メリー・メアーの尾骨

第8話 メリー・メアーの尾骨 1


 かつてある心理学者がこういった。

「夢とは、脳の小部屋で演じられる無意識の舞踏である」と。

 対して〈ホール〉は外だ。


 我々は悪夢とともに脳髄から出て〈ホール〉で踊るのだ。




1


 伸び伸びとしたいい天気だった。

 リゾートホテルの浜辺で日光浴などしながら、私は考える。〈ホール〉のどこかに羊はいるのだろうか?


 貝はいる。蟲もいる。海に魚が游いでいて、用水路には亀もいた。空にはカモメ。当然、植物もある。砂浜のはしに野生のソテツがぽつんと生えていて、試しにパイナップルに似た葉を囓ってみると、苦さで舌が痺れた。


 以前、動物園へ確認しに行ったことがある。

 檻には何もいなかった。象もキリンもライオンも、孔雀もカピバラもいない。あの可愛いカピバラさえも。

 水族館も同様だった。

 海には鰯がいるのに、水族館は空っぽの水槽なのだ。

 バックヤードへ忍びこんでみると、餌になる予定のないニシンが大漁に冷凍保存されているのを発見した。〈ホール〉の冷凍ニシンは、多少歯が獰猛なこと以外、現実世界のそれと遜色がなかった。味は生臭さが強かった。

 事務所には飲みさしと思われるコーヒーカップが出しっぱなしで、舐めてみるとこれもたいそう生臭かった。

 それ以外は、まったく現実と変わりない。これが〈ホール〉だ。


 〈ホール〉は生命の排除された世界である。

 だとすれば海に魚がいるのはおかしいが、〈ホール〉のルールにとって、彼らは生命というより自然環境に分類されているのではないかと私は考えていた。

 対して水族館の魚は自然環境ではない。飼育員たちの同僚であったり、友達であったり、敵であったりするのだろう。だから存在していない。

 無人無辺のこの〈ホール〉は、ある意味で人間中心の世界といえるのかもしれなかった。人間を基準に物事が振り分けられている。

 ではこの烏賊君はどうだろうか?


 ビーチチェアの上で思索を続けながら、私はちょうど海から這い上がってきた烏賊の如き何かを抱き上げてみる。

 烏賊君はイカのようでいて、イカではない。図鑑には存在しない〈ホール〉だけに棲息する生物である。

 私はそうしたものを、身近なところでは烏賊君しか知らない。

 裏返して、触手をかきわけてみると、嘴の代わりに人間そっくりの口がある。四角い前歯がぞろりと並んでいて、その上下の間で、紫の舌がひらひらしている。

 どの程度の知能があるのかは謎だが、ときおり血の気のない唇をすぼませて、何か謎めいた、威嚇とも意思表示ともつかない動作をした。

 日向ぼっこなどで睡ってしまうと、この烏賊君がいつのまにか群がってきて、お臍の周囲に歯形をつけられていたりするから注意が必要だ。それ以外は害のない生物といえる。


 この烏賊君はどこから来たのだろうか?

 生態系に適合した生物だとは思えない。

 だれか〈客人〉の連れてきた〈悪夢〉が定着したのだろうか?

 それとも〈ホール〉においてなんらかの役目を担った環境生物なのだろうか?

 分からなかった。

 同じように、犬や猫の如き何かも、あの可愛いカピバラも、探せばどこかにいるのかもしれなかった。

 では羊はどうかな? などと烏賊君に話しかけると、烏賊君は私の口の動きを真似して、名状しがたい声で鳴いた。こういう生き物なのだ。

〈では羊はどうかな?〉

 そんなことをして遊んでいると、島のなかに人の気配が生じる。

 また悪夢をかかえた客人がやってきたのだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る