。

 とても神々しい笑顔だった。


 このあと、詞浪さんは短い間だけ甘えん坊になったが、昼前にはここを発っていった。





 巨大な橋が、海と空のあいだを真っ直ぐ伸びている。

「向こうは淡路島、だよね?」

 詞浪さんは自転車に跨がった。

 後輪の後ろに、わざわざトレーラを取り付けていた。

 そのカゴのなかに、人頭西瓜の顔の所だけを切り取って乗せている。かわら煎餅を並べたようなあんばいだ。

 これを荷車のように轢いていくつもりらしい。


 連れて帰るならセンセイだけでいいのだが、彼女はモブ生徒達も平等に扱いたがった。

「まあ、一応ね。強者の義務ってヤツ? センセイもみんなも良いところはあるし」

 彼女はそういった。

 いろんな関係性があるものだ。

 西瓜たちは切れ端になっても歌ったり、応援したりしていた。

 詞浪さんはセンセイ(食べ残し)へ向かって、ぶっきらぼうな口調で、しかし「見てるか先生、私が自転車に乗ってるぞ」といった。センセイは笑っている。


 こちらへ向き直ると詞浪さんはお別れをいった。

「修学旅行、しんどかったけど、おかげで戻ってみようって気になったよ」

 遠いですよ、と私。

「余裕」

 彼女は色とりどりのハリボを口いっぱいに放りこんで、もしゃもしゃ食べた。朝日に輝いて綺麗だ。

「ちゃんと帰ってみせるからさ。そしたら報告に来るよ。今度はチャリンコに乗って」

 そういって発っていった。

 きっと、また会えるだろう。その時は他の野菜も食べてもらいたいものだ。今のところ、それが私の欲望である。


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