第41話 メリー・メアーの花迷宮 2


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 サイクルジャージを羽織った詞浪さんが、西瓜に玉乗りして、スイートルームを行ったり来たりしている。

 その可愛い姿も目に入らないらしく、あなたは次のように繰り返す。眼球が不随意な運動を繰り返している。

「ここは何処なのですか、ここは何処なのですか」

 ここは〈ホール〉ですよと私はなだめる。


「では、僕はその前はどこにいたんですか、目覚めたらホテルのベッドにいたのです。ホテルのベッドへ入る前は何処にいたというのですか? 頭がぼうっとして……長い夢を見ていたようだ……。あなたは知っているのですか? 僕のことを?」

 あなたは早口にそういう。

 私は、あなたが何者かは知りませんが〈ホール〉に来る前にあなたが何をしたかは解ります、と応えた。

「私が此所に来る前は何をしていたか? あなたにそれが解るのですか? 私のことを知らないのに? あなたさっき『はじめまして』っていいましたよね? あなたは私に初めましてといったのに、私が此所へ来る前に何をしていたか解るという、あなたは僕のことを知っているのでは?」


 ええ。ええ。大丈夫ですよ。私はもう一度なだめて、それから間を置いてから、此所へ来る前、あなたは眠っていたはずです、といった。

 眠ることが〈ホール〉へ訪れるための銀の鍵なのです。

 あなたは黙って聞いている。


 〈ホール〉について、ぜひ憶えておいてほしいのは、ここが現実とは別の世界だということだ。

 日本の街並みも、民家の表札の文字から空を巡る星の列びまで、すべて我々の住む世界と同じだ。しかしまったく別の、どこかにある世界である。

 違いは一目瞭然で、人間が一人も棲息していないことだ。畑のトマトやコンビニおでんも、現実そのままだが、人間だけがいない。綺麗な廃墟というと奇妙になる。

 世界一精巧な世界のレプリカといえばわかりやすいだろうか。


 例えば、このリゾートホテルから海岸沿いに少し行ったところに大塚国際美術館がある。世界の名画その他の芸術作品の、精巧なレプリカが千点以上も展示されてる。

 それも〈ホール〉には現実世界そっくりのレプリカとして存在する。

 つまり、このホテルから海岸沿いに歩いて行って、レプリカの美術館へ入れば、我々は現実のレオナルド・ダ・ヴィンチの筆致まで精巧に再現されたレプリカを、さらに複製した〈ホール〉製レプリカを眺めることができる。

