8 いぬ・はんこうき


 瀬名が反抗期になった。


「先輩なんて好きじゃないです。あんまりさわらないでください」

 ぷいっとそっぽを向いている。


 珍しい。普段は、これでもかとなでなでをねだってくるのに。


 俺は、試しに彼女の頭を撫でてみる。

「撫でれば喜ぶと思わないでください」

 つーんとそっぽを向いたままだ。


「でも、しっぽぶんぶん振ってうれしそうじゃないか」

「なっ――しっぽは見ないでください!」

 見てはいけなかったらしい。


「別に先輩に撫でられてもうれしくありませんから」

 しっぽを振りながら、澄ました顔をしている。


 一体どうしたのだろう。

「瀬名、何かあったのか?」

「何もないです。構わないでください」


 わうわうな女の子は、こちらにもふもふのしっぽを向けると、本を読み始める。

 うーん、明らかに様子がおかしい。


 まぁそういう時期もあるのだろう。深刻な雰囲気ではないし。

 俺は気にせず大学の課題に取り掛かった。




 * *




 黙々と発表の資料を作っていると、瀬名が寄ってくる。


「先輩、そろそろ散歩の時間です」

「ああ、じゃあ行こうか」

「わう」


 あんまりさわらないでと言われたので、手をつながないべきかとも思ったが、瀬名は当たり前のように俺の手を握ってきた。


 その後も、いつもの散歩と大して変わらない。




 * *




「先輩、そろそろ寝ましょう」

「ああ、そうだな」


 布団を敷いて横になると、瀬名が寝床の中に入ってくる。

 当然のようにくっついてくるところまで、普段通りだ。


 相変わらず、あっという間に入眠すると、俺のパジャマの襟をがじがじ甘噛みしている。


「せんぱ……むにゃ……もうたべられないです……」

 随分のんきな夢を見ているらしい。……俺を食べているわけではないよな?




 * *




 反抗期ってこんなに生活が変わらないものかと、俺が思っていると、

「先輩っ」

 瀬名が抱き着いてきた。


「抱っこしてほしいです」

「あはは、分かったよ」

 ご要望通りに抱っこすると、瀬名は「わうー」と鳴く。


「なでなでもしてほしいです」

 注文が多い。


「こないだの、『あんまりさわらないで』っていうの、なんだったんだ?」

「ああ、あれは、釣られた魚にならないためです」

「釣られた魚?」


「いぬの知り合いに訊いたんです。どうすれば先輩を瀬名にメロメロにさせられるかって。そうしたら、恋愛は惚れた方が負けだって言われて……」

 よく聞く説だ。


 その話に基づけば、両思いはお互い敗北ということになるので、なかなかイカしている、と思う。


「男は釣った魚には餌をやらないから、いつまでも追われる女でいないといけないらしいんです。だから、澄ました態度を取って、撫でられても喜んじゃいけないって」

「なるほど……」


「でも全然効果ないし先輩構ってくれません」

 そりゃ構われたくないという態度をされたら構わなくなるだろう。


「別にそんなことしなくても、俺は瀬名にメロメロだよ」

 メロメロって死語じゃないのかと思いつつも口にする。


「ほんとですか!?」

「ああ」

 黒髪の少女は、すりすりして甘えてくる。


「もっといっぱい撫でてほしいです」

「あはは、わかったよ」

 要望通り撫でると、ぱたぱた尻尾を振っている。


「わふふー、先輩、もっと瀬名にメロメロになってほしいです」




 * *




 そんなこんなで、瀬名の反抗期は終わった。

 端から反抗期だったのか疑問だが。


 瀬名は俺の膝の上に乗って、抱きついてくる。

「わう」


 いつものスキンシップタイムだった。俺は彼女の小さな背に左腕を回して、右手で頭を撫でる。


 彼女がいぬの姿だった頃は毎日意識してスキンシップの時間を取っていたが、すっかり今では習慣となった。いぬにはスキンシップが必要なのだった。もちろん、人間にも。


「わうー」

 瀬名は俺の首筋をぺろぺろ舐めている。なんともくすぐったいが、彼女がそうしたいのなら止める理由はない。終いには、歯を立ててかぷかぷ甘噛みし始めた。


「せ、瀬名っ」

「わう?」


「首は跡が残るから、噛むなら別のところにしてくれ」

「わう……」

 彼女は、今度は俺の耳をかぷかぷし始める。


「瀬名、歯がむずがゆいのか?」

「そんなことないです。先輩にくっついてぽかぽかすると、なんだかかぷかぷしたくなります」

 うーん、甘え方のひとつなのだろうか。


 いぬの噛み癖は早いところやめさせた方がいいが、別に彼女は無差別に噛み付くわけじゃないし、加減もできる。瀬名には普段外ではいぬの習性を我慢してもらってることだし、家でちょっと甘えてくるくらいは別にいい気がする。甘やかしすぎだろうか?


 瀬名は大きな瞳をこちらに向けてきて、ぱちくりまばたきをする。


「先輩は、どんなときに怒るんですか?」

「え? 普通に怒ってると思うけど」


「わう! 先輩が怒ってるの、見たことないです」

 果たしてそうだろうか。少し記憶をたどってみる。


「えーっと、前に瀬名がケーキを全部食べたときとか、怒ってなかったか?」

「あれは怒りではなく叱りです。もっとぐわーっと怒ってる先輩、想像できないです」


 たしかに、その言葉はごもっともだった。瀬名がケーキを全部食べたからといって、それで頭に来るはずがない。約束を破ったのはいけないことだから、教育的に怒る必要があっただけだ。瀬名の言う「ぐわーっと」とは程遠い。


「うーん……」

 俺は、どんなときに怒るのだろう? さらに範囲を広げて記憶を遡ってみても、ぴんとくる思い出はなかった。考えてみれば、そうはっきりと怒ったことはないかもしれない。


「俺って、何で怒るんだろうな……」

「わう、瀬名が訊いてるんです」

「あはは、そうだな」


 何が起きれば自分がかっとなるのか、わからなかった。どうやっても、そこまで感情を持っていけない気がした。


 たとえば、誰かに悪口を言われたとしよう。それで俺が怒るのかといえば、全くそんなことはなかった。


 だってそれはその言葉を発した当人の認識でしかなくて、それ以上ではないからだ。別に今ここにいる俺に何の影響も及ぼさない。ああ、この人はそう思っているのだと、そう感じるだけだ。


 だけど、悪口の対象が俺ではなく――たとえば今目の前にいる瀬名だったら。そして、その無神経な言葉で彼女が傷ついていたら。俺は、きっと許せないと思うだろう。


 しかし、そこで俺がすべき行動は怒ることなのだろうか? 相手に釘を刺すことは必要だろうが、冷静さを欠いてはいけない。


 自分は、どんなとき激情に駆られるのだろう。

 もしも、瀬名が俺を――いや。そんなことはあり得ないのだった。彼女はこんなにわうわうなんだし。


「瀬名がずっといい子にしてたら、先輩は怒ったりしないよ」

「わうー! 瀬名、いい子にしてます」

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