第6話 メリー・メアーの火冠 6



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 かつて、どこかの凡庸な学者がいった。「悪夢とは欲求と、畏れの混血児である」と。

 悪夢には、人の望みがふくまれているということだ。では、客人たちは悪夢の中に望み抱えて〈ホール〉へやって来るのともいえるのではないか。私と同様「癒やし」を願っているのだ。私は人を救いたいとおもったことはないが「癒やされたい」と思う心は理解できる。


 私は少年の手を取って、引き起こす。冷え切っていると思ったら、異様に熱い手だった。その熱い手のひらに先ほど悪夢を閉じこめた小箱を乗せてやった。少年は少し怯えたような、困惑した顔をした。私は彼に向かって、あなたは自分の望みを知るべきです、といった。

 箱のなかの悪夢に大した力はないが、心を開いて覗けば、その悪夢の形をほんの少しであるにしろ、知ることができるはずだった。そしてその悪夢の中には彼の望みの欠片が混じっているはずなのだ。悪夢であるからには、それは禁忌の形をとっているだろう。現実には受け入れられるはずのない望み。欲望。だが〈ホール〉に禁忌は存在しない。すべては野いちごと同じことなのだ。

 さあ、悪夢を。私は少年を誘った。

 たぐり寄せられるように、彼は小箱へ顔を近づけた。私が封を解くと、中からゆらめく光がこぼれた。

 彼は、それを隙間から覗いただけだった。でも、それで充分だったのだ。

「ああ――僕は」

 溜息のように呟くと、彼はしっかり立って、浜の方へ向かっていた。車はまだ炎えていた。彼は砂浜にうちあげられた角材を拾って来て、それを松明とした。

「ここのホテル。前を通ったことは何度もありますが、入ったのは初めてでしたよ。今日は楽しかったなあ」

 しみじみとそういってから、彼は自分の家目指して歩きはじめた。

 返してもらった小箱の中でも、悪夢の火種が燃えていた。


 ごく狭いリゾート地帯を除けば、私たちのいる地域にあるのは、海産業と農家ばかりである。到着した少年の家は農家らしかった。

 家は二階建ての木造家屋で、小さな離れがあり、さらにそのとなりにトタンで外壁を囲った農作業用のガレージがあった。ガレージには泥のこびりついた軽トラックが停まっている。家の背後は湿った森がせまっていて、そのせいで一帯は黒く沈んでいた。

「ここ、僕の家です。ああ。うちの臭いだ。〈ホール〉でもまったく同じだ。僕は死ぬまでここで暮らしていくんです。同じ家族とずっと」

 入っても良いかと、訊いたが断られた。

「学校は楽しかったけれど『家に遊びに行っていいか』と友達に聞かれるのが何より嫌でした」と彼はいう。

 物干し竿に、汚れた布団がかかったままになっている。

「向こうがおばあちゃんの使っている離れ。こっちは僕ら家族。誰も居ないんですよね? 人は」

 そう念を押すと、少年は自分の家へ炎を近づけた。〈ホール〉製の炎は蛇のように走って、たちまち家中へ広がった。彼は離れも焼いた。二つの大火が合流した。炎の飛沫が飛び散って、枯れ草を焦がした。少年の頬も焼けたが、彼は動かなかった。家が燃えるのをじっと見ていた。

 屋根が音を立てて崩れた。火焔は渦を巻いていた。その轟きは凄まじく、空へ登っていく土石流のようだった。

 だいたい裸木造の建物が燃え落ちるには二十分もあれば充分なのだという。それよりはもっと早かった。

 まだ火のくすぶっている焼け跡を彼は静かに眺めた。

「狭い敷地ですね。世界の半分くらいに思っていたのに。これからは世界のぜんぶになる場所なのに。こんな小さな囲いの中で、泣いたり笑ったり絶望して一生を終えるのか。下らないな。こんなものなくなってしまえばいいと思っていた。これがぼくの悪夢の形なんですね」

 そう呟いて少年は肩を落とした。

「八つ当たり、終了です。もう、帰らなくてはいけませんね」

 私は返事を保留した。そのまま、ちょっと離れたところにある名前も知らない人の家へ向かうと、あっさり見つけ出したキーで車を発進させた。加速して、家屋の目前でドアを開けて飛びおりた。車は名も知らない人の家へ突っこんでいき、爆発ののち炎上した。再び眩しい炎が上がった。

「タナカさんの家が!」

 少年がびっくりして声を上げた。タナカさんの家らしい。タナカさんの家は見事に炎上している。タナカさんの家の炎上する様はとても綺麗だ。

「え。なんで? 何で燃やした? 田中さん悪いことしてないよ」

 「悪い」かどうかは関係ないのだ。〈ホール〉には善悪も法も、命すら存在しない。私にとって意味があるのは「癒やされる」かどうかなのだ。やはり野いちごと同じことだ。

 タナカさんはあなたを救ってくれなかったのでしょう、と私はそれだけ応え、先に立って歩きだした。行きましょうか。あなたを救ってくれなかった町へ。ゆっくり、しかし確実に、少年の顔に笑みが広がっていくのを私は見た。


 我々は町を焼いてまわった。

 はじめ戸惑いがちだった彼も、やがては進んで火を放った。

 私たちは街を焼いてもかまわない。これは悪夢なのだから。

 火焔の轟くなかで、私達は自然大声になった。肩を組んで、顔を寄せ合い、終始笑いっぱなしでいた。肺を焼く空気。眩しく揺れる視界。踊る足取り。

 もはや、松明を使う必要もなかった。

 彼が腕を振るうだけで、彼の悪夢はほとばしって遠くの家々を燃え上がらせた。

 農業組合会長は悪い人ではないけれど、組合会長の家も焼いた。それが悪夢というものだ。漁業組合も焼いた。同級生の家も、教師の集合住宅も、他人の家も、学校も、大学も、犬小屋も、丘も、船も、河も火焔に変えてまわった。

 

 電線が溶ける。

 火だるまの車が狂って走りだす。ガソリンスタンドの爆発は夜空を焦がし、火を降らせた。火の雨は私たちをも燃やした。

 少年の頭が燃えている。燃える悪夢は頭上で不思議な動きをして、それがまるで王冠のように見えるのだった。

 私達は高いところに立った。当然その山も燃やした。遠くにコンクリート製の橋が見えた。

 あれが燃え落ちたら、さぞ雄大でしょうね、と私はいう。

「あなたが見たいのなら」と彼は応える。

 橋はいくつかのパーツに崩れて、燃えながら落ちていった。音は遅れて耳へ届いた。すべては焔の色と轟音に包まれていた。

 私たちは下界を眺めた。町は火焔の海に沈んでいくかのようだった。

 海までも火の色に輝いていた。

 火焔はもはや豪風となって、瓦礫を星のように輝かせながら、空へ吹き散らしていた。

 少年が呟く。

「ああ。地獄のようだ」

 あなたのための地獄です、と私はいう。

 よりそって、夜が明けるまでのあいだ、私たちは限りない癒やしを感じていた。

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