 余計わかりにくいでしょうか、と私。

「ごめん、もっかいいって?」と詞浪さん。


 ともかく、私が強調したいのは、この〈ホール〉はレプリカ的な別の世界であって夢の中にいるわけではない、ということだ。

 〈ホール〉は夢ではない。我々の方が、夢とともに〈ホール〉という舞台へ入ってくるのだ。


「うん。続けて?」

 詞浪さんはベッドで横になっている。彼女は聞き飽きているのだ。シーツから素足を出して、爪先で西瓜を転がしている。

「つまり……あの迷宮は私の連れてきた悪夢だというんでしょう」

 あなたは大変物解りがいい。

 私は一応話を続ける。鉢植えの巨大鶏頭を撫でたりそのヒダの中に指をつっこんだりしながら続ける。詞浪さんも素足の指をつっこんでくる。


 眠りが鍵になると、さきほど私はいった。

 〈ホール〉は、我々の脳髄とつながっている。我々は現実の世界でベッドに入り、眠ることで〈ホール〉へやって来る、ということだ。

 一体、現実世界で眠っているはずの我々が、〈ホール〉でこうして肉体を得ているのはどういうことなのか、それは謎だ。

 〈ホール〉が現実世界のレプリカであるように、〈ホール〉へやって来た我々客人の身体も〈ホール〉から与えられたレプリカなのかもしれない。


 とにかく、重要なのは、我々が、我々の脳髄から抜け出して〈ホール〉へやって来るということだ。

 その際、心と一緒にその夜見るはずだった悪夢と共にやってくるのだが、詞浪さんの西瓜やあなたの迷宮もそうしたものだ。

 悪夢の内容は、その人の過去や欲望に応じたものとなる。それは普通の夢と同じだ。

 この説明を聞いたあなたは、次のようにいう。目線はドアの方をさ迷っていて、たぶん、迷宮化したホテルのことを考えているのだと解る。


「僕はただ、迷宮に惹かれるだけなんです。ゲーム何かをしてもダンジョンのマップを埋めることの方に熱中してしまうくらいで。迷宮は真っ直ぐ進むべき道を迂回させて迂回させて、それによって〈恐ろしいもの〉を遠ざけるためにあるんだ。二十メートルの距離を一キロの行程に変えて、その距離の分だけ〈恐ろしいもの〉を封じ込めたことになるんだな。そういうものなんだ。僕はそれをよく知っているんだ」


 あなたは、子供の頃から遊園地の迷路が不思議で好きだった。図鑑を開いては、シェーンブルン宮殿の迷路庭園や、ロングリートの巨大迷路に溜息をついたりしていた。大人になると実際にそうした迷宮へ旅行するようにさえなったとあなたはいう。

 あなたは文系の教員だというが、迷宮嗜好症と文芸にどういった関連性があるのか、私には不明である。


 あなたは教員をする傍ら、ある編集者から打診を受けて教材を出版することになっている、という。

 その編集が問題で、完成間際になって原稿に根本的な修正を依頼してくる。深夜に電話をかけてくる。肝心の契約に関してはお茶を濁すという有様で、しかもあなたから苦情や提案を持ちかけると、連絡が取れなくなる。そうしたことが繰り返されているのだという。


「昼の仕事だってあるし、教材出版のことを考えると、不安で夜も眠れないのです。もうずいぶん遺跡見物にもいっていない。こんな悪夢を連れてきたのは、そうしたことがあったせいかもしれません」

 あなたはそういって笑ってから、次に「つまり、迷宮に入っていって出口を探さないと、此所からは出られない、ということでしょう」

 とそういった。大変物解りがいい。


「おっ。やっと行く?」

 詞浪さんがシーツのなかでレーサパンツを履きはじめた。

 なお、余談ではあるがレーサパンツのしたには下着を履かないのが普通らしいですよ。


 ■■■


 我々は眠ることで〈ホール〉への〈扉〉が開き、逆に〈ホール〉から〈扉〉をくぐることで、現実の眠りの中へ帰ってゆける。

 つまり〈扉〉を見つけられない限り〈ホール〉からは帰還できない。

 あなたは自分の目覚めた部屋を調べてみるが〈扉〉らしきものは見つからなかった。


「迷宮の中ですよ。僕の〈扉〉は迷宮の中にあるに決まっているのです。そもそも迷宮とはそういうものでしょう」

 あなたはそういうし、私も正しいと思う。

 だがここで待つという選択肢もあることにはある。

 〈扉〉の姿や在り方は客人によって様々で、百キロ以上先の〈扉〉を自転車で往復する詞浪さんのような者もいれば、特定の時間が経過しないと現れない〈扉〉などもを持つ客人もいた。だから、我々が出発したあとで、この部屋に〈扉〉が現れない、という保証はない。


 とはいえ、あなたは行く気だ。私も折角の迷宮を見過ごす気はない。

 〈ホール〉では現実に存在し得ないようなものに出会える。それが恐怖を呼び起こすような異常な光景でも、求めて入りこめば、逆に癒やしともなり得るのだ。

「さて。どんな悪夢が視られるかな?」

 詞浪さんが窓のカーテンを開けた。


 本来なら眼下に海辺が見渡せるはずだった。

 それが今では景色が迷宮で埋め尽くされている。

 鶏頭の花のヒダより複雑な、シェーンブルン宮殿の迷路庭園より遙かに広大な迷宮が、陸を、浜を、海まで埋め尽くし、どこまでも広がっている。迷宮の果てがどこにあるのかは誰にも解らないだろう。

 これが、あなたのための迷宮だ。

 「――ひひ」

 素敵な迷宮を前に、あなたの口から再び笑いが洩れる。

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