10〈mof〉 いぬとぎぼ


 これは今より昔、瀬名がまだいぬの姿だった頃の話です。




 * *




 晴れた秋空の下、瀬名は先輩につながれて、散歩しています。

 吹き渡る風は清涼としていて、どこからか花の香りを運んできます。空には雲ひとつなく、とっても気持ちがいいです。


 花の香りに釣られて、いつもの散歩コースを外れていく瀬名を、先輩は優しく見守ります。無理にリードを引っ張ったりはしません。

 「たまにはそっちに行くのもいいか」といった様子です。


 匂いを辿った先には、とってもいい香りの花がありました。甘くて芳醇で、ずっと嗅いでいられそうです。

「きゅーん」


「孝太郎?」

 突然、知らない人間の声がしました。


 見ると、女性です。こっちに近寄ってきます。


「わう……」

 知らない人はこわいので、先輩の後ろに隠れます。


「まあ! なんてかわいいいぬなの! 孝太郎、あんたどこから攫ってきたの」

「さ――人聞きの悪い。野良だったところを拾ったんだよ」


 知らない人は、先輩と仲良く会話を始めます。随分親そうです。


「瀬名、大丈夫、こわくないよ。俺の母さんだ」

 先輩は、優しく瀬名に話しかけてきます。


「わう?」

 先輩のお母さん?


 考えてみれば、先輩に両親がいるのは当たり前のことです。先輩だって無から生まれてくるはずないのですから。




 * *




 瀬名は知らない家に連れて来られました。

 でも、先輩と似た匂いがする場所です。


 どうやら、ここは先輩のお母さんが住んでいる家のようです。


「とってもかわいいワンちゃんね~」

 先輩のお母さんは、にこにこしながら瀬名を見ます。


 その表情には、先輩の面影があります。先輩と同じ色の頭をしていますし、心なしか匂いも少し似ています。


「瀬名っていうんだ。マルチーズの女の子で、すごくお利口でいい子だよ」

「わうん!」

 先輩に褒められて、いい気分です。


「今は初めてのところに連れて来られて、ちょっと緊張してるみたいだ。元々人見知りだし」

 そうです。瀬名は早くお散歩に戻りたいです。


「こんなにかわいいワンちゃんは初めて見たわ~。ちょこんとおすわりしちゃって。毛並みもふわふわしてるし」

 知らない人にまじまじと見られて、余計に窮屈な気分になってきました。


「こんなことなら、いぬのおやつでも用意してればよかった。今からでも買って来ようかしら」

「い、いいよ。瀬名は食いしん坊で、最近丸くなってきたから、おやつをひかえめにしてるんだ」


「きゅ……」

 丸くないです。道理で、最近おやつのほねまんまが減ったわけです。

 少しむくれる瀬名でした。


「いいじゃない、いぬは少しくらい丸くたってかわいいわよ~」

 確かにそうです。ほねまんまを減らすのは横暴です。


「か、かわいいけど、それで病気にでもなったら大変だろ? 瀬名が苦しんだり痛い目に遭ってほしくないんだ。小型犬は特に繊細だし」


「くーん」

 そう言われてしまっては、おやつを我慢するしかない瀬名でした。


 先輩のお母さんは、急に瀬名を抱え上げました。

「きゅ!?」

「まぁ、もっふもふねえ」


 彼女は、瀬名を顔の前まで持ち上げると、前足を動かします。

「ワンワン。孝太郎くんは今日も元気だワン」

 ヘンな声でしゃべっています。


「母さん、瀬名で遊ぶなよ」

「遊んでないワン。遊んでるのは孝太郎くんの方だワン。真面目に大学で勉強しろワン」

「ちゃんと勉強してるって」

「わう?」


 先輩は、お母さんの腕から瀬名を取り返すと、自分のひざの上に乗せました。

 やっぱり、先輩のひざが一番落ち着きます。


「母さん、もしも俺に何かあったら、瀬名のことは頼んだからな。ちゃんと大事にしてくれよ?」

「何よ、縁起でもないこと言っちゃって」


「いや、どうしても外せない用事で家を何日か空けたりするかもしれないだろ? そのときは瀬名の面倒、頼んだからな」


 先輩と一緒にいられなくなる?

