14〈mof〉 ひとの一日・下


 この人間と暮らすようになってから、少し経ちました。

 毎日お散歩に連れて行ってくれるし、おもちゃで遊んでくれます。部屋の中には、いぬのためのものが充実してきました。


 ときどきくれるおやつは、初めて食べたものですが、とてもおいしいです。

 どうやら、ほねまんまという名前らしいです。


 でも、人間は信用できません。

 人間は、いつかはいぬを捨てるのですから。


 最初のうちはかわいがってくれても、飽きたら終わりです。

 だから、心を開いてはいけないのです。


 その日は、朝から空が曇っていました。

 雨が降ってお散歩に行けなくなると嫌だなと思っていると、突然外がぴかっと光りました。


「わう……」

 外からゴロゴロ大きな音がします。しかも、結構近くから。

 雷です。


 床がぐらぐら揺れます。轟音が瀬名を直接襲います。

「わうっ、きゃう……っ」

 こわいです。


 雷は、一回だけではありませんでした。

 何度も何度も落ちては、大きな音が鳴り響きます。


 身体がぷるぷると震えます。

 こわいです。

「わうんっ、わうん……っ!」


 野良だった頃の気持ちが蘇ってきます。

 誰にも構ってもらえず、ぽつんとすり潰されていく気持ちが。


 突然。

 人間にぎゅっとされました。

「大丈夫だよ、いざとなったら俺が守るからな」

「わう……」


 腕の中は、なぜだかすごく落ち着きます。

 ぽかぽかが伝わってきます。


「きゅーん」

 雷が止まるまで、ずっと抱きしめていてくれました。




 * *




「わうん!」

 瀬名はひと鳴きすると、自分から人間に歩み寄ります。


 飼われている恩もあるし、ちょっとくらいならなでなでしてもいい、という意思表示です。別に瀬名は撫でられたくないですが、この人間は撫でたいようですし。


 案の定、人間はにこにこして手を伸ばしてきました。

 大きな手が、そっと瀬名の毛並みに触れます。


「もふもふだなぁ」

「わう……」


 撫で方がうまいです。撫でられて喜ぶところを熟知しています。かなりいぬのことをわかっているようです。


 しかし、瀬名は撫でられればすぐしっぽを振るような軽いいぬではありません。つーんと澄ました顔をします。


「かわいいなぁ」

 さらに瀬名を撫でてきます。


「きゅ、きゅーん……」

 ただでさえなでなでに飢えていた瀬名は、巧みな撫で方に、気づくと、ごろんとおなかを見せていました。すると人間は今度はおなかをわしわしと撫でてきます。


「きゃう、きゃうんっ」

 思わず鳴き声が出ます。

 おなかを撫でられるのがこんなにいいものだとは知りませんでした。


 瀬名は、なす術もなくされるがままになります。

 結局、そのままたくさん撫でられてしまいました。


「わうーん……」

 屈辱です。


 この人間は危険です。瀬名をダメにします。




 * *




 それから人間は、しょっちゅう瀬名を撫でてくるようになりました。

 別にうれしくないのに、気づけばまたカーペットの上にごろんと転がって、おなかを見せてしまいます。


「よしよし、おなかを撫でられるのが好きなんだなぁ」

 わしゃわしゃと撫でられます。


 違います、瀬名は別に好きじゃないのに。

 勝手に撫でてくるだけなのに。


「きゃうんっ、きゅんっ」

 大きな手で撫でくり回されるたびに、セロトニンが出まくっています。

 しっぽが勝手に揺れ、喜んでしまいます。


 なでなでに飽き足らず、やがて人間はこちらを抱き上げてきました。


 瀬名はぬいぐるみじゃないのです。こんなふうにぎゅっとされても、別に――

「わう……」


 なんだかぽかぽかしてきました。もうダメです。瀬名は完全にこの人間に飼いならされてしまいました。


 身体が自然になでなでを求めて、飼い主にすりすりしてしまいます。

「あはは、かわいいなぁ」

「きゅ……」


 人間も、瀬名を飼いならしたことがわかったのでしょう。名前をつけてきました。


 瀬名。

 それが、瀬名の名前。


「瀬名は今日からうちの子だ」

「わうん!」


 事こうなっては、仕方がありません。

 飼われることを受け入れるしかないのです。


 瀬名はこの人間――先輩の飼い犬です。


 今度はいつ、飽きられるのでしょう。

 一体いつまで撫でてもらえるのでしょう。かわいがってもらえるのでしょう。

 いつ、捨てられるのでしょう。




 * *




「むにゃ……」

 お昼寝から目が覚めると、おひさまは橙色になっていました。もう夕暮れです。


 玄関の方から、ごそごそと物音がしました。

 これは、先輩が帰ってきた合図です。


