12 いぬの名前
扉絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817330650680997580)
「ただいま」
家に帰ると、いつものように瀬名がぱたぱたと駆け寄ってくる。
今日は、講義が長引いて帰りが少し遅くなってしまった。
「わうー」
瀬名は抱きついてくる。寂しかったらしい。
「ごめんな、遅くなって」
「わう。大丈夫です。番犬もいぬの仕事です」
俺は目の前の小柄な女の子を見る。番犬というか、むしろ守られる側だ。
こんなアパートにわざわざ空き巣に入る人間もいないと思うが。
「瀬名、もし空き巣や居直り強盗に出会ったら、真っ先に逃げるんだぞ。お金や貴重品よりも、先輩にとって一番大事でかけがえがないのは瀬名なんだからな」
「わう……」
目の前の女の子は真っ赤になって照れていた。真面目に言ってるんだが……まぁいい。
「瀬名、お土産を買ってきたんだ」
「おいしいものですか?」
「いや……食べものじゃないんだけど」
俺は、買ってきた自由帳を差し出す。コピー用紙に絵を描かせるのもなんか忍びないしな。
「なんでも自由に書けるノートだよ。おえかきにでも使ってくれ」
「わうー! ありがとうございます」
わうわうな女の子は、うれしそうにしっぽを振っている。
喜んでもらえたらしい。
部屋の中に入ると、瀬名はそそくさと広げていた本を棚に戻し始める。
彼女は、俺が出かけている間は家にある本を読んでいる。
日本語が話せるのと同じように、日本語を読めるらしい。それでも横文字なんかは分からないようで、ときどき訊いてきた。
辞書の使い方を教えると、時折何かを調べている。勤勉だ。
とはいえ、本棚にはもっぱら古文の注釈書とか、そんなものしかない。娯楽のための本は大方を実家に残してきたし、それ以外の本は図書館などで済ませているからだ。
一から本に触れるなら、もっとやさしくてエンタメ的な本がいいのではないのだろうか。
「本が好きなら、次の散歩のときにでも、本屋に連れて行こうか? 好きな本を買ってあげるよ」
「いえ、いいです。ここにある本は、全部先輩が好きなものなのでしょう? それを読みたいです」
なんて感心な子なのだろう。
そう思って、頭を撫でる。しっぽがぶんぶんだ。
「先輩、おなかも撫でてください」
瀬名はおなかを俺に見せる。
ワンピースをたくし上げて。
「う、うわあああああっ」
俺は慌てて自分の両目を覆う。
「先輩? どうしたんですか?」
「瀬名、人間になったのならもうちょっと恥じらいを、だな……」
「言われた通り下着を身に着けていますよ? 何がいけないんですか?」
いぬには難しすぎたらしい。
「お、おなかは服の上から撫でるから、それじゃダメか?」
「む……直接撫でてほしいです」
瀬名はしぶしぶワンピースを元に戻す。
服越しにおなかに触れると、少しぷにっとした。……いや、これは常識的な範囲だ。特段鍛えていなければ、女の子はこれくらいはぷにっとするものだろう。
「わう」
瀬名はおなかを撫でられてうれしそうにしている。
「なでなでは瀬名のごはんです。これがないとひもじいです」
「あはは、いっぱい撫でるよ」
* *
「先輩、ここの『なまえ』ってなんですか?
自由帳を見ていた瀬名が、不意にそんなことを尋ねてきた。
彼女が指差しているのは、表紙。
名前を記入する、空白の欄だ。
「自分の持ち物には、名前を書くんだよ。そうすれば他の人が見ても、誰のかわかるだろ?」
鉛筆を渡すと、瀬名は神妙な顔で握る。そういえば、字の書き方を教えたことはなかった。書けるのだろうか。
丸っこい文字で、「せな」と書く。
「字が書けるなんてすごいじゃないか!」
「わう。これくらい当たり前です」
得意げな顔をしている。
漢字の「瀬名」の書き方も教えようかと思ったが、まずは平仮名を書くのに慣れてからだろう。「名」はともかく「瀬」はむずかしいしな……。
「わふふー、瀬名、瀬名の名前が好きです。先輩からもらった大切な名前です。瀬名は瀬名です」
* *
翌日。家に帰ってから冷蔵庫を開けると、プリンが一個残っていた。
手に取ると、黒のマジックペンで、「せなの」と書いてある。この丸っこい文字を見なくてもわかる。瀬名が書いたのだ。
別に名前を書かなくても、取って食ったりしないのに。
「わう―」
瀬名は床にうつぶせになって、脚をぱたぱたさせながら絵を描いている。
自由帳の上には、俺の似顔絵が出来上がろうとしていた。
「先輩の絵を描いてると、先輩がいなくても少しはさびしくない気がします」
「せ、瀬名……」
なんてけなげなんだ。なるべく瀬名と一緒にいる時間を作ろうと思う俺だった。
* *
「ふわああ……」
朝。あくびしながら、洗面所に向かう。
鏡を見ると、俺の左頬に「せなの」とマジックペンで大きく書かれていた。
「せ、瀬名!?」
こんなの、誰が書いたか一目瞭然だ。
俺は慌てて部屋に戻るが、肝心の女の子はきょとんとした顔をしている。
「わう?」
「瀬名、人の顔に勝手に落書きしちゃダメじゃないか!」
「落書きじゃないです!」
途端、むくれる瀬名。
「先輩は瀬名の先輩です。だから書いておくんです。誰にも取られないように」
そうか、自分のものには名前を書くよう教えたんだった。
しかし彼女の行動は、幼い勘違いではなく、もっと違うものに起因しているような気がする。
「瀬名はうちの子だけど、どこにも『先輩の』なんて書いてないじゃないか」
「わう。別に書いてもいいです。瀬名は先輩のいぬですから」
「それはさすがに……」
「先輩は瀬名に首輪を着けますが、それは瀬名が先輩のいぬだってわかるようにするためでしょう?」
確かに、散歩中もし瀬名とはぐれてもいいように、首輪には俺の連絡先をつけていた。
「でも、今は首輪をはめてないだろ? 別に一々書かなくたって瀬名はうちの子だし、俺は瀬名の先輩だよ」
「わう……」
瀬名は抱きついてくる。
「先輩は瀬名のです。絶対に誰にも渡さないです」
「心配しなくたって、大丈夫だって。瀬名、勝手に人の身体に文字を書くのは良くないことなんだ。だから、もうしないって約束できるか?」
「はい……」
瀬名はしぶしぶうなずいた。
「じゃあ、瀬名が書いた文字は、瀬名が消すんだ」
「……わう」
なんだかんだで聞き分けのいい子なので、瀬名は水と石鹸で、文字を落とそうとし始める。
石鹸で泡だらけになった白い右手が、俺の頬に触れる。
「……先輩は瀬名の先輩だし、瀬名は先輩のいぬです。文字がなくなっても、それは変わりません」
「ああ、そうだよ」
「わう」
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