第45話 メリー・メアーの花迷宮 6

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 それから我々は脳迷宮をいくつもくぐり抜けた。

 〈恐ろしいもの〉はどこまでも追ってきたが、別の脳迷宮にワープされると、しばらく我々を見失うようだった。

 脳迷宮は確かに、あなたの記憶から作られた迷宮で、それはあなたの通った幼稚園だったり、修学旅行先であったり、図鑑の中の平面迷宮であったり、大人になってから訪れたクレタ島の遺跡や、イギリスの宮殿庭園だったり、南米のスラム街だったりする。すべてあなたが〈恐ろしいもの〉を体験した場所であるらしい。〈恐ろしいもの〉の詳細は、その時代、その場所で様々だ。

 ともかく、あなたの記憶の風景が複雑化して迷宮とかしているのだ。我々は脳髄を求めて、その中をさ迷った。


 迷宮は相変わらず難解で、我々は脳を探しながら、自分の脳を酷使しなくてはならなかった。

「もう気が狂うよ! 何だこの作業! チューしてくれ! 赤ちゃんのように甘やかしてくれ! おぎゃあああ!」

 詞浪さんの幼児化も進行中だ。


「あの脳は、僕が過去に恐ろしい思いをした場所に置かれているのです。というより、恐ろしい思いをした場所が迷宮になるのでしょう。迷宮は〈恐ろしいもの〉を遠ざけるためにあるのですから」

 あなたは繰り返しそういった。

 あなたにとって迷宮は興味の対象であり、同時に〈恐ろしいもの〉の象徴であるらしい。

 あなたが恐ろしい思いをした数だけ迷宮は存在するのだ。

 そして、迷宮は少しずつ混じり始めているらしい。


 ■■■


 あなたの勤める大学の迷宮に流れ着いたときだった。

 今ではほとんど使われていないという、旧実験棟の三十九階部分、その非常階段で、我々は編集者の死体を発見する。教材出版の件で散々迷惑をかけられた編集者だ。

 これが、実際の記憶の反映なのか、夢の象徴なのかは解らない。

 とにかく編集者の刺殺体がそこにあった。うち捨てられた廃材の山に半ば埋もれている。あなたはその事に関して何もいわなかった。


 死体を見つけた時、私たちはその場から逃げ去って行くランドセルの背中も同時に見ていた。死体を発見してしまった子供が、恐怖に駆られて逃げ去ったというような格好だった。

 その時、あなたが叫んだ。

「ああ。ああ! すっかり忘れていました」

 それはかなり奇妙な発言で、私たちはそれを理解するのに時間が掛かった。あなたはこういったのだ。


「逃げていった子供は、僕自身のようです。奇妙な感じですが、『小学生のころ編集者の死体を見つけた』という〈新しい過去〉の記憶が、今造られたのです。そうだった! そうなった! 『編集者の死体を見つけた小学生の僕』は、その〈恐ろしいもの〉から逃げるために、迷宮へ逃げこむのです」

 

 難しい話だ。

 教材出版の編集者という、大人になってから出会う人物に、子供の頃の彼がすでに会っているという。まるで未来にタイプスリップしたみたいに。

 記憶の混乱と考えればいいのかもしれない。

 子供の頃の記憶と、大人になってからの記憶が混じってしまっているのだ。アルバムの写真がシャフルされるみたいに。

 その混乱を引き起こしたのは、この迷宮だった。

 子供は何十年も昔の記憶の風景から、あの押し入れの脳を使って移動し、数十年後の大学の非常階段で、編集者の刺殺体を発見したのだ。我々のことを犯人だと思ったかも知れない。

 恐ろしかったはずだ。

 

 問題は、このあり得ない出会いによって、新たな〈恐ろしいもの〉の記憶が創造されたということだ。子供の頃のあなたは、非常階段の刺殺体を、そしてそこにいたあなたたちを恐れた。

 〈恐ろしいもの〉が増えたのだ。

 それはつまり、これから遭遇するであろう脳迷宮が増えてしまった事を意味する。

 事実、我々の進んだ先には、〈非常階段と誘拐犯の家〉の混じった迷宮が広がっていた。

 あなたの〈新しい過去の記憶〉が今生み出されたように、〈非常階段と誘拐犯の家〉の迷宮も今生まれたのだ。そしてその先にまた脳髄が落ちている。


 ■■■


 同じようなことが、その先々でも起こった。

 どうやら〈ランドセルのあなた〉意外にも、各迷宮に〈それぞれの過去のあなた〉がいるようだった。

 その〈あなた〉たちがそれぞれ新しい脳迷宮を生み出している。

 〈あなた〉たちは脳のワープ機能を使って別の脳迷宮へ移動し、あるいはミノタウロスの襲撃に遭い、逃げだす。すると〈新たな場所〉に関連した〈新しい恐ろしいもの〉が生まれる。とうぜん〈新しい過去の記憶〉も創造される。

 そして更に、〈新しい脳迷宮〉に迷いこんだ〈過去のあなた〉が更に〈恐ろしいもの〉に遭遇し、また〈さらに新しい脳迷宮〉が生まれる。この繰り返しだ。


「ミノタウロスのせいで記憶の中の僕たちが一斉に逃げ出したのでしょう。追われていたわけでもない〈僕〉たちまで! そうだった! そうなった! 〈僕〉は幼稚園のジャングルジムで、九歳のデパートで、修学旅行のハウステンボスで、中二の夜祭りで、泊まりがけのアルバイトで、教習所で、京都で、群馬で、大人になってから訪れた数々の迷宮で、あの編集者の肝臓にナイフを突き立てた時にも、〈恐ろしいもの〉に襲われているのです! そうだった! そこで頭を割られて死んだような気もするし、ずっと、ずっと、ずっと逃げ続けている気がする。そのどちらも現実の記憶なんですよ、そうなった! 素晴らしいですよ。すごい迷宮。僕の脳自体が迷宮なんだ! NO迷宮NOライフ! 脳迷宮脳ライフ!」

「これもうあと何個迷宮があるんだよ!」

 詞浪さんの脳は限界だ。


 もはや迷宮に決定的なインフレーションが始まっていた。

 脳迷宮を辿った先に〈扉〉はあるに違いないのだが、そこへ辿り着くための選択肢が多すぎる。無数脳迷宮のなかから、我々は正解を引き当てなくてはならなくなくなった。

 とはいえ選択肢はない。我々は脳迷宮の中の脳の群れへ飛びこんでいった。

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