「わうー!」

 急いで玄関に向かうと、ちょうど先輩が家の中で入ってくるところでした。


「瀬名、ただいま」

「おかえりなさいっ」

 先輩は、瀬名をなでなでしてくれます。一日、お利口にお留守番していた甲斐がありました。


「今日はお土産があるよ。瀬名が好きなやつ」

「わう? 瀬名が好きなやつ? 先輩ですか?」

 そう訊くと、先輩は慌てます。

「……せ、先輩ではない。えっと、お菓子だ」


「わーい!」

 先輩は瀬名をにっこりさせる天才です。




 * *




 瀬名の髪を洗う係は、先輩です。

 というのも、瀬名はまだ自分の髪が上手く洗えません。


 夜になってお風呂に入った後、先輩は瀬名の髪を洗面台で優しく洗ってくれます。


 瀬名はドライヤーの音が苦手なので、タオルで拭いてくれます。

 髪をいくらか乾かした後は、ブラッシングです。


 瀬名のいぬ耳をひっかかないように、丁寧にやさしくブラシを動かしています。たれ耳を持ち上げて、その下の髪もきちんと梳きます。


「瀬名の髪はさらさらだなぁ。全くくせがなくて、全然櫛にひっかからないよ」

「わふふー」

 なんだかいい気分です。毛並みには自信があります。


 最後に、花の髪飾りを着けてくれます。やっぱりこれがないとしっくりきません。


「瀬名は小さくてかわいいなぁ」

「わう……。先輩、瀬名が大きくなったらかわいくなくなりますか?」

「ん? 大きくなったら、大きくてかわいくなるんだぞ」


「む……」

 それはつまりなんでもいいのでは?と思う瀬名でしたが、とはいえ先輩にかわいいかわいいしてもらえるといい気分です。




 * *




「わう?」

 夜も深まった頃、瀬名がふと先輩を見ると、眠りこけていました。


 先輩は確か、「れぽーと」を書くとか言って、ちゃぶ台の上に置いたPCに向かっていました。

 だけど今は床に寝転んで、すごく無防備です。


「わう……」

 瀬名の中によこしまな感情が芽生えます。いたずらしたくなってきました。


 先輩のほっぺたをぺろぺろ舐め始めます。起きているときに舐めると先輩が挙動不審になるので、寝ているときに舐めるに限ります。


 やっぱり先輩は甘くておいしいです。おいしい人間に悪い人間はいません。


 本当は口も舐めたいのですが、口と口をくっつけないのは先輩との約束です。瀬名は約束を守るいい子なのです。


 ひとしきり舐めて満足すると、今度は先輩に抱き着いてくっつきます。これも、起きているときにやると先輩は挙動不審になるので、寝ているときにやります。


「わうー」

 たくさん先輩に甘えられてうれしいです。せっかくなので頭すりすりもします。


 どうして先輩にくっつくと幸せな気持ちになるのでしょう? 不思議です。


 この気持ちには、覚えがあります。瀬名が本当に子犬だった頃。まだ目も開かない、綿毛のような生きものだった頃。


 そのときも、こんなぽかぽかに包まれていました。あたたかくて、優しくて、落ち着く。そんな、ぽかぽか。あれはきっと、瀬名の――




 * *




「わう?」

 どうやら、眠っていたようでした。


 瀬名には、お気に入りのブランケットがかかっています。

 誰がかけてくれたのかなんて、最早考えるのにすら及びません。


 先輩は既に目を覚ましていて、またPCに向かっています。


 うとうとしていたばかりですが、もうそろそろ寝る時間です。

 一日の終わりには、絵日記を描きます。


「わうー」

 今日あったことを思い出しながら、色鉛筆を動かします。どこかにおでかけしたわけでもない普通の一日でしたが、それでも大切な一日です。ちゃんと描き留めておかないといけません。


――きょうは、せんぱいにであったばかりのころをおもいだしました。


――いまとなってはなつかしいです。


 鉛筆で、ひとつひとつ文字を書いていきます。人間の手は、字を書けたり絵を描けたりするので、便利です。先輩は、肉球ざらざらないぬの手もかわいいとほめてくれますが。


――せんぱいになでなでされたり、ぎゅっとされると、とってもぽかぽかになります。


 瀬名をなでなでしてくれたり、ぎゅっとしてくれる先輩の大きな手が好きです。


 にっこりの先輩と、にっこりの瀬名を描きます。

「わふふー」

 描いてるだけで、ぽかぽかになってきます。


 最後に、文章を付け足します。


――せんぱいと、ずっとずっといっしょにいたいです。


――これからも、ずっと。


「瀬名、そろそろ寝ようか」

「わう!」

 日記帳と鉛筆を、瀬名専用のカラーボックスに仕舞います。

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