 どんな理由であれ、そんなのは嫌です。


「分かったわよ。こんなにかわいい子の面倒なら、いくらでも見るわ」

「ありがとう。じゃあ、俺はそろそろ帰るよ」


「何よ、折角来たんだから、夕食でも食べていけばいいのに」

「瀬名が不安がってるし、今日はやめとくよ。それじゃ」


 先輩は、お母さんと仲がよさそうです。ちょっとじぇらしーです。

 だけどそれが家族というものなのでしょう。


「くーん……」

 じゃあ、瀬名は?

 瀬名のお父さんとお母さんは、どこにいるのでしょう。




 * *




「むにゃ……わう……」

 眠い目をこすりながら、瀬名は身体を起こします。


 夢を見ていたようでした。

 夢というよりも、昔のこと思い出しただけですが。


 瀬名の腕が、まだもふもふの前足だった頃のことです。

 今はすっかり人間の腕ですが。


 まだ部屋の中は真っ暗です。

 どうやら、夜が明ける前に目が覚めたようです。


「わう?」

 隣に先輩がいません。道理で、なんだかいつもよりぽかぽかしないと思いました。


 シーツのしわも、ブランケットのふくらみも、先輩がそこにいた痕跡を残しているのに、先輩だけがそこにいません。


「先輩?」

 呼んでも、反応してくれる人はいません。


「わ、わう……」

 瀬名の中に、ざわざわとした気持ちが膨れ上がっていきます。


 悲しいのか、さびしいのか、よくわかりません。辞書に載っているどんな感情の単語でも、この気持ちは言い表せません。


 瀬名は、急いで家中のドアを開けます。お風呂も、ベランダも、靴箱も、洗濯機の中も見てみます。でも、どこにも先輩はいません。


 玄関には、先輩がいつも履いているスニーカーはありませんでした。


「せ、先輩……」

 家にいないのだということが分かりました。

 そりゃ、これだけ探してもいないのですから、当然です。


 瀬名は、そっと玄関のドアを開けました。

 その先に先輩の気配などあるはずもなく、ただ暗闇だけが佇んでいます。


 外は、暗くてとってもこわいです。吹き抜ける夜風の匂いは、瀬名が野良だった頃によく知ったものでした。


 慌ててドアを閉めるものの、先輩がいないことに変わりはありません。

 瀬名は、とうとう泣き出してしまいます。


 家でひとりでお留守番なんて、いつもやっていることです。

 瀬名は、いつもいい子でいられたのに。

 どうして今だけいい子になれないのでしょう。


「わう……っ、先輩……っ」

 先輩のまくらをぎゅっと抱きしめます。先輩の匂いがしました。


 先輩がくれるぽかぽかがないと、瀬名はダメなのでした。


 どれくらいの時間泣いていたのか、玄関の方からごそごそと物音が聞こえ始めます。


「わう……?」

 間違えるはずがありません。これは、先輩が帰ってくるときの音です。


「わうーっ!」

 急いで玄関に向かうと、やっぱり先輩がいました。

 目を真っ赤にした瀬名を見て、驚いています。


「先輩、先輩っ」

 瀬名が泣き止むまで、先輩はぎゅっとして、なでなでしてくれました。


「ごめんな、ひとりにして」

「わう……先輩は何も悪くないです。いい子でいられない瀬名がいけないんです」


「瀬名は悪くないよ。今日電気代の期日だったのに払ってないことを思い出してな。急いでコンビニに行って払ってきたんだよ」


「わう……」

 瀬名は、なんだそんなことか、と思いました。先輩が出かけていた時間も大して長いものではなかったでしょう。


「じゃあホットミルクでも飲んで、寝直そうか」

「わう」

 やっぱり先輩はとってもぽかぽかします。


 ホットミルクを飲んだ後、先輩と一緒に布団に入ります。


 瀬名は、先輩にぎゅっと抱きつきます。先輩と離れないように。先輩が決してどこにも行かないように